033 : 生きてて良かった





 久々に見た男は、ぐったりと全身を弛緩させ、意識を失ったままイギリスの前に連れてこられた。彼の両脇を支えていた部下に、その男を椅子に座らせるように指示し、二人にさせてくれと言って下がらせる。ドアが閉まり室内に静寂が訪れた頃、イギリスは未だ意識を戻すことのない男を見ながら考えた。
 彼に会ったのは何年ぶりのことだろう。男は相変わらず綺麗な漆黒の髪だったが、よく見ると根元の方はわずかに白くなっていた。今さら年齢の片鱗が外見に表れたというわけでもないだろう。確かに彼は老国ではあるが、体はずっと以前から青年に差し掛かったままの若い風情を保っている。イギリスに言わせれば少年と言っても違和感はない。考えられる原因としたら極度の疲労か。あるいは肉体に受けたダメージのせいかもしれない。
「菊……」
 名前を呼んでも日本は反応しなかった。ぐったりとした体は、まるで死んでいるようだ。微かに胸が上下しているところを見ると息はしているようだが、それも今にも止まりそうなほどか細く弱い。触れようと手を伸ばしたイギリスは直前で動きを止めた。体ごと手を引き、もう一度俯いたままの彼を眺める。
 こうして、日本の見るからに疲弊した姿を目にしてようやくイギリスはすべてのことが終わったのだと実感出来た。終わった。辛く苦しいばかりの戦争がようやく終わった。それなのにこの鬱々とした気持ちはなんだろう。俺はもっと喜んでもいいはずなのに。
 しかし何度考えてみても勝利の喜びはさほど湧かず、むしろ苦々しさだけが前面にあった。だが、それはもちろん悔恨というわけではない。これでよかったのだという思いは確かにある。イギリスは自分が間違っていたとは少しも考えていなかった。
 理性と情が混在し、思考と思想の入り乱れる。そんな混沌とした精神の中で、たった一つだけはっきりしていたのは、日本が生きていることに対する安堵だった。膝を折らせたいだけだった。殺したかったわけじゃない。
「生きてて良かった」
「……戯言を」
 思わず背筋に悪寒の走った声は地の底から響いてくるような根深い憎悪に塗れていた。ぎくりと身をすくませて日本を覗き込むと、さきほどまで瞑られていた目が薄く開き、ガラスのように無機質な瞳がイギリスを見返していた。
 東洋人の表情はよくわからない。特に日本は喜怒哀楽をストレートに見せないので何を考えているか読み取ることが難しい。しかし、今だけは別だった。日本の表情は常と同じように凡庸だというのに、彼からは間違えようもない激しい負の感情が渦巻いていた。
 億劫そうに椅子から体を起こした日本は、すぐにバランスを崩して倒れこんだ。忌々しそうに目を細めながら悪態のひとつも口にしない。それが彼のプライドなのだろうか。あるいは、ただそういう性質なだけなのか。
 昔から私的なことはほとんど言葉にすることのない男だった。そのくせ、一度語りだすと憑かれたように長々と話しだす面も持っていた。ミステリアスというより、イギリスの正直な印象としては不気味だった。日本が理解出来ない、まるで違う世界の生き物のような気がした。人種的なことも影響しているのだろうか。そうかもしれない。もっとも、その油断が緒戦の惨敗に繋がったのだから、イギリスとしても大いに反省するべきところではある。
 穏やかでこちらの言い分を受け入れるばかりだったと思い込んでいた青年は、誰もが予想し得なかった凄まじい反撃の刃を振るった。それがこの戦いを長引かせた原因だった。ちっぽけで取るに足らない後進国。そんな彼が見せた、命のすべてを燃やし尽くすのではないかというほどの苛烈さ。
 まるで手負いの獣のようだと思った。追い詰められて、もうこうするしかないと腹をくくった死に物狂いの戦いだ。追い詰めたのはイギリス達だった。そう、俺だと思ったイギリスは違うと歯噛みした。
「おまえが、身の程知らずな野心なんて持つから……」
