ここら辺は人名ですすんでいるので、
【アメリカ】 → 【アルフレッド】
【イギリス】 → 【アーサー】
【ドイツ】 → 【ルートヴィッヒ】
【リトアニア】 → 【トーリス】
【ロシア】 → 【イヴァン】
という名前でお願いします。あとなんか色々テキトーに捏造しましたごめんなさい。
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ケンブリッジ市はアメリカ合衆国の東部に位置する、M州にある都市である。市名のもとであるイギリスの同名の都市同様に、全米を代表する大学都市であり、多くの名門大学の所在地となっていた。
ここ、M工科大学もケンブリッジにキャンパスを構える、世界でもトップレベルのエリート校だった。その名前から工科系の単科大学と思われがちだが、現在は理、工、建築および都市計画の学部に加え、人文科学・社会科学、経営、健康科学・健康技術の学部も擁する理工系を中心とした総合大学である。ノーベル受賞者も多数輩出しているこの大学は、世界各国から集まる有望な人材に事欠かない。
ルートヴィッヒもそうした才気溢れる若者のうちの一人だった。彼はドイツからの留学生で、M工科大学工学部の三回生にあたる。ドイツ人らしい生真面目さと粘り強さのお手本のような彼は、その日も夜遅くまで研究室に残り、黙々と実験を続けていた。
我を忘れて研究に没頭していたルートヴィッヒが、実験にひと段落をつけて時間を確認したのは、日付が変わるまであと三時間ほど残した頃だった。気がつけば、いつの間にか周囲には誰もいなかった。同じ研究室の同期たちは気さくで礼儀正しい者たちばかりだから、おそらく帰り際には声を掛けていったに違いない。熱中していたルートヴィッヒが気付かなかっただけだろう。確か、以前にもそういうことがあった。というより、度々あると言った方が正確だった。そう思いながら机の上を見ると案の定、先に帰るというメモが置いてあった。
手早く実験道具を片付けて帰り支度をする。明日も来るのだから少しくらい散らかっていたところで構わないのだが、ルートヴィッヒの性分として片付けは毎回きっちりとやっておきたかった。
そういう彼の性格は、頑固だの、融通が利かないだの言われることも多いが、ルートヴィッヒ自身は自分の性質をそれほど苦にしているわけではなかった。自分はそういうものなんだと割り切っていたし、どちらかといえば好んでもいた。むしろ彼のそんな性分を苦に思っているのは彼の友人の方だった。
そのイタリア人の友人は、ルートヴィッヒとは正反対の性格の持ち主だった。パスタとシエスタがないと生きていけないと大真面目に言い張る彼は、こちらが苛々するほど暢気で楽天的な男だった。もっと気楽に生きないと人生楽しくないよとよく言われるが、そんな彼を見ると気楽に生きるのは遠慮したいと決意はかたくなるばかりだ。
片付けを終えたルートヴィッヒは、私物を入れた鞄を肩から下げた。その中にはテキストと、ノートの類が何冊か入っている。デジタルメディアが普及しつつある昨今でも、紙とペンは勉学には手放せない、大切なツールの地位を不動のものとしていた。ルートヴィッヒもその不動の地位を支える一人だ。
研究室を出て、施錠をしっかりと確認してから棟を出る。広々としたキャンパスを足早に歩き続けるといつの間にやら大学の外を歩いていた。この曖昧なところがいつも不思議だとルートヴィッヒは思う。M工科大学のキャンパスは特に門などもなく、どこからも出入りが出来るので、未だに大学の敷地と外の境界線がよくわからない。各学部や研究科の高層校舎があるうちはまだ敷地内で、見えなくなったら外なんだなと推測するが、本当のところはどうなのか、誰に聞いてもわからないので謎のままだ。
季節は冬に入り、真夜中の外路は肌寒い。コートを着てくればよかったと思うが今さら後の祭りだった。さらに歩調を速めると、ようやく家並みが連なる街区までやってきた。ルートヴィッヒが仮住まいを構える近くだ。
家まであと十分程度のところまで来たルートヴィッヒは、思い出したようにジーンズに入れっぱなしてあった携帯電話を取り出した。着信とメールがいくつかあったが、それらは全部同じ相手からのものだった。ねえ、あのさ、今日は遅いの? 兄ちゃんからピザをもらったんだけど食べにおいでよ。まだ学校? ちゃんと料理は残してあるから終わったら連絡ちょうだい。
再び携帯電話をポケットにしまいこむと、ルートヴィッヒは嘆息した。まったく、あいつときたら毎日毎日飽きもせずに。今日は遅くなるから電話やメールで煩わせるな、夕飯の差し入れもいらんと伝えておいたはずだろうが。
