032 : ため息も出やしない





 目の前をケイの長く伸ばしたミストグレーの髪が横切った。
 一瞬のちに、彼女が壁に叩きつけられる音と、痛みに呻く声が聞こえてきた。 反射的に振り返ろうとしたキーラだったが、かろうじて踏みとどまった。 ここで後ろを見せてはいけないという激しい警告が脳裏に鳴り響く。
 左手を拳にして腰の隣に置き、右手を地面と自身の体から水平に構えて、 どんな攻撃が来ても対処出来る姿勢を取る。軍事学校で教わったマニュアル通りの型だったが、 使い慣らした型だけあってそれなりに有効でもあった。
 しかし対峙する相手は対照的に全身の力を抜いてへらへらと立ち尽くしていた。 一見すればふざけているようにも見えたが、彼の視線は油断なくキーラを伺っている。 瞳はギラギラと輝いて、普段よりもずっと剣呑さを増し、燃えるような赤毛は猛々しい気性を 象徴しているようだった。
「‥‥っこのっ、っざけん‥じゃ、ないわ、よっ‥!」
 背後から途切れがちなケイの悪態が聞こえてきた。彼女にしては珍しく口汚い言葉で罵りながら、 ふらふらと立ち上がりキーラの隣まで来る。
「ケイさん、大丈夫ですか?」
「‥‥ワタクシより、あなたの、方が‥大丈夫なの?」
 平気ですとは返したものの、それは事実とは言い難かった。 すでに体のいたるところが痣だらけで、口の中は鉄くさい血の味で充満している。 視野が狭いのは、先ほど顔を殴られた時に腫れ上がったせいだろう。 鏡を見るのが怖いと場違いなことを考えてしまうのは余裕というより、 気圧される焦りからだった。
「そろそろ行くぞ、と」
 涼しげな声が聞こえてきたかと思うと、赤毛が視界から揺らいだ。 咄嗟に背後へと退いたのと、右手に強烈な痛みが走ったのは同時だった。
「‥‥っ!」
 悲鳴を上げて腕を庇おうとする動作は本能だった。それを理性を総動員して押さえつける。 駄目だ、痛みなんかに構っている暇はない。右手は捨てるべきだと判断し、 強引に痛みを無視して押し返す。それが意外だったのか、彼の瞳が僅かに見開かれた。 その一瞬の隙に左手で眼前にあるスーツの襟を掴み、相手の体勢を崩そうと力を掛けた。
「キーラっ!」
 ケイの悲鳴のような声が聞こえた。だが、どうしたのかという疑問はすぐに霧散した。 ただし、それは何が起こったのかを理解出来たからではなく、 頭部への激しい衝撃で意識が暗転したからだった。



「二人まとめて五分だぞ、と」
 ようやく意識を取り戻したキーラに告げると、彼女は呆然とした顔で、 たったそれだけ、とレノの言葉に絶句した。
「もっと経ったかと思ったのに‥‥」
「まったくよ、半日ぐらい戦ってた気分だわっ!」
 ケイが憤慨した口調でくってかかる。不満そうな瞳は痛めつけられたばかりにしては勝気だったが、 すぐに痛みに顔を顰めて引き下がった。
 それはそうだろうと誰が見ても納得する程、彼女達は見ていて痛々しいほど 全身傷だらけだった。腕一本動かすのも苦痛なのか、動作は緩慢だ。 だがもちろんそれを口に出すような不用意な真似はしない。 そんなことをすれば、ここ数週間のうちにすっかりレノの代名詞となった サディストという有り難くない言葉で罵られることになるからだ。
 彼女達を叩きのめすのはこれで何度目だろう、とレノは考えた。 まったく、面倒なことだと、こっそりため息をつく。 それもこれも、ツォンが悪いのだと考えるように、 事の発端は彼女達のトレーニングの相手をしてやってくれという彼の言葉からだった。
「はぁ?何でオレなんですか、と」
 素手での戦闘ならルードの方が適任だろうと反駁すると、ツォンは首を振った。 ルードは女を相手にするには向かない。あれで案外常識人だからな。その点、レノ。 おまえなら女だろうが子供だろうが容赦ないだろう。
「‥‥何かそれじゃあオレがヒドイ奴みたいだぞ、と」
 ツォンは返事をせずに口の端を上げて薄く笑った。むっとしながら眉を寄せると、 それだけじゃないとツォンは続けた。
「彼女達には『おまえのやり方』の方が合っている」
 それは確かにツォンの言う通りだとはレノも思う。ルードのようにウエイトのあるタイプと、 レノのように痩身なタイプでは重視するものが違う。重視するものが違うということは、 基礎とする型が違うということだ。教えるならレノのやり方の方がいいという彼の考えは正しい。 ああ、確かにオレの方が合っているのだろう。
 とはいうものの、それはあくまでも理屈一辺倒な考えに過ぎない。 目を細めてツォンを伺いながら内心頭を抱えた。この人は本気でオレに 指導をさせようと考えているのだろうか。我流で好き勝手にやってるオレに他人を導けと?