 だから悪いんだ。こうなったのも全部おまえの自業自得だ。
 イギリスの言葉に、日本はほとんど声を出さないまま笑った。それは明らかに嘲笑だった。野心? 私が? イギリスさんは本気でそう思ってるのですか? それともただの名目? どちらにせよ、なんと愚かで傲慢なこと。
 敗者の負け惜しみと切り捨てるには心の奥底まで響く言葉にイギリスは苛々と吐き捨てるように口にした。
「おまえの理屈だって、ただの名目じゃないか」
「そうですよ」
 あっさりと肯定された自分の言葉に、てっきり否定か反論が来ると思っていたイギリスは虚をつかれた。思わず日本を凝視するが、彼はイギリスの視線には目もくれずに窓の方へと顔を向け、外を眺めた。
 途端にそれまで特徴のなかった希薄な瞳に強烈な自我が現れた。
 ああ、と小さく嘆くような声が聞こえ、イギリスは日本の視線を辿った。
 窓の外にいたのは何人かの東洋人だった。おそらく日本人だと思うのは、周囲をアメリカの部下に監視されているからだ。敗戦国の人間らしいぞんざいな扱いだったが、そんな中にあっても彼らの立ち居振る舞いは臆するところがなく、威厳すらあった。
 何故だろう、彼らは負けたのに。何故あんな精悍な顔をするのだろう。首を捻ったイギリスだったが、少し考えてすぐに納得した。まだ戦っているからだ。彼らはまだ終わったと思っていないからあんな表情をするんだ。日本が負けたのは国対国の争いでのこと。彼ら自身の戦いは終わっていない。平穏という日常を取り戻していない。だからあの人間達は戦う顔をしている。それは菊もそうだ。日本を振り返ると、彼は決意に満ちた表情をしていた。あそこにいる人間達と同じだった。不思議なことだと思う。彼は国なのに。どちらかといえば、イギリスと同じ種類に属する男は、今はまるで人間のような表情をしている。
「おまえの負けだ、日本」
 彼らが降伏文書に調印すれば、日本は完全に敗北したことになる。今まで一度も他国に侵略を許したことのない国が、今まさに膝を折ろうとしている。負けだ、日本。おまえは負けたんだ。
 泣くだろうか。それとも怒るだろうか。どんな変化も見逃さないよう、睨むように日本を見たが、日本はどちらも選ばなかった。彼はすぐにいつもと同じ感情の読めない曖昧な表情を取り戻し、イギリスには何の動揺も見せなかった。室内に落ちた沈黙に先に耐えられなくなったのはイギリスだった。日本、と呼びかけると、彼はゆっくりとイギリスを見上げた。
「勝っただけです」
「なに?」
「あなた方は、ただ、勝っただけだ」
 言葉を区切り、小さな、しかしはっきりと意思のある口調で日本は言った。
「正義なわけじゃない」
 それは連合国に対する痛烈な批判だった。正義の名の下に日本と戦い、イギリスや他の連合国の忠告を全く無視して思う通りに力を振るった国に対する、ひいてはそれを止められなかったイギリスに対する批判でもあった。
 違うんだ、日本。正義を盾にしたのは俺の意志じゃない。だって、そんなものを持ち出して日本を悪にしてしまえば、おまえを滅ぼしてしまわない限りこの戦争を終わらせることが出来ない。だから違う。俺はずっと戦略的に戦おうとしていた。最小限の犠牲で済ますつもりだった。日本をここまで傷つけようとは思わなかった。そう、俺は正義なんて信じちゃいなかった。少なくとも俺は。わかってるんだ。誰もが自分の信念に忠実なだけだってことは。日本、おまえも。俺も。あいつだって。わかってる。だから正義なんてないことは、わかってるんだ。
「わかってない方もいらっしゃるでしょう」
 例えばあの人がそう。
「それを利用した方だって、いるのではないですか?」
 あなたのように。
 何だ、畜生、とイギリスは悪態をついた。何なんだよ、いったい。おまえは負けたのに。勝ったのは俺達なのに。何で俺がこんな気分にならなきゃいけないんだ?