きっと忘れているのだろうとルートヴィッヒは考えた。必要なことも必要でないこともすぐに忘れる子供のような奴だから。しかしあまり人のことは言えないかもしれない。自分だって子供のように実験に没頭しすぎて食事を忘れていたことを思い出した。ひょっとしてお互い様というやつだろうか。
もしかすると、あいつはそれを知っていたのかもしれないとルートヴィッヒは考えたが、すぐにそんなことはないだろうと思い直した。あの底抜けに能天気で考えなしの男がそんな気の利くことをするわけがない。本当にあいつは何につけても鷹揚というか楽天的というか。
しかし、そんな彼に無性に会いたいと思っている自分に気付いたルートヴィッヒは、自分の思考にひどく狼狽した。何故だろうかとしばらく悩み、ああそうかと思い当たる。きっと、自分はどんな深刻な事態でも何事も明るく笑いとばす彼に精神的な救いを見出しているのだろう。あいつの、大したことじゃないよ、何とかなるさという言葉。根拠のない不確かなものではあるが、今のような閉塞的な状況では奇跡のように楽天的な明るさだと言える、あの言葉に。
今日はあいつのところに行ってみようか。そうだ、腹もへっているし、料理も用意してあるなら丁度いい。この時間ならまだ起きているだろう。夕飯だけご馳走になって帰ればいい……。そんな言い訳じみたことで自分の行動を理由を取り繕いながら、これではまるで人恋しい子供のようだと思った。自分は寂しいのだろうかと考えたルートヴィッヒは否定するように首を振る。寂しいだと? 冗談じゃない。そもそもあいつは俺に付きまとい過ぎなんだ。ルートヴィッヒのやる勉強に興味があるのかと思えば、そういうわけでもなく、隣に陣取って退屈そうな顔をしていることもしばしばだ。今がどういう状況かを考えもせずに、ルートヴィッヒに会う度に「暇だから会いに来たよー」と能天気な顔をして駆け寄ってくる。
それでもルートヴィッヒが彼を邪険に出来ないのは、そんな屈託のない、子供のような彼のことを好ましく思っているからだった。ルートヴィッヒとは天地ほどにも違う性質を持った青年は、意外にも自分とはよく気が合った。そして、杓子定規で物事を考えるやっかいな癖を持った自分に、いつも柔らかくあたたかい、陽だまりのような穏やかさを与えてくれるのだ。
後から考えてみても、そうした温かさに身を浸していたからか、それともここしばらく経験していない平穏な時間に慣れてしまったからか、正確なところはわからなかった。だが理由はどうであれ、常なら怠らない警戒心を和らげていたのは失敗だったと、ルートヴィッヒはこの日のことを思い出す度にひどく苦々しい後悔することになる。
風を切る音と、最初の一撃を後頭部に受けたのは、ほとんど同時だった。一瞬目の前が真っ暗になったが、幸いにも意識を失うほどではなかった。誰かに背後から殴られたのだと知った瞬間、ルートヴィッヒは自分の不利を悟った。街灯のある明るい歩道を歩いていたはずなのに、いつの間にか人気のない暗がりに来てしまっている。助けも呼べなければ武器もない。最悪だと舌打ちした。
しかし、油断をしていたとはいえ、ルートヴィッヒは兵役も経験したことのある身だった。混乱する思考をすぐに自身の行動から切り離し、ほとんど反射的に肉体の警戒レベルを最大にまで引き上げると、振り返って反撃しようと態勢を整えた。だが、初めに受けた殴打の鋭い痛みがワンテンポ遅れてルートヴィッヒを苛み、彼の反応をほんのわずかに鈍いものにした。
かろうじて次の一撃を防げたのは、普段から鍛えてある強靭な身体能力のたまものだった。横に薙ぐように振られた武器を素手で受け止める。視界は月の光もない暗闇のせいであまり役に立たないが、手にした感触からそれが金属棒だとわかり、ぞっとした。おい、冗談だろう。何だってこんなものを。当たり所が悪ければただでは済まない。すかさず両手で握り返し、捻りをくわえて相手からもぎ取るようにして奪い取った。即座に攻撃態勢に移り、ぼんやりとした人間の輪郭の腹の部分に向けて、右手の拳を叩きつける。インパクトの瞬間、肉と骨の軋む鈍い音がしたが、ルートヴィッヒの一撃は相手の両腕でガードされていた。しかし、襲撃者に確実にダメージを与えたのは、相手がたたらを踏んだことでわかった。続けて次の一撃を繰り出そうとしたルートヴィッヒは、自分の見当の甘さを身を持って知ることになった。
