どうということのない、そこら辺にいるような田舎くさい村娘だった。都会の女のような華やかな美しさもなければ、洗練された優雅さもない。戦場でバラバラに解けた髪は泥や塵、あるいは血で塗れて綺麗とも清潔とも言い難かったし、化粧っ気のない顔も、とりたてて造形が整っているわけではなかった。大勢において目立たない風貌の少女は、本来ならひっそりと地味で穏やかな人生をおくるはずの生き方を捨て、苛烈で短命に散華した。まるで命を燃やして輝きに変えたようだとフランスは思った。だからかもしれない。彼女が、あの時代、あの場所において誰よりも、それこそ時の王よりも輝いていたのは、彼女自身の命という代償があったからかもしれない。
ジャネットというのが彼女の名前だった。都会風な呼び方をすればジャンヌだ。しかし、軍内での彼女の呼称は「乙女」を意味する「ラ・ピュセル」だった。いや、それも好意的に解釈すればの話で、身分の低かったジャンヌに対しての意味合いは、せいぜい飲み屋でくだを巻かれる言葉と同義の下女呼ばわりだった。フランスも、普段はジャンヌをそう呼んでいた。場違いな戦場に紛れ込んだお嬢さん、というからかいを含んだ意味合いだった。
彼女は初めのうち、それを嫌味だと怒った。しかしすぐに、もういいですと不貞腐れながら諦め、そのうち彼女自身もラ・ピュセルという呼称に慣れていった。
フランスにはそれが不満だった。確かにジャンヌの言う通り、彼女に対する嫌味のつもりで言っていたからだ。そうさ戦争に女の子なんて似合わない。神の声を聞いたか何だか知らないが、たった一人で命のやり取りをする戦場まで来るなんて無謀にもほどがある。
しかし、フランスの嫌味な態度にもジャンヌは怯まなかった。それが国に対する態度かと目を疑うばかりの猛々しさで、フランスにくってかかってきた。どちらかといえば神にシニカルな態度を取っていたフランスを頭ごなしに怒鳴りつけたのも彼女だけだった。
「私は、あなたのためにここにいるのです!」
神の声がしかるべき方を玉座につけ、あなたを守れと言ったのだと。まるでどこかのファンタジーのような話を、一片のためらいも揺らぎもない真剣さでジャンヌは言い放った。何と強い意志だろうとフランスは思った。誰に嘲笑されても侮られても、ジャンヌは自分の主張を曲げなかったし、疑うこともなかった。神の声。本当にそんなものがあるのだろうかとフランスをもって現実に懐疑心を湧かせるだけの力ある言葉だった。
今考えればそれは神の声などではなく、自分だけが正しいと信じる、どこか危うい思い込みや妄想のようなものかもしれない。
その危うさを象徴するように、ジャンヌは不安定な人間でもあった。感情の起伏が激しく、穏やかに花を愛でていたと思った次の瞬間には激昂して周囲に当り散らすということもよくあった。今の今まで元気に走り回っていたかと思えば、突然神の声を聞いたと憑かれたように長々とした演説をはじめ、また唐突に糸が切れた人形のようにぐったりとなって、すぐに眠ってしまうことも度々だった。それを人の器ながらに神と交信する聖女の代償だと言う者もあれば、ただの狂人だと言う者もあった。
ジャンヌの不安定さは戦場を繰り返す度に酷くなり、オルレアンの緒戦の日から一年程経ったある日、フランスはとうとう、もう故郷に帰れとジャンヌに向かって怒鳴った。もういい。もう帰れ。そんな危なっかしい奴に戦場にいられても困る。おまえにはこんな殺伐とした生き方ではなく、穏やかで地味で幸せな人生が似合っているんだ。だから、帰れよ。行けよ。俺の目の前から消えちまえ。
しかし、きょとんと目をまるくしたジャンヌは、すぐにいつものように笑って答えた。
「大丈夫です。あなたには神のご加護がありますから」
「そういうことを言ってんじゃねぇよ!」
「いいえ、そういうことです」
フランスの手に触れたジャンヌは、その手を自分の頬まで持っていき、ゆっくりと目を閉じた。
「温かい手。あなたは軽薄で調子の良い方ですが、それでも守るに値する方です。だから、必ず私が守ってみせます」
人間だ。儚く、脆く、弱い。心を移すな。決して。
いや、もう無理だとフランスは思った。田舎くさく青い理想ばかりを語る少女。だが、その他者を圧倒する輝きはどうだろう。危なっかしい言動とは裏腹の揺ぎ無い存在感は。人を傷つけるのは神の意思に反すると旗章を手にし、幼さの抜けきらない顔を紅潮させながら馬を駆けていった姿の何と威厳に満ちたことか。