 レノはかぶりを振った。ツォンさん冗談キツイですよ。とても正気の沙汰とは思えない。
「何も本格的に教えろと言っているわけじゃない。二人とも基本は遠距離タイプだし、 今さらそれを変えるつもりもない。ただ、接近戦に持ち込まれた時に、 対処出来るだけのスキルを身につけさせたい」
 上の人間は色々考えることが多くて大変だと考えながら、ふん、とレノは気のない返事をした。 だが、それは遠まわしな了承でもあった。
 嫌がらせに一度、大きくため息をつく。もっともツォンがそれを気にするかと言えば、 欠片も気にしないに違いない。だからこれはただの自己主張のようなものだ。 レノのささやかな反抗。結局引き受けざるを得ないことは、話し初めから決まっていたようなものだったので。  自分に他人を教えることが出来るとはとうてい思えない。 だが、ツォンの人を見る目にはそれなりに信頼を置いていた。 まだレノが今よりずっと若輩だった頃、決して気の合う相手とはいえない ルードと組まされた時のことは今でも覚えている。あの時も、 レノはツォンに正気の沙汰とは思えないと、今と全く同じセリフで抗議したのだ。 だがツォンは聞く耳を持たなかった。
 今では彼の判断は正しかったと認めざるを得ない。 稀有な相棒だとルードを認識できるようになったのは、間違いなくツォンの采配のおかげだった。
 だからもしかしたら、今回もそうなるかもしれない。もしかしたら。可能性はとても低いと、 レノ自身は思ってはいたが。
 しかし、一つ釘を刺しておかなければならないことがある。
 ツォンの言う通り、レノは女だからといって手加減するような性質ではない。 敵として対峙すれば意識を失うまで殴ろうが、はずみで殺してしまおうが罪悪感は さほど感じない方だった。タークスに入ってから、昔のようにベクトルの滅茶苦茶な 暴力は治まったとはいえ、長年培ってきた性質はそう簡単には変わらない。 トレーニングと理解していても、うっかり反撃でもされた日には手加減できるかどうか。
「傷だらけにしますよ」
 顔だって遠慮なく殴りますからと続けたが、ツォンはあっさり首を縦に振った。
「結構だ。むしろ、その方がいい」
 あれでなかなか二人とも気性の荒いタイプだから、そのぐらいの方がやる気になるだろう、 というのが彼の返事だった。
 ケイに聞かせてやりたいセリフだとレノは思った。 サディストというなら自分よりツォンの方がよっぽどその名に相応しいのではないだろうか。 ああ、そうとも。この男には新人だった頃のレノを散々痛めつけた前歴だってある。 今ではそんな気性はおくびにも出さないのがまた忌々しい。
 そんな風に、半ば成り行きで引き受けた仕事だったが、実際にトレーニングを始めてみると、 思ったよりも積極的に取り組んでいる自分に気づいた。
 すぐに音を上げると思った当の二人も、しっかりと食らいついてくる。
 ツォンの言う通り、彼女達は猛々しいタイプだということを理解するのに、 そうは時間はいらなかった。我が強く、誰であろうが突っかかってくるケイはもとより、 普段は礼儀正しく穏やに見えるキーラですら、いざ対峙すると容赦のない攻撃を仕掛けてくる。
 とにかく負けん気が強い。初日に二人を叩きのめした時には片手で相手をしていた余裕が、 今では嘘のようだ。たった数週間で驚くほどの上達を見せた二人に、レノは心躍る自分を自覚した。
 基礎トレーニングは出来ている。飲み込みも早い。負けず嫌いで、 何度やり込められてもすぐに起き上がってくる。なるほど、彼女達の格闘センスも そう悪いものじゃない。
 これは楽しいかもしれない、とレノは思い始めていた。
 眼前の傷だらけの二人を見る。思いきり殴ったり蹴ったりしたのだから、二人ともぼろぼろだ。 しかし、その瞳だけは違う。あれほど痛めつけられたというのに、少しも傷ついてはいない。 怯えてもいない。その瞳の輝きこそが、彼女達に無謀とも勇敢とも言える、 ある種の精悍さを与えていた。両者の境目はレノにはわからない。 案外、どちらも似たようなものかもしれない。
「レノさん、明日はどうしますか?」
「んー‥ああ、そうだな」
 明日もトレーニングを行うようなら、そろそろ切り上げた方がいいだろう。 しかし、明日は確か別の任務の予定があったはずだ。
「ま、しばらく先にするかな、と」
 するとケイが丁度良かったと、嬉しそうな声を上げた。
「明日はシンと出かける予定なのよ!」
 途端に女同士の華やかな話題が始まり、レノは舌打した。 まったく、そんなぼろぼろの格好でデートの予定か?
