018 : お見事





『つまりそれがどういうことかと言うと』
 声はロシアのすぐ後ろから聞こえてきた。ぞくりと背筋を走る冷気は心理的なものではなく、文字通り凍てつく寒さがもたらした肉体的な反応だった。
 直前まで気配を感じさせなかった場所から聴こえてきた声は、濁り、しわがれている、初老の男特有のものだった。大声ではなく、むしろ吹雪の中では消えてしまいそうなほど小さな音でしかない。しかし、彼の声は不思議とよく響き、他者を圧倒するプレッシャーを備えていた。ロシアの耳にも男の声は、はっきりと聞こえていた。
「このまえの話?」
 老人とは対照的に、まだ幼かったロシアの声は弱く、吹雪にかき消されてしまいそうだった。聞こえただろうか? もう一度繰り返そうかと思った頃、背後の声は『そうだ』とロシアの言葉を肯定した。
『おまえは恐れる必要などない。そう私は言いたいのだよ』
「どうして?」
 思わず振り返ったロシアの視界には、一面の真白い光景しか映らなかった。気温は氷点下を割り、永遠に思えるほど長いあいだ雪が降り続き、そして老人の訪れと共に嵐のように激しい吹雪が周囲に満ちたせいだった。
 冬将軍と呼ばれるブリザードを伴った厳しい寒気は、この地で暮らすものであれば誰にとっても畏怖の対象だった。極寒が人を易々と死に導く大地において、彼の存在を恐れない者はいない。もちろん、ロシアも例外ではない。しかし同時に、老人はロシアにとってこれ以上は望むべくもない強力な守護者でもあった。幾度となく幼いロシアを導き、助けてきたのは間違いなく彼だった。
 その頃のロシアはまだ十代にも満たない外見をした少年だった。国としての黎明期を迎えようとしていた頃の、世界のことなどほとんど知らない、幼いばかりの子供だ。
 ロシアが初めて老人と出会ったのは、それよりもさらに幼い頃だった。今と全く変わらない顰め面をした老人は、やはり今と同じように、何の気配もないままロシアの前に現れ驚かせた。ロシアは凍てつく寒さに震えながら老人を恐れたが、同時に彼がこれ以上もない味方だということも漠然と感じとっていた。
 ロシアの思った通り、彼は一人で震えていた子供に寄り添い、長い冬を過ごした。ロシアはほとんど彼に育てられたと言ってもよいほどだった。そうして初めての冬を共に過ごした後、彼はふらりと去っていった。老人は、現れた時と同じように何の気配もなく唐突に去っていくのが常だった。それは些か奇妙とも言えるほど突然で、話の途中でいなくなってしまうことも度々あった。まだ他者との距離に慣れていないうちは、自分が何か彼の機嫌を損ねるようなことをしたのだろうかと不安に思ったこともある。しかし、老人はロシアの不安をやんわりと否定しながら言った。
『私は逆らえないのでね』
「なにに?」
『私の望むものにだよ』
 だから、来たい時に来て去りたい時に去る。そう言った老人の言葉に、幼いロシアは首を傾げた。すると彼は珍しく優しい笑みを浮かべて言った。
『誰しも、生きている限り避けて通れない道のことだ。それはおまえだって例外ではない』
「さむい雪のこと?」
 逆らえないと聞いて真っ先に思い浮かんだのは、凍てつく大地を覆う雪のことだった。この地では雪こそが彼らの支配者であると言っても過言ではない。逆らうことなど思いもよらない絶対的な君主だ。
 しかし老人は、違うと首を振った。
『寒さは確かにこの地の支配者ではあるが、ロシア、おまえを支配することは出来ない。何故なら、おまえ自身の芯がこの地に等しく力あるものだからだ。それが逆らえないということだ。おまえの奥にある、おまえ自身の核のようなもの。そういうものが、この地の厳しさには屈しない。逆うことを許さない。そしてまた、おまえ自身も逆らうことが出来ない』
 老人の話は随分と概念的で、まだ幼いロシアの理解の範疇を超えていた。眉を寄せて難しい顔をしたロシアに、老人は慈しむように言った。
『いずれは分かるのだろうな』
 そして絶望するに違いあるまいよ。
「どういうこと?」
 トンと、服の上から胸に手を置かれた。細い、枯れ木のような腕だが、しっかりと力のある触れ方だった。