 憤りのままに日本を面罵しようとしたイギリスが行動を止めたのは、彼が急に激しく咳き込んだせいだった。息を吸い込む度に喉の奥から不自然な音がして、イギリスをぞっとさせた。ざらざらと枯れた木の葉が擦れる音が聞こえ、日本の顔に苦痛の色が見えた。
「もう休め……」
 慌てて日本の背をさすりながら起き上がりかけた体を支える。すると日本はイギリスを覗き込んでこの場には似合わない不思議そうな顔をした。
「何故? まだ終わっていないのに?」
 ギクリとした。終わっていないとはどういうことだ。この期に及んで、まだ何かする気でいるのだろうか。途端に悪寒が走った。日本が誰かに何かをするとしたら、それはアメリカしかない。もちろんアメリカはほとんど瀕死に近い手負いの日本がどうこう出来る相手ではない。
 しかし、一太刀だけなら、もしかしたら今の日本でもアメリカを傷つけられるかもしれない。それは先までの戦いで日本自身が証明したことだ。追い詰められたものの見せる凄まじい足掻き。それをこの男はやってみせた。その一太刀が思いがけず深い傷にならないとどうして言えるだろう。死に物狂いの一撃が後に大きな禍根を残す致命傷にならないなどと、どうして言える?
 そうだ、いったい誰が想像しえただろう。太平洋で口火が切られた、ろくな資源のない極東の島国の挑んだ自殺行為と揶揄された戦い。それが、その後ほとんど四年近い歳月を大国相手に戦い続けることになろうとは。最後にはほぼ単独で世界を敵にして戦うことになろうとは。勇敢というには凄絶なほどの蛮勇をもって、捕虜になることよりも死に身を捧げることを厭わない国の覚悟とは。今更、何も出来ないかもしれない。でも何か出来るかもしれない。捨て身で、保身を考えずに立ち向かってくる者相手に、イギリスに何が出来るだろう。アメリカだって似たようなものだ。俺は日本を止められるだろうか。アメリカを守れるだろうか。いや、きっと無理だ。死を覚悟した者は何も躊躇わない。それはすさまじいポテンシャルを持って自分も周囲も奈落へと引きずり落とす力がある。
 しかし、日本はそっけなく言った。
「講和条約を締結させなければ、戦争は終わらないでしょう?」
 肩透かしをくらった気になりながら日本を見ると、彼はじっとイギリスに視線を向けていた。憤りでも怒りでも悲しみでもない顔は、たぶん一番近い言葉としては不敵という言葉がしっくりくる。
「帝国主義は終焉しますよ。あなた方は今に思い知ることになる」
「負け惜しみか?」
「まあ、そんなものです」
 半分くらいは、と日本は首を傾げた後に、少し思案顔になりながら頷いた。
「もう半分は、イギリスさんが無価値だと思っているもの。そしてたぶん、そこにある意思の一握りは私の手柄でもあると自負しています」
 相変わらず抽象的な言い方ではぐらかされる。日本のそんなところは以前と変わりない。こんなに痛い目にあっても、彼は穏やかなように思う。
 死期の近い老人のように日本はゆっくりと起き上がり、左手の軍刀を杖がわりにしてドアに向って歩き出した。彼は戦いに行くのだとイギリスは思った。そして俺はその反対側にいる。これから俺はおまえを裁く側にまわる。でも、それでも日本。
「……菊、俺はおまえが無事でよかったと思ってる」
 日本は億劫そうに振り返った。
「私も、あなたが無事でよかったと思っていますよ、イギリスさん」
 日本はまるで子供に向けるような柔らかい笑みを浮かべた。しかし彼の言葉は全く心のこもっていない上辺だけのものでしかなかった。彼は最後までイギリスを「アーサー」とは呼ばなかった。それが以前に同盟まで結んだ者達の現在だった。






WW2直後の話。右よりで申し訳ない。日本万歳。
( 2008.10.19 )