「なら早めに傷を治しといた方がいいぞ、と」
「誰がやったと思ってるのよ、このサディストっ!」
「レノさん、ちょっと無神経ですよ」
 猛然と言い返されレノは肩をすくめた。全く、女ってのは切り替えが早いというか、 打たれ強いというか、滅多なことでは壊れない図太い生命力がある。 だが悪いことだとは思わなかった。ぎりぎりまで疲弊し、追い詰められた時には、 彼女達のそういった性質は強力な武器になるに違いない。考えてみれば女というのは 不思議な生き物だった。こんなに脆弱で苛烈で強かな命があるなんて信じられない。
 折れそうなのに、弱そうなのに、決して屈しようとはせずに、最後には何でも自分の 思い通りにしてしまう。手段だって選ばない。強引に乗り切ったかと思えば泣き落としてみたり、 あらゆる手を使ってこちらを陥落しようとする。
 それとも、そういう性質を持っているのは彼女達だけだろうか。 キーラやケイが、特別そういう人種なだけで、女が全部そういうものではないのだろうか。
 いや、違うだろうとレノは思った。確かに彼女達のそういう部分は人よりも色濃いだろうが、 特別というわけではない。
 だからもしかすると、女というのはタークスには向いているのかもしれなかった。 よっぽど、オレよりは、と思ったレノは密かに嘆息した。
 冗談だろう。今さらそんなこと。
 タークスであることは、すでにレノのアイデンティティと同義だった。 だから今さら向いていないと言われても困る。
 再びため息をつく。窓に寄り、眼下を見ると、そこには薄明かりに照らされた市街地が見えた。 整備の行き届いた綺麗な街。だがその下にはスラムがある。以前はレノのフィールドだった場所だ。 だがそれはあくまでも以前のことだ。今は違う。
「今はここだぞ、と」
 ぼそっと声に出すと、キーラが何がですかと尋ねてきた。 レノは軽く笑って、答えをはぐらかした。



 いつ見てもガラスのようだとレノが思う無機質な黒い瞳は、 ディスプレイで展開されている映像を食い入るように眺めていた。 動きはほとんどない。ツォンの思考の大部分は目の前の画面に集中している。 ほとんど警戒を感じさせず、無防備にすら見える姿だったが、実際はそうではない。 侮れば痛い目を見るのがこちらだということは、 すでに嫌になるほど繰り返した経験から学んでいる。
 映っているのは午前中に行われた戦闘演習の映像だった。 彼女達の動きは半年前とは比べ物にならないほど、格段の違いがある。 素人目でみても上達具合は明らかだろう。観察眼の厳しい彼の目にも、 それなりの評価があることをレノは疑わなかった。
「これがスコア」
 一覧になったファイルをツォンに渡すと、彼は一枚目から丹念に目を通し始めた。
「この程度やれりゃいいと思いますけどね、と」
 基礎だけは叩き込んでやりましたからと続けると、ツォンは頷いた。
「ご苦労だった」
「‥‥はいよ、と」
 半年間苦労をさせられた割には、たった一言ねぎらいの言葉しかない。 だがそれに文句をつけようとした途端にツォンが顔を上げた。
「楽しめただろう」
「‥‥‥‥」
 彼女達の上達を、おまえは楽しんだろうという、言外に示唆された言葉にレノは渋面を作った。 自分のノウハウを誰かに与えることや、見込みのある者に教える喜び。 レノがすでにそれを知っていることを、彼は見抜いているようだった。 レノは反撃の言葉に詰まり、舌打ちした。
 なんだよ、面白くない。せいぜい恩を売ってやろうと思ったのに。
 だが、ふと思う。楽しんだと、それはこの男もそうだったのではないだろうか。 昔、まだレノがタークスに放り込まれた時、今よりもずっと短気で手のつけられなかった自分と この男のやり取りを、ツォンはレノが感じているものと同じような感覚で楽しんでいたのでは なかったのだろうか。
 そうだ、自分は確かに手のかかる厄介な男だったが、誰よりも優秀で、 見込みのある人物だったはずだ。
「あんたも楽しんだ?」
 言葉にするとツォンは眉を上げ目を細めてレノと視線を交わらせた。 その瞳の中から彼の本音をすくい上げてやろうとしたが、ツォンは軽くいなした。
「まあそれなりにな」
 楽しんだと言えば楽しんだのだろうと続ける。
「二度と生意気な口を利く気にならないよう、叩きのめしてやろうと思ったこともあったが」
「‥‥思った?」
 レノの記憶を探れば、それは思っただけにはとどまらなかったはずだ。 両手足を容赦なくへし折られて悲鳴を上げている自分を睥睨していたのはどこの誰だった?