『おまえの芯はとても冷たいものだな』
 そういうものは他の誰とも相容れない、孤独なものだ。
「僕は、みんなと仲良くなりたい」
『ふむ、その言葉が嘘だとは思わんよ。お前の偽りない本心だろう。だが、そうだな。おまえはいずれ心に屈するよ。あるいは、原始に。私が私の望むものに逆らえないのと同じ理由で、おまえもおまえ自身の声には逆らえまい』
 老人は根気よく諭すように静かな口調で言った。しかし、子供のロシアにとっては首を捻るばかりだった。何を言われたのだろう。よくわからない。でも、とても悲しいことを言われた気がする。ロシアは瞳に涙を溢れさせて老人を見上げた。
「僕はわるい子なの?」
『良い悪いではない。そういう事も、いずれわかる時が来る』
 だから、と老人は彼の氷よりも冷たい手をロシアの頭の上に置いて撫でた。
『おまえは何も恐れる必要はないのだよ』



 それは非常に稀なことではあったが、ロシアはその時、老人が自分の前に現れるであろうことを、たとえほんの数秒とはいえ、事前に察知することが出来た。吹雪と共に姿を見せた冬将軍は、ロシアが彼を揺るぎ無く捕らえた視線に少しだけ驚いて目を丸くしたが、すぐにいつもの顰め面に戻った。
『随分と久しぶりだな』
「会議があったんだ。サミット。僕も今年から加わることになったんだよ」
 ロシアの声は昔とは違い、声変わりも終えた青年らしいしなやかな覇気があった。老人は無言のまま深々と頷いた。
 彼の目線は、今ではロシアよりも下にあった。いつ頃からこの人より大きくなったんだっけと思いながら、それでもロシアが老人に感じる畏怖や親愛の情には昔から一片の変化もなかった。
『実りのある会議だったか?』
「うん。楽しかった」
 ロシアは屈託なく答えたが、すぐに声のトーンを落とした。
「でも、難しい話もあったよ。北極海の制海権とか」
 思い出した話題は、随分以前から続く喧騒の種だった。北極海に面する周辺国、特にイギリスや、珍しいことにカナダも、強硬姿勢で自国の領海を主張している海の縄張り争いのことだ。
 やっかいだなとロシアは目を細めた。この二国が出てくると、次はアメリカも引っ張り出されることだろう。彼らに頼まれれば、あのヒーロー面したいけ好かない男も、しぶしぶ首を縦に振るに違いない。いや、それとも自分から首を突っ込んでくるだろうか。自国の覇権の拡大には余念のない彼のことだ。そうなったところで不思議ではない。まったく、何につけしゃしゃり出てくる厄介な男だ。一度痛い目に合わせてやろうか。正面きって対立するわけにはいかないが、なに、やりようがないわけじゃない。正義。それが彼の足をすくう、ほとんど唯一と言ってもいい弱みだ。単純で一貫した論理は容易な構造であるだけに突き崩すのは難しい。しかし、逆に一度穴を開ければ後の崩壊は簡単だ。内側から彼をずたずたに傷つけて、しばらく立ち上がれないようにしておくことだって、難しいが不可能ではない。
 ロシアはふと自分を見つめる視線に気がついた。
「何?」
『厳しい顔をするようになった』
「よく冷たいって言われるよ」
『私には満足そうに見える』
 ロシアは肩をすくめた。否定のしようがないね。まあ隠せるとも思っていなかったけど。何せ、老人とロシアとの付き合いは驚くほど長いのだ。泣いてばかりいた子供の頃から、彼は自分と共にいる。
 ロシアは、遠い昔に老人が言った言葉を思い出した。
「確かにあなたの言う通り、僕は満足しているのかもしれない。冷たい、と揶揄された時は悲しかったけど……でもそれからだから。僕が今のような道を歩み始めたのは、全部それからのことだから」
 畏怖され、逆らうものには容赦せず、そうした苛烈な厳しさが、穏やかさを差し出し、引き換えとしてロシアが手に入れたものだ。
「そういうものが、きっと僕自身をあらゆる苦難から守るんだろうと思う」
 銃を手に取り他者を傷つけ歩む道のり。日本に言わせれば業が深いというところか。だから、もしかしたらそれは。
「……もしかしたら、僕自身を殺すことになるのかもしれないけど」
 そういう諸刃の剣になるかもしれない。