襲撃者の放った最後の一撃は、もっと現実的で圧倒的な威力を持った武器から放たれたものだった。聞きなれた音だ、と思ったのは、それが昔に経験した市街戦を思い起こさせるサプレッサー付きの発砲音だったからだ。まさかこんな都会のど真ん中で聞くことになるとは思わなかったなと考えながら、ルートヴィッヒは片手で至近距離から撃たれた腹部を押さえた。
ルートヴィッヒは決して闘争心を捨てたわけではなかったが、それでも体が起こす物理的な反応、つまり、弾丸の運動エネルギーを受けとめ、筋繊維や神経細胞を切り裂かれた体が、頭部からの電気信号を正確に手足に伝えられずに体が思うとおりに動かせない、という肉体が起こす化学反応を、意思の力だけではどうにも出来なかった。
抵抗しなければと訴える意識とは裏腹に、ルートヴィッヒは脱力して片膝をついた。次はどこを撃たれるのかと覚悟しながら待った時間は、体感時間では十分も二十分も過ぎたように思えたが、実際には一分も経っていなかっただろう。ふと気がつけば、周囲に人影はなく、道には自分一人だけが取り残されていた。
ルートヴィッヒは気力を振り絞って近くのブロック塀まで体を引きずるようにして歩くと、壁を背にして座り込んだ。片手は傷口を抑え込んだままだったが、手の間からじわじわと血が流れ出ている。傷は痛いというより熱かった。撃たれたのはこれが初めてではないので、怪我の具合も大体見当はつく。大丈夫だ。失血さえ気をつければ大事に至ることはない。まさか死にはしないだろうとは分かっていても、撃たれた恐怖は何度経験したところで慣れるものではない。
しまいこんだばかりの携帯電話を取り出すと、幸いにも壊れることもなく無事だった。すぐさま電話を掛けると、はいー、と場違いに能天気な声が聞こえてきた。
「助けてくれ」
襲われて怪我をした。自力では動けそうにないからレスキューを呼んで欲しいと言うと、電話の向こうの声は、途端におろおろと動揺しはじめた。いいから落ち着けと宥めながら自分の場所を伝え、くれぐれも急いでくれと念を押してから通話を切った。
まったく、俺より焦ってどうするんだとおかしくなったルートヴィッヒだったが、ふと自分でレスキューに電話を掛けた方が早かったことに気付き、俺もかなり焦っていたのかと苦笑した。そして、どうして他に頼れる友がいるにもかかわらず、よりにもよって一番頼りにならないあいつに電話してしまったのかと考え、眉を寄せた。
アルフレッド・F・ジョーンズが、アーサー・カークランドと出会ったのは、今から数日ほど前のことになる。
アルフレッドはM工科大学工学部航空学科の三回生だった。コーカソイドらしい大柄な体躯にカナリア色の髪という外見は、人目を惹くような派手さと明るさがあった。本人も見た目を裏切らない陽気さを持ち合わせていたし、若者らしく正義感も強かった。
まずまずといった成績で三年目に入った大学生活は、同期生も教授も見知った顔ばかりという気安さもあり、そこそこ過ごしやすい生活を予感させるはじまりだった。
その日も、専門学科の講義を受けながらルーティンワークとなりつつある睡魔との戦いを繰り広げていたアルフレッドは、どうしてこの講師の話は犯罪と言っていいほどに退屈きわまりないのだろうと、半ば朦朧とする意識の中で、八つ当たりめいた苛立ちと共に考えていた。
大学の専攻で選択するぐらいなので、当然航空学には興味がある。しかし、アルフレッドが好きなのは、教科書をめくりながらとっくの昔に読み終わってしまった型通りの概論を、単調な口調で繰り返す講師の声に耳を傾けることではない。俺はもっと、実践的な理論を学んだり、実際に物を作ったりすることが好きなんだ。
ああ、眠い、と欠伸をする。
もういっそのこと潔く眠ってしまおうか。このまま中途半端に夢うつつで講義を受けるよりは仮眠をとって一度頭をすっきりさせた方が効率がいいような気がする。弁解じみた正論のようなものを捻り出しながら周囲に視線をやると、睡魔に襲われているのはアルフレッドだけではないようで、他にも何人かの生徒が舟をこいだり机に突っ伏したりしていた。
ほらね、やっぱり。そう思いながら寝る場所を確保しようと、形だけ開いていた教科書を脇へ退かすと、机の隅に置いてあった消しゴムに腕が当たった。消しゴムははずみで机の上から落ち、斜め後ろの席まで転がっていった。
拾おうと腰を浮かしかけた体を止めたのは、先に手を伸ばされたからだった。消しゴムを拾う手を辿って視線を上げると、拾い主はアルフレッドと同年代ぐらいの青年だった。短く切りそろえた髪に、金か銀か迷うほど色素の薄く淡い金髪は、アルフレッドのような豪華で鮮やかな金髪とはまた別の意味で人目を惹く色だった。青年はちらりとアルフレッドの方へ視線を向けると、ひょいっと無造作な動きで消しゴムを放り投げた。