 まあ、確かにその前に自制を無くして彼の腕を折ったのは自分が先だったかもしれない。 だが、それにしたってあの時のツォンは反則だとレノは今でも思っている。 そうとも、キレるならキレるでそれらしい素振りを見せるべきだ。 顔色一つ、眉一本動かさないまま、黙って突然叩きのめされる こちらの身にもなってみろというのだ。
「ふん、そんなこと言って。オレみたいなイイ生徒はそうはいないぞ、と」
 自分以外の誰も、彼の過激さにはついて行けまい。それだけでもオレは優秀だったのだと レノは自慢でもしたいような気になる。
「よく言う」
 ツォンは呆れたように言った後に、 ふいにそれまでとは違う、何かを考え込むような声を出した。
「おまえを『あの時』に撃ち損じたのは失敗だったと何度考えたか知れないさ」 
「あの時‥‥?」
 はて、と眉を寄せる。ツォンに銃を向けられた事はあったが、 実際に発砲された事はあまりない。ましてや撃ち損じるような真似を彼がしたこと などあっただろうか?首を傾げたレノだったが、ツォンの視線が自分の左肩へと 注がれているのに気が付き、目を見開いた。
 途端に全身が総毛立ち、ガンと頭を殴られたような衝撃が走った。 目まぐるしいほどにあらゆる情景を伴って蘇る記憶は、もう十年近くも昔のことだというのに、 鮮烈さには些かの色褪せもない。
 さっと自分の左肩を押さえる。今はもう何の痕も残っていないその場所に、 かつて銃創があったことを知っている人間は、そう多くない。 脳裏を過ぎるのは薄汚いスラムの一角と、鳶色の髪を持った壮年の男だった。 激しい衝撃と痛み。目も眩むような屈辱に歯軋りをしているのは、今よりも若いレノだ。 血の溢れる肩を押さえ、次の狙撃が来ないうちにと逃げ出した敗北感。 今にも背後から頭を撃ちぬかれるのではないかという恐怖は容易には忘れられない。 殺してやると呪詛のように繰り返し呟きながら、鳶色の髪の男を呪い、 姿を見せないスナイパーを憎んだ。
 記憶の底の、それまで空白だった場所に色が入る。そのあまりの違和感のなさに、 それこそがまぎれもない真実なのだとレノは直感的に理解した。
 引きつった顔をツォンに向けると、彼は珍しく楽しそうな、 レノにしてみれば意地の悪そうにしか見えない表情を浮かべている。
「気付かなかったか?」
 とっくに知ってるものだとばかり思っていたがとツォンはニヤリと笑った。
「‥‥っ!あ、あんたっ!!」
 声が裏返る。何か罵る言葉を出そうと思っても言葉が出てこない。
「ライフルの扱いは苦手でな。あれはどうも私とは相性が悪くていけない」
 咄嗟だったからストックを固定せずに撃ったのもよくなかった。 おかげで赤毛を一人殺し損ねたと言い捨てたツォンは、 もうレノには一瞥もくれずにそのまま書類仕事に没頭し始めた。 その姿には一片の動揺もない。感傷も、同情も、何も。 レノにはもう一切の興味を失くして彼は自分の内側から締め出している。
 こんな、レノにとっては天地がひっくり返るような屈辱的な過去の亡霊も、 彼にとっては何ということのない記憶の断片でしかないと宣言されているようだった。
 何てことだ、とレノは呆然と呟いた。あまりのことにため息も出やしない。
「絶対、ツォンさんの方がサディストだぞ、と‥‥」
 負け惜しみのように呟く言葉を残して、レノは部屋を後にした。 途中で見知った禿頭に声を掛け、今日は飲みに行くから付き合えと誘うと、 彼は声を立てて笑った。
「やり込められたな」
「黙れよ、と」
 普段は無口なくせにこういう時ばかり言葉を惜しまないのだから性質が悪い。
 タークスというのはどいつもこいつもこんな意地の悪い奴ばかりだと、 レノは自分のことは完全に棚上げして毒づいた。
 隣で声を上げて容赦なく笑う相棒に眉を寄せながら、 今日はいつもよりピッチを上げて飲んでやると、カナリア色の苦い液体に思いを馳せながら、 レノはこっそり胸に誓うのだった。







 嘘。ツォンさんはわざと外して撃ったんです。今回のはただのレノいじめ。
( 2007.02.04 )