小さく悲鳴をあげて飛び起きた。全身汗だくになり、息も上がっている。
はっとして周囲を見渡すと、室内は薄暗く、まだ夜中だった。
横を見ると図体ばかりでかく育った男が起きる気配もなく眠り込んでいる。
「……夢…か」
額に手を当てて嘆息する。
隣の男を起こさないように静かにベッドから抜け出したイギリスは、
音を立てないように部屋を抜け出し、暗い廊下を明かりも点けずにキッチンへと向かった。
キッチンにたどり着いても室内を暗くしたままで、ようやく目が慣れてきた月明かりのもと、
ぼんやりと見える輪郭を頼りに手探りでガラスのコップを取り出し、
水を注いで一気に飲み干した。喉を通る冷たさにようやく夢と現実の間を
彷徨っていた意識がはっきりと地に足のついたものになった。
「…ったく、何だって今更」
小さく吐き捨てるように言いながら、ふと手にしたコップを見ると、
カタカタと小さく震えていた。忌々しげに舌打ちをして、空になったコップを机の上へと放り投げる。
だが気力が続いたのはそこまでだった。全身から力が抜け、そのままずるずると机に手をつきながら、
ゆっくりと崩れ落ち、床へと座り込んだ。
「くそっ…!」
ガン、と癇癪にまかせて拳を床へと叩きつけた。加減をしなかったせいでジンと手が痛む。
視界が揺れ、咄嗟に近くにあったタオルを引き寄せ声を漏らさないように口に当てた。
はたはたと零れ落ちる涙は、自分の意思では止めようもないものだと今までの経験から知っていた。
身を切り裂かれるような激しい痛みと、呪いのように苛む記憶は、時折、
彼を奈落の底へと引きずり落とす。
『ねえ、イギリス!』
夢の中で無邪気に笑いかけてきた子供は、もうこの世界のどこにもいないのだ。
ガン、と何かを叩き付ける鈍い音を聞いた気がして、アメリカは目を覚ました。
「…ん…今何時、イギリス……」
寝ぼけながら隣にいるはずの男に声をかけるが、返事はない。
寝てるのだろうかとひょいと伸ばした手はむなしく空を掻いた。
「…アレ?」
見ると、ベッドにいるのは自分一人だった。シーツがまだ温かいところをみると、
出て行ってからさほど時間は経っていないようだ。すると、今の物音はイギリスだろうかと考える。
水でも飲みにキッチンに行ったのかもしれない。見かけ通りにどこか抜けている彼のことだから、
寝ぼけてコップを取り落としたりしたのかも。有り得る。
怪我でもしてると厄介だから少し様子を見に行ってやろうか、などと勝手なことを考えながら、
アメリカはベッドから抜け出した。
長い廊下は明かり一つなく暗い。向かったキッチンも同じように暗いままだった。
おやと首を捻る。ここにいると思ったが、考え違いだったのだろうか。そう考えた時、
中から小さな音がした。やはりいるとわずかに開いた隙間に顔だけを入れて中を覗き込む。
途端に頭を殴られたようなショックを受けた。
そっと音を立てないように身を引き、扉の横の壁に静かに背をついた。固く目を閉じ、
身を潜める。気付かれただろうか。いや大丈夫。きっと気付かれていない。
小さくくぐもった嗚咽が断続的に聞こえている。イギリスの声だ。タオルを口に当て、
声を噛み殺しながら、眉を寄せて泣いている。体を小さく丸め、震えている姿は、
まるで何かに怯えているようだった。普段のふてぶてしいまでの尊大さや傲慢さは微塵もなく、
今のイギリスからは想像もつかない。
「ごめんね」
小さく、自分にも聞こえないほどの小声で呟いた。それはイギリスには絶対に届かない
距離からしか伝えられない謝罪だった。面と向かって言えるほど残酷にはなれない。
それほど自分のした行為は罪深い裏切りだ。
アメリカは知っていた。彼がそういう風に泣く理由など一つしかない。
イギリスは、もう二度と戻らない昔を想って泣いている。
奥歯をかみ締め、小さく呻いた。じくじくと苛む罪悪感と同時に、
癇癪のままにわめき散らしたい苛々とした気分にもなった。
俺は間違ったことなどしていない。
何度も自分に言い聞かせた言葉を再び繰り返した。それはアメリカの本心だった。
彼は全く自分の行動を後悔などしていなかったし、客観的に見ても自分の側に
理があるという自負もある。裏切りは必然だった。遅かれ早かれ、いずれは選ぶ道だった。