とんできた消しゴムを慌てて受け止める。青年はアルフレッドが消しゴムをキャッチしたことを確認すると、すぐに視線を逸らして手元の本へと視線を落とした。
誰だろうか、とアルフレッドは青年をまじまじと眺めた。専門科目なので、クラスにいる人物はほとんど同学科の生徒のはずだったが、青年の顔には見覚えがなかった。目立つなりをしているので、知り合いではなかったとしても、以前から居たのなら気付かないわけはないと思う。転入してきたのだろうか。それとも他学科の生徒が気まぐれに紛れ込んだのだろうか。眠気はすっかりどこかへ行ってしまったが、講義の内容はさらに耳に入らなくなった。
退屈なばかりの講義が終わると、アルフレッドはすぐに青年のもとへと駆け寄り声を掛けた。
「さっきはありがとう」
眩しそうにアルフレッドを見上げる青年に、消しゴムを拾ってもらっただろうと言うと、彼はああ、と頷いた。
「礼に昼でもおごるよ。学食のランチでいいなら、だけど」
「そりゃどうも」
「俺はアルフレッド。君は?」
青年は何故か、一瞬だけ不機嫌そうに眉を寄せた後、ポツリと呟くようにアーサー・カークランドと名乗った。
予想通り、アーサーは工学科の生徒ではなかった。
「どこの所属だい?」
「経営大学院」
「……君、歳いくつ?」
小柄だからてっきり年下だとばかり思っていたのに。それとも飛び級かいと聞くと、アーサーはむっとしながら、おまえがデカイだけだとベーコンが突き刺さったままのフォークを振りかざしながら苛立たしげに言い返してきた。まあ確かにそれは否定出来ないが。
「でも、英国人ってもっと背の高いイメージがあったから」
「……うるせぇ」
アーサーはそっぽを向きながら、それでも手は黙々と動かして食事を続けていた。
宣言通りキャンパス内の食堂へとアーサーを連れて来たアルフレッドは、学生としてもアメリカ人としても正統派な、安くて量のある食事を彼に奢った。アーサーはサラダにドレッシングも掛けずに直接フォークをレタスに突き刺してバリバリと食べている。見かけによらずワイルドだなあと感想を漏らすと、悪いのかよ、という乱暴な答えが返ってきた。少し意外だと思う。軽装だが仕立ての良い、おそらく値のはるだろうオーダーメイドの服に、ノーブルな物腰や、取り立てて綺麗というほどでもないが男にしてはそれなりに整った顔立ち。そういった育ちの良さを思わせる外見とは裏腹に、アーサーは発音こそ流れるように綺麗なクイーンズイングリッシュだったものの、話し言葉は、かなりスラングの混じった乱暴なものだった。
「うるせぇな、ほっとけって言ってんだろ!」
だいたい人のことが言えるのかという反論通り、アルフレッドもあまり彼をどうこう言えたものではない。言葉こそアーサーよりは丁寧で標準的な部類に入るが、それ以外は比較しようもないほど庶民的だった。仕方ないさとため息をつく。正真正銘、庶民の出だもの。
アーサーはさらにむっとしながら今度はウインナーにフォークを突き立てた。何も知らなければウインナーが親の仇かと思うところだ。気に入らないことを言ったのだろうか。わからないが、風向きを悪くしたくはないので、これ以上追求するのはやめておいた方がいいんだろうな。
「ところで、何で他学科の授業に紛れ込んだんだい?」
「暇だったから。聴こうと予定してた講義が休講になって時間が空いただけだ」
今日はそれだけしか予定がなかったから、すごすご帰るのも癪だと思って。
「なるほどね……で、どうだった、初の『ラプラス変換概論』は?」
「すげぇ眠くなる話だったな」
ただでさえ不機嫌そうな顔をしていたアーサーが、さらに情感たっぷりと不満を込めて言った言葉に、アルフレッドは声をたてて笑い出した。
「同感!俺も毎回あの授業はつまらないって思ってるんだよ」
「だろうな。おまえ、今にも眠りそうな顔してたし」
ニヤリと笑いながら言ったアーサーは、ようやく不機嫌そうな顔を消し去り、見ているこっちがつられるほど楽しそうな顔になった。
「何だが君とは気が合いそうだ。暇ならまた食事でもどうだい?」
アーサーはびっくりしたような顔になったが、突然頬を赤く染めて視線をアルフレッドから逸らしながら、もじもじと言いよどんだ。
「暇じゃねぇけど、おまえがそういうなら別に付き合ってやってもいい……」