何より、フランスに見せる信頼と愛情に溢れた表情に、これほど心を掻き乱されるのは、どうしてなのだろう。
しかし、フランスが痛みなく思い出せる記憶は、いつもそこまでだった。そこから先は、心臓に杭でも打たれているのかと思うほどの苦痛を伴ってしか反芻出来ない。彼女の過酷な運命は、異端者と呼ばれて火刑になるまで続いた。いや、正確にはそれから後もだ。彼女の呼称は聖女から悪魔になり、救世主から詐欺師になった。あれほど神の使いだと持ち上げていた王ですら彼女を見捨てた。
神の使い。そう、本気で信じているものなど、結局誰もいなかったということだ。それはもちろん、フランスだってそうだ。
ああ、そうとも。神の使いだと? 馬鹿な話じゃないか。あいつはただの人間だった。神との対話の証とされた祝福を受けた力ある言葉も、代償として享受していた強烈な虚脱感や睡眠も、全部ただの生理的な反応に過ぎない。つまるところ、交感神経系によるエネルギーの動員、そしてその後に起きる副交感神経系による揺り戻し。そういった、純粋な化学反応だ。
生命そのものを危機に晒す戦場において、交感神経系は行動を起こすために必要なエネルギーを全身から総動員してくる。ジャンヌの憑かれたように苛烈な行動やバイタリティは神の力などではなく、すべて副交感神経系の通常の役割、つまり消化や回復といった急を要さない体内活動を停止し、その分が戦闘行為に振り分けられただけのことだ。
生物としての営みを犠牲にした苛烈な行動に代価が伴わないはずがない。病気ではないかと疑うほどの激しい眠気や、体中を苛まれる虚脱感に襲われたのも、そのせいだ。長期にわたった戦場生活は、アドレナリンの急増とその後の揺り戻しの猛烈な反作用をジャンヌの体に残した。化学反応にその身を慣らし、神経をすり減らしてしまい、戦闘が終った後にも心身の疲憊状態から抜け出せなくなったのだ。まだ若く成熟していなかった体は健常な成長を阻害し、彼女の心身を容易く蝕んだ。神経を病み、神の声が聞こえないと嘆いたこともあった。それでもジャンヌは自らを頼る者達を振り切ることはせずに戦場に出て行った。
神の使いなんかじゃない。あれは、とフランスは痛みに胸を押さえた。あれは、ただの人間だ。女だ。子供ですらあった。その神の声だってどれほどのものだ。そうとも、あいつは何の力もないちっぽけな人間だ。そんな女に鼓舞されて戦った兵や、守られたフランス。考えれば考えるほどそれは滑稽なことだった。全部ただの思い込みじゃないか。くだらない。取るに足らない、小娘一人の妄想に踊らされた結果がこれだ。本当になんて意味のないことだったのだろう。それは何もかもまったく、嫌になるほど無益なことでしかない。それは彼女の生にも、死にも言えることだ。そうだ、何故死ぬ必要があったのか。それが妄想でも思い込みでも祖国のためと小さな体を張って戦った少女の死を神は必要だとでもいうのだろうか。誰かのためになけなしの勇気を振り絞って心身を病むまで走り続けた少女に、いったいどんな理由があって世間と信仰から貶められる過酷な運命を与えたのだろう。
信じられない。あの炭化した黒いかたまりがフランスを助けた少女の成れの果てとは。ただの人間だということを証明するために死体を晒され、教会からも埋葬を拒否されるという仕打ちを受けるだけの理由が。死してなお、長い間侮蔑の対象とされ、回復されなかった彼女の名誉も。
納得出来ない。こんなこと間違っている。こんな国。つまり俺自身が。
死んでしまえばいいのに、とフランスは思った。この国も政府も上司も、すべていなくなって、皆死んでしまえばいい。しかし、フランスは考えた。
では、俺が今でもここにいる理由は何だ?
ジャンヌやその他大勢の兵士が間違いなくフランスの力になったのは何故だ。無力とあざ笑った少女に助けられ生き延びた事実は。こうして、何百年と経った今でも思い出し、気が狂いそうなほどの痛みに煩悶するのは。
そして、苦しみの果てにようやく訪れる、ほんのわずかな安らぐ記憶に、身を切られるような焦燥と切なさをおぼえて泣きたくなるのは、いったいどういうことなんだ?