だから後悔などない。あるわけがない。
だって、俺は正しいのだから。
けれど、アメリカの裏切りは、イギリスの根底にあった何かを酷く抉り、傷つけた。
それは、これほど年月が経った今でも、彼を深く打ちのめし、
いとも容易く絶望へと導くほどの深い傷だ。
でも、イギリス。俺は俺という存在で、君の所有物ではない。
俺にも望むものがあり、それは君の望んだ方向とは違うものだ。
だから別離は仕方のないことだった。君には多くの恩があり、
たくさんの愛ももらった。それを忘れたわけじゃない。疑ったこともない。
ただ、違っただけだ。俺と君は決定的に違う存在だという、それだけだ。
でも、たったそれだけのことが、決して埋めようのないほど致命的なものだった。
だから君から離れたことは避けられない道だった。
そう、これはどう足掻いたところで変えられない結末だったんだよ…。
確かにアメリカの言葉は正しかった。だが、結局のところ、それが何だというのだろう。
そうして選んだ裏切りの結果が、今、目の前にある光景だ。
壁一つ隔てた向こうで孤独に泣く男がいる。そんな鮮烈で覆しようもない圧倒的な現実の前に、
正論などどれほどの意味があるというのだろう。泣いているのだ。もう、ずっと独りで。
イギリスはそんなことを何度繰り返したのだろう。
そしてこれから何度繰り返すことになるのだろう。
唐突に湧き上がった衝動にアメリカは逆らえなかった。音を立て、
荒々しく扉を開ける。そのまま床へと座り込んだイギリスのもとへと歩み寄り、
突然のことに言葉も出ずに呆然とするイギリスの体を背後から抑えつけるように抱き締めた。
「…メリ…カッ…!」
驚いたような、怒ったような、戸惑ったような声が聞こえた。腕の中の強張った体には
気づかない振りをして、首筋に顔を埋めたままイギリスの体を拘束した。
そうやって衝動にまかせたまま彼を抱き締めていると、腕の中に納まった体の緊張が解け、
ゆっくりと弛緩した。イギリスが諦めたようにアメリカに寄りかかり、体をあずけてきた。
「ガキかよ、まったく…」
そのガキが恋しいくせに何を言い出すのだ。
「……なぁ、おまえが泣くなよ」
俺が泣けなくなるだろう、という言葉に少しだけ笑った。
なんだ、そんな簡単なことで彼の涙が止められるのかと良い事を聞いた気になった。
一向に緩められる気配のない腕の中でイギリスは徐々に睡魔に誘われていった。
醜態を見られたのだという忌々しさや羞恥は、
やがてどうでもいいかという投げやりな気分の前に消えていった。
唯一自由になる片手をそっと伸ばし、カナリア色の髪を梳いてやる。
さらさらと指の間を流れる髪は存外心地よい感触で、それは昔から何ら変わりのないものだった。
こうして時折、この男の中に幻影を見る。命がけで守ろうとした存在の断片を感じる。
自分の愛した子供は死んでいないのだと思い知らされる。
きっと俺は間違っていたのだろうと今ではイギリスも渋々ながら受け入れるようになっていた。
俺のやり方はあれこれと拘束することばかりで、この自由を求める男には窮屈だったに違いない。
それでも、俺はあの子供を愛していた。
彼と過ごす穏やかで愛に満ちた時間を大切に思っていた。
ああ、俺の愛は無償のものばかりではなかった。
けれど、だからといって、決してあの子へと注いだ愛が偽りだったわけではない。
そこには幾許かの無垢なものがあった。触れるのも躊躇うほど純粋なものがあった。
輝くばかりのキラキラとした綺麗なものだって確かにあったのだ。
睡魔は耐え難いまでになっていた。久々に泣いたから疲れたのかもしれない。
アメリカはまだ時折しゃくりを上げながら泣いている。この様子では当分このままだろう。
心地の良い体温と疲れた体のせいで、襲ってきた眠気に逆らえず、ゆっくりと眠りに落ちていった。
完全に眠りに落ちる間際にイギリスは考えた。
これからも俺はきっとあの子供を想って泣くだろう。たった独りで、
もう帰らない時間と、そこにあった優しいばかりの愛に焦がれて泣くに違いない。
そして深く抉られた傷を抱えたまま日々を過ごし、
いずれは、この男のことも愛せるようになるのだろう。
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