なんだか可愛いなとアルフレッドは思った。覿面で、素直で、分かりやすい。もういい年だろうにティーンの子供のような反応だ。それでも、アーサーにはそういう子供っぽい仕草が似合っているなとアルフレッドは思った。
「へぇ、それでその人とお友達になったんですか?」
「ああ、トーリスにも後で紹介するよ」
君とアーサーは気が合いそうだからと言うと、トーリスは手元に広げたテキストとノートを片付ける手を止めアルフレッドを見上げて、ぜひお願いしますと答えた。自分より頭半分ほど背の低いトーリスは隣で座っていると、アルフレッドを見上げるような視線になる。目線の位置が常にその場所にあるせいか、同年代と比べても決して低い方ではないのに小柄だという印象を持ってしまう。
午後の講義もすべて終了し、後はアメフトのチーム練習に顔でも出そうかなどと考えながらのんびり過ごしているのはアルフレッドだけではないようで、階段教室の上段の机から見下ろす階下では、まだまどろみから抜け切れていない者や、何人かのグループになって談笑しながら時間を潰している者の姿が多く見られた。
隣のトーリスをちらりと横目で見ると、机の上に出しっぱなしになっているプリントには几帳面な文字が書き連ねてあった。要件を簡潔にまとめた文章は頭の中にすんなりと入り込む分かりやすい文章で綴られ、先まで教授が繰り広げていた冗長で退屈な話より、よほど理解しやすそうだった。アルフレッドとは違い、真面目に授業を受けていたのだろうというのが一目瞭然で、少し居たたまれない気分になる。そういった、どこかしら生真面目さを感じさせるところが、彼とアーサーは気が合いそうだと考える理由だった。
トーリスはアルフレッドの同期生だった。鳶色の髪に穏やかな性格の青年は、外見の柔らかさとは裏腹に意外と我が強い面があるものの、基本的には温和で社交的であり、アルフレッドともよく気が合った。友人は多いが親しいと呼べるほどに心を許すことの出来る相手の少ないアルフレッドにとっては、入学当初からいる数少ない親友だ。
トーリスは、機会があったらアーサーさんを紹介して下さいねと言うと、アルフレッドを羨望の眼差しで眺めた。
「アルフレッドさんはすごいな。誰とでもすぐ友達になれて」
「そうかい? 君も友達は多いだろう?」
トーリスは首を傾げて、どうでしょうかと苦笑した。
「オレはアルフレッドさんみたいに魅力的じゃないし、くされ縁の幼馴染なら一人いますけど……」
「あまり自分を卑下するのはよくないぞ」
トーリスには良いところがいっぱいあるんだから。
「優しいところとかね」
「お人よしだとか偽善的だという風に言われることはありますが」
「お人よしはストレートに褒め言葉だし、偽りの善だって実行出来ない奴の方が多いんだから、偽善だって褒め言葉さ!」
「そういうことを臆面もなく言えるところが、アルフレッドさんの良いところなんですね」
「……トーリス、それは褒めてるのか、貶してるのかどっちなんだい?」
眉を寄せて言うと、トーリスは笑い出した。
「褒めてるんですよ、もちろん」
そこはストレートに褒め言葉として受け取って下さいと、どことなくからかうような口調で言ったトーリスは、机の上の荷物を鞄の中へ放り込むと、ちょっと図書館に行ってきますと席を立った。
「実はまだ課題を終わらせてなくって」
「あ、そういえば俺もまだだ」
「一緒にやりますか?」
うん、とアルフレッドは間髪入れずに頷いた。
「君と一緒にやると早く終わるからいいね!」
「もう、自力でやって下さいよ。アルフレッドさんって頭は良いのに、すぐにあれこれ面倒くさがって……」
言葉が途切れると同時に、トーリスの顔からすっと表情が消えた。視線はアルフレッドの背後へと向けられ、そのまま凍りついたように動かない。違和感を覚えたアルフレッドが背後を振り返ると、講義室から出て行こうとする人の流れとは逆に、こちらに歩いてくる青年の姿を捉えた。
彼は遠目からでもよく目立つ青年だった。背の高いアルフレッドよりもさらに拳一つ分ほど高い大柄な体躯。色素の薄い髪はプラチナに近い色彩で、深い青みがかった紫色の瞳とは絶妙にマッチした彩りよい組み合わせだ。そうした元来のものに加え、常に優しげな笑みを絶やさない柔和な表情に慇懃な態度となれば、トーリスと同じように穏やかな印象を与えてもいいはずなのに、なぜか青年には凍えるような冷たさしか抱けない。アルフレッドなど、彼の故郷であるシベリアの大地が持つ寒さが青年の内面まで凍てつかせてしまっているのではないかと本気で考えているほどだ。
青年は二人の側まで歩み寄ると、真っ青になったトーリスと視線を合わせて屈託なく笑った。