 ロシアは首を傾げた。どうなるだろう。どちらになるだろう。この僕という存在の根源。芯。それは凍てつく寒さと切り離せない。そういう寒さがこの大地にもたらす恩恵と害悪は僕自身において何に変化するのだろう。日の光を遮る鉛色の空。もう長い間見ていない褐色の大地。その上を覆う白い雪。銃を手にしてその上を彩る真紅。そしてさらにその上から何もかも消し去るように雪が積もる。
 綺麗なものも、醜いものも含め、そういうことのすべてが僕なんだとロシアは考えた。そうだというなら、自分はこの大地にいったいどういう影響を及ぼすのだろう。今まで何度考えてみても結論は出せなかったし、きっとこれからも出せないままだろう。どうなるかなんてわからない。だから、今はただ良い方向に向かっていると信じて歩き続けるしかない。
 だから、そう。つまりこれは、そういうことなんだ。
「どうにも、あなたは回りくどくていけないや」
 ロシアはおもちゃを取り上げられた子供のように、拗ねた顔をした。
「初めからこう言えばよかったんだ」
 遠まわしになど言わずに。
「『この極寒こそが僕そのものだ』」
 良かれ悪しかれ、寒さが与えるすべてがこの大地と共にあり、つまりロシア自身であるということだ。
「それを嘆いたこともあったけど」
 絶望のような気持ちになったこともあったけど。今ではロシアはそういうものの全てを受け入れていた。そして、他者を圧倒する強大な力を手に入れている。
「だから、僕はもう恐れないよ」
 屈託なく笑ったロシアに、老人はすっと目を細めて笑い返した。そうしているとまるで厳しさの欠片もない好々爺みたいだとロシアは思った。
「ロシアさん?」
 声を掛けられるまで、ロシアはリトアニアの存在に気付かなかった。振り返ると、鳶色の髪に鮮やかなグリーンの瞳の青年が、開け放してあった窓の内側から、バルコニーに立ち尽くしているロシアを遠慮がちな顔で見上げていた。
 リトアニアの手元にある書類を見て、ああ、そういえば仕事が山積みだったっけとロシアは思い出した。もう行くよと伝えようとして老人の方を振り返ったが、その時には彼の姿はすでにどこにも見当たらず、それどころか気配すらなかった。
 また唐突に行ってしまうんだと寂寥感に襲われたが、それも慣れたことだった。誰かいたんですかと首を傾げるリトアニアの問いは適当にはぐらかし、戻ろうかと言って歩き出す。リトアニアはロシアの後に続こうとしたが、すぐに足を止めて雪の降る白銀の景色に視線を向けた。ロシアは訝しげな表情をしているリトアニアを振り返った。
「どうしたんだい?」
「いえ、その……今なにか声がしたような?」
 ロシアは口の端を上げ、無言で笑った。
「気のせいじゃないかな」
 そう言って踵を返すと、今度はリトアニアも素直に後をついてきた。
 歩きながら、ロシアは考えた。絶対的な極寒を持つ場所、それがこの大地だ。 その寒さには誰も逆らえない。反逆しようとした者はただ一人の例外もなく痛い目に合う。 まったく、わかっていない。逆らう必要なんてないんだ。だって無駄だもの。 そんなちっぽけな抵抗なんて命ごと呑み込んでしまうのが極寒なんだから。無慈悲に人を殺す冷たさ。 根源的な恐怖。畏怖される存在。つまり、今では僕自身がそうということだ。僕は力を手に入れた。 そして足かせのように僕を縛るもの。それが孤独。そう、圧倒的な孤独だ。 たった独りで立ち尽くす寂しさや嘆きが僕と共にある。辛いと泣いたことだってあった。 苦しいと思ったことも数えきれない。しかし、結局のところ、それだけだ。嘆きも悲嘆も、 生きていればこその特権だ。ああ、僕は生きている。歩いている。ここに存在している。 極寒を武器に、僕は望むものを手に入れた。それは本能のようなものだ。だから逆らえない。 老人の言った通り、これは僕自身の内側から渇望する声に導かれて選んだ道ということだ。
 そしてロシアは表情を緩めて、リトアニアが聞いたという声を思い出した。 それは、短いながらも力強く、優しい言葉だった。
『お見事』
 掻き消えるように吹雪が去る前に、ロシアの耳には老人の言葉がはっきりと届いたのだ。






( 2008.06.01 )