「おい、そんなところでいつまでも呆けてんなよ」
邪魔だと言う言葉と共に、背後からガンとソファーを蹴られた。思わず転がり落ちそうになる体を片手で縁を掴んで支えて見上げると、尊大な態度をした見慣れた金髪の男が上からフランスを覗き込んでいた。
「……よぉ、眉毛」
「てめぇ、喧嘩売ってんのか?」
フランスの軽い挨拶に、イギリスは険悪な声を出した。
緩慢な動作で身を起こしたフランスは、ああ、そういえば午後の会議まで休憩を取っていたのだったとゲストルームで寛いでいたことを思い出した。今は何時だろうと時計を見てぎょっとする。時刻は会議開始時刻をとっくに過ぎていた。
「延期になった」
「は?」
会議は延期だと苛立たしげに繰り返したイギリスは、アメリカが云々と眉を寄せて何やらぶつぶつと呟いた。よくは分からないが、どうせまたアメリカお得意の気まぐれで延期になったのだろう。珍しいことではない。圧倒的な力を背景にしたアメリカは、大した考えもなしによくそういった暴挙に出て周囲を巻き込む。そしてこの口の減らない生意気な自称紳士が、何故か自分のことのように気を焼いたりしながら彼と衝突するのだ。
まるで痴話喧嘩のようだと思ったフランスは、唐突に心を支配する激しい憎しみを自覚した。百年間、俺はこの男と戦っていたのだ。そう、あの心優しい少女が犠牲になった百年の戦いは、この男との遣り合いだったのだ。
「俺さ、お前を殺してやりたいと思ったことあるぜ?」
それは自分の言葉とは思えないほど暗く、悪意すら漂うものだった。イギリスも驚いたように目を丸くしてフランスを見た。意外なことに、イギリスの表情は老国とは思えないほど無防備なものだった。感情豊かな彼だったが、そうして覿面に内側に入り込ませるような動揺を晒すのは珍しい。しかし、彼が油断を見せていたのも、ほんの数秒のことでしかなかった。
「ふん、バカな奴。人間に恋なんてするからだ」
ギクリとして身を竦ませると、イギリスは何やら神妙な顔をしてフランスを睨んでいた。
ああ、そういえば、とフランスは思い出した。そういえば、おまえの初恋は自国のおっかない女王様だっけ?
「うるさい。人間は、裏切るんだよ、バカ」
その宿命づけられた天数において、ほとんどの場合、国よりも早くに世を去る。置いていくなと泣いたところでどうにもならない。そういうのは手酷い裏切りじゃないか。愛していると言われたところで、その後何年も孤独に身をすり減らして生きていかなければならないこちらにしてみれば、人間の愛なんてどれほどのものだろう。
「いいんだよ、それでもさ」
フランスは笑った。
「裏切られたって、別にかまわないさ」
途端にイギリスは渋面になった。納得出来ないという心情がありありと表に出た顔だった。なんだ、イギリス。おまえは人間が裏切ったと思ってるのか? それともおまえを裏切ったのは他のヤツか?
「そんなに弟に裏切られたのが屈辱か?」
イギリスの顔にさっと怒気が現れた。しかし手加減するつもりは毛頭なく、荒々しいささくれ立った内面に急かされるように、嘲笑しながら続けた。
「アメリカは国だろう? おまえだってそうだ。何とでもなるだろうが」
だいたい贅沢なんだよ、おまえ。信じただの裏切られただの大げさに嘆きやがって。結局のところおまえら二人とも馴れ合っているだけじゃないか。
イギリスはしばらく半眼のままフランスを睨みつけていたが、そのうち軽くため息をついた後に一言だけ、ああ、と言葉を返した。その反応には逆にフランスの方がぎょっと身をすくませた。てっきり、いつものような感情にまかせた悪態がくると思っていたのに。
「何だよ、その気味の悪い反応……」
「はっ、どっちが!らしくねぇ落ち込み方しやがって」
さっさと立ち直れよバカ、と悪態をついたイギリスは、くるりと踵を返してさっさと立ち去っていった。
しばらく呆気にとられながらイギリスの背中を見送ったフランスは、ちぇっ、と舌打ちしながらソファーに沈み込んで、腹立たしさに身を浸した。売った喧嘩をさらりとかわされ、これではぐうの音も出ない清々しいまでの完敗ではないかと不貞腐れる。気を紛らわすために机の上にあったワインに手を伸ばした。一息に飲み干そうとして液体の色を眺めると、何の偶然か、それはオルレアンの少女の瞳を思い出させる透明度の高いブルーだった。
「君の瞳に乾杯」
高々とワインを掲げながら呟いた。
またあなたはそうやって私をからかってばかり、と怒り出すジャンヌの顔が目に浮かぶようだ。
ああ、そうだ。そろそろオレは現実を認めるべきだろう。ジャンヌの存在に歴史的な意味などなかった。そこには神の声も意思もなかった。妄想と思い込みの末におとずれた彼女の死を考える度に目の眩むような激しい痛みに襲われる。
けれど、それはフランスにとって救いでもあった。何となれば、心が痛みを感じるのは失ったものに価値があるからに他ならない。彼女の生に価値はあった。意義だってあった。理由も、救いもあったに違いない。
ひとすくいの愛だって、きっとそこには存在していたのだろう。
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