「こんにちは、トーリス」
「イヴァンさん……」
イヴァンと呼ばれた青年は、トーリスの怯えには全く関心を示さないまま、一方的な気安さで二、三言葉を交わした後、ようやくアルフレッドへと視線を向けた。その一瞬、イヴァンの瞳がガラスのような虚ろで無機質な色彩になったが、すぐにいつも通り、オブラートに包まれた優しい色に戻った。
「ごめんね、気付かなかった。アルフレッド君もいたんだね」
「やあ、イヴァン」
取ってつけたような挨拶をしたイヴァンに、アルフレッドも内心の苦々しさを隠したまま笑顔を返した。
このロシアからの留学生とアルフレッドは、お世辞にも仲が良いとは言えない間柄だった。アルフレッドは、同期、同学科のイヴァンに、出会った当初から相容れない、よそよそしさを感じていたし、それはどうやら向こうも同じらしかった。国柄のせいだろうかと考える。それとも人となりが生理的に相容れないのか。正確なところは分からないが、きっとそういう理性ではどうにも出来ない類のものだろうとアルフレッドは思っている。
穏やかな顔ばかりして、忘れたわけでもないだろうにと思い出したのは、一ヶ月前のディスカッションで激しく対立した記憶だった。
それは、長年の米露対立になっていた宇宙開発競争について、というタイトルのディスカッションだった。世界初、衛星軌道に生物を乗せたことを誇るロシアに対して、アポロ計画を成功させたアメリカに籍を置く者としては、長々と続く自慢話を黙って聞いているわけにはいかない。アメリカが後れを取ったのはロシアの命を軽視する姿勢とは違うからだ。スプートニクに乗せた犬を見捨てたロシアとは違う、というアルフレッドの一言は、確かに冷静になってみると感情に流されたものだったのかもしれない。とにかくその発言を皮切りに、問題は徐々に本題から逸れ出した。動物愛護の精神からどうのこうの、犬はどうだの猿はどうだの、蝿ならいいのか悪いのか、果ては、命の価値や定義についてまで議論が飛び火したところで、自分でも何を言っているのかわからないほど頭に血が上ってしまい、今にも殴りかからんばかりに激昂したアルフレッドは、トーリスに宥められて引きずるように講義室から追い出された。今思い返しても苦い経験だ。
しかしもう一方の当事者であるイヴァンといえば、アルフレッドとは対照的に始終落ち着きはらって動揺の欠片も見せていなかった。今だって、まるでそんな事実などなかったように、にこにこ笑っている。当の議論の最中も、普段より何割増しかで底冷えする剣呑な空気こそ漂わせていたものの、アルフレッドとは対照的に、激昂することも取り乱すこともなかった。とはいえ、射殺すような視線で睨みつけられていたことを考えると、内心はどうか知れたものではないが。
「ところで、君達も聞いたかい? この間の通り魔の話」
イヴァンの言葉にアルフレッドは首をかしげた。しかし、すぐに、ああと納得した。一週間ほど前、学生が通り魔に襲われた事件があるからと学校から注意が促されたばかりだった。確か被害に合ったのはアルフレッドと同性で同年代の、学生だったはずだ。
「若い女の子ならともかく、頑強な男を襲うなんてどういうつもりだろうな?」
おまけに金品を取られた形跡もないらしい、と続けたアルフレッドに、イヴァンはひょいと肩をすくめてみせた。
「個人的な恨みとかじゃないかな」
「被害者は人の恨みを買うような奴じゃないって噂だけど?」
「アルフレッド君は、そんなステレオタイプなコメントを信じてるのかい?」
随分と能天気だねと笑う姿は、びっくりするほど屈託がなく、一見したところでは皮肉を言っているようには聞こえなかったが、もちろんそれは皮肉以外の何物でもなかった。本当に癪に障る男だ。ステレオタイプだって仕方ないだろう。こっちは彼の所属も事件の内容も曖昧な伝聞でしか知らないんだから。
「同じ工学部の生徒ですよ」
ドイツ、からの留学生で、と奇妙に言葉を区切りながら言ったのはトーリスだった。まだイヴァンに怯えているのか顔色は青いままだ。
「自宅へ帰る途中に、被害にあったそうです」
「ひどいなぁ、誰がそんなことを」
イヴァンがまったく同情を感じさせない声で言った。
「……ええ、本当に。ひどい。何て、卑劣な」
対照的に、ぎゅっと眉を寄せたトーリスは、まるで自分自身が痛みに耐えているといった鋭い表情をした。イヴァンはともかく、トーリスの反応は大げさだなと思ったアルフレッドは、ひょっとしてとトーリスを振り返る。
「もしかしてその人、トーリスの知り合いかい?」
「あ……は、はい、知り合い、というか。まあ、一応……友人なんです」
なるほど、とアルフレッドは納得した。自分の友達が被害にあったのでは平気な顔をしてはいられないだろう。しかし、そんなアルフレッドとは対照的に、イヴァンは笑い出した。
「トーリスは優しいね。それとも嘘つきなのかな?」
トーリスがびくりと身を震わせた。アルフレッドは咄嗟にイヴァンを睨みつける。
「イヴァン!」
「だってそうだろう? 人の痛みなんて周囲があれこれ言ったところでどうせ分からないのに、知ったふうなことばかり言うなんて」
嘘つきか、さもなくば相当な馬鹿かのどちらかじゃないかと屈託なく笑ったイヴァンは、言葉の内容とは裏腹に穏やかな口調のまま続けた。
「そんなもの……そんな痛みや苦しみなんて、本人しか分からないじゃない? その被害にあった友達にだって、同情することは出来ても、君が苦痛を肩代わりすることなんて出来ないんだよ。違うかい、トーリス?」
アルフレッドの隣でトーリスが身をすくませた。
「いつだって痛みを引き受けるのは暴力を受けた当人でしかないんだからね」
小刻みに震え、今にも倒れそうな顔をしているトーリスは、先までの快活に笑っていた青年とは思えないほど、別人のような蒼白さになっていた。まるでトーリス自身に何か危害が加えられているようなやり方に、アルフレッドはかっとなった。
「あのなぁ、イヴァン!」
「おいおい、おまえらそこまでにしとけって」
ガタンと席を立ち、アルフレッドが声を荒げてくってかかる前に、妙に呑気そうな声が聞こえた。振り返ると、ひょいひょいと軽快な足取りで近寄って来たのは、見知ったフランス人講師の顔だった。
「プロフェッサー……」
トーリスがほっとしたように呟くと、フランシスは満面の笑みを浮かべてトーリスを覗き込んだ。
「んー、もっとフレンドリーに『フランシス』とか『ジャン』でもいいぜ」
「え…あ、いや……そのっ」
それはちょっと、と狼狽するトーリスを見て、アルフレッドとイヴァンは同時にため息をつき、そのタイミングのよさに二人とも露骨な嫌悪の表情を浮かべた。
「フランシスはともかく、何だい『ジャン』って」
「お前らには発音しにくいだろうなぁと思ってよ」
別に名前なんてオレのアイデンティティには云々、と一人語りを始め出したフランシスに、アルフレッドは眉を寄せた。この講師にしては歳若い、実際アルフレッドとは十も違わない若者は、それでもれっきとしたフランス文学を教える講師だった。軽薄そうな外見や態度からは俄かには想像し辛いほど仏文学に対する造詣は深く、なるほど、若さを補ってあまりある才だとはアルフレッドも思う。今だって如才なく諍いの仲裁に入ろうと割ってきたところなどには、それなりに教師らしい面も垣間見たりするわけだ。
「あまり喧嘩ばかりすんなってことよ」
「別に喧嘩をしてたわけじゃないんだけどね」
イヴァンはちょっとした悪戯が見つかった子供のように言うと、くるりと踵を返した。またね、と言いながら片手を上げてさっさと講義室を出て行く。さんざんこっちの感情を逆撫でしておきながら、気にした風でもない飄々とした態度だ。
「トーリス、君、大丈夫かい?」
イヴァンの姿が見えなくなると、ふらつきながら片手を机に着いたトーリスに、アルフレッドは慌てて声を掛けた。トーリスは顔を上げると大丈夫ですよと返したが、まだ青いままの顔で言われては誰がどう見ても無理をしているとしか思えない。
「何ていうのか……その、あまり逆らえなくて、あの人の言うことに……」
それだけ言うと、また俯いて唇を噛み締めたトーリスの頭に片手を置いたフランシスは、くしゃくしゃと頭髪を散らした。
「無理すんなよ」
「そうだぞ。俺がいつでも君を守ってやるからなっ!」
「……おまえは唐突だなぁ」
フランシスが頬を引きつらせた。唐突? どこがだいと尋ねるが、フランシスは呆れたように、まあいいやとため息をついて首を振った。そして突然、何かを思い出したのか、あっ、と短く声を上げた。
「そういやアルフレッド。おまえ、アーサーに会ったんだってな!」
思いがけない名前を聞いてアルフレッドは首を傾げた。
「知り合いなのかい?」
「いや、天敵みたいなもん」
教える側として生徒に対してその発言はどうかと思うが、確かにアーサーの学生らしからぬ尊大な態度はフランシスとは相容れないものがあるのかもしれない。俺とイヴァンみたいなものかなと想像しているうちに、フランシスが妙に意味ありげに笑いながら、肘でわき腹をつついてきた。
「で、どうだった?」
どう? どうとは?
「いや、だから……第一印象とか」
「なかなか素直で可愛い人だなぁって思ったよ」
途端にフランシスは顔をしかめた。
「……オレの知ってるアーサーとおまえの知ってるアーサーはきっと別人だな」
「何ですか、それ」
苦々しい口調で言うフランシスに、トーリスがようやく笑った。
「アルフレッド。おまえ、この後アーサーに会う?」
会うといえば会うけど、と答えると、フランシスはごそごそと懐をまさぐりはじめた。
「これ渡しといてくんね?」
「何だい、これ」
「学生証」
見ると、確かにそれはアルフレッドも持っているカードで、そこに映っている写真はアーサーのものだった。
「あのバカ、なくしたとか言いやがったから再発行してきてやったんだよ」
まったく手間のかかるガキだよなー、と言いながらフランシスはどことなく楽しそうだった。ふうん、天敵だなんて言ってるわりには意外に仲は良さそうじゃないかとアルフレッドは思いながら、渡しておくよと気軽に引き受け、学生証を受け取った。
「ふざけんなよ、あのヤロウ……」
顔や物腰とは不釣合いの悪態をついたアーサーは、講義室の机の上に乱暴な仕草でテキストを放ると、鼻息も荒く音を立てて椅子に座り込んだ。相変わらず見た目とのギャップの激しい人だと思いながらも、そういう態度の方が何となくしっくりくるように見えるのは慣れのせいだろうかとも思う。とはいえ、アルフレッドがアーサーに会うのは、今日を入れてもまだ二度目だった。知り合った日の帰りがけに食事の約束を取り付けたものの、そういえば携帯電話の番号も聞いてなければメールも聞いていないことに気付き、さて、どうやって捕まえたものかと頭を悩ませていたところ、件の日から数日後にアーサーの方から講義室へ姿を見せに来たのだった。
「おまえ目立つなりだろ、テキトーな奴捕まえて聞けば居場所くらいすぐにわかるって」
そうだろうか。目立つといえばアーサーの方が見目というか、中身とのギャップというか、そういうもので悪目立ちしそうだと思うが。などと考えていると、意外なところから援護が入った。
「確かに、アルフレッドさんはよく目立ちますから」
「トーリスもそう思うだろ?」
「ええ、本当に」
にっこり笑って答えたのはアーサーとは気が合うんじゃないかと紹介したばかりのトーリスだった。アルフレッドの思った通り、二人はすぐに打ち解け、アルフレッドをさかなに軽口まで叩いている。
まあ、仲の良いのは結構なことだと三人で昼食へ行き、そういえばとフランシスからの預かり物を渡した途端、彼の言葉を借りて言えば『他に類を見ないほど下品で恥知らずなセクハラ講師』を罵ることになったのだ。
「君には意外な友達がいるなぁ」
「はぁ? 友達じゃねぇよ。……まぁ、同郷っつーか、顔見知りっつーか……」
「同郷?君はイギリス出だろう?」
専攻にしたって畑違いもいいところじゃないかと言うと、アーサーは苛々と頭を掻きむしりながら、ハイスクールが同じだったんだよと忌々しそうに答えた。どうでもいいが、何故彼はこんなに機嫌が悪いのだろうか。怒鳴ってばかりでそのうち血管がちぎれてしまいそうだ。対照的にトーリスは、アーサーの態度を気にするでもなく、機嫌の良さそうな表情でミルクを入れた紅茶をスプーンで混ぜながら、腐れ縁ってやつですねと笑った。即座に否定の言葉を返したアーサーだったが、トーリスは軽くいなして取り合わない。
「そういえば、トーリスにもいるんだろう、腐れ縁の幼なじみ」
そっちも彼らみたいな風なのかいとアーサーを指しながら聞くと、トーリスは一瞬目を白黒させた後で苦笑いを浮かべた。
「ちょっと違いますけど、似たようなものかな?……よく喧嘩はしたし、迷惑はかけられたり、かけた…方はあまり記憶にないような気もするかも……うーん、とにかく、わがままばっかりの手の掛かる奴ですよ」
「珍しいね、君がそんな風に誰かのことを言うなんて」
他人のことは、たとえそれがイヴァンにせよ悪し様には言わない青年なのに。だからそれは、彼らの間にある気安さや絆といった類の表れなのだろうとアルフレッドは考えた。アーサーも同じように考えたのか、どことなく楽しそうな、というより羨ましそうな顔をしている。
「その幼なじみはこっちにいるのかい?」
「あ、いいえ、フェリクスは国にいます」
「えーと、リトアニアの子?」
「いえ、彼は隣国のポーランドです」
「ふぅん」
頷いてはみたものの、アルフレッドはその国がどこにあるのか知らなかった。欧州のどこかだろうなとは思うが、具体的な場所は全くわからない。
「世界地図買えよ、バカ」
アーサーがぽつりと呟いた。
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