廊下は果てしなく長く思えたが、実際に歩くとそれほど距離があるわけでもなかった。
誰ともすれ違わないのは、真夜中という時間帯のせいだろう。数人の当直勤務の医師と看護士以外は、
誰もいない時間だった。
視線を窓の外にやると、淡い緑の光が周囲の建物を照らし、浮き上がらせていた。
魔晄、とツォンは呟き、鋭い視線を眼下の街へと向けた。そこから見える景色は、
まさにこのミッドガルという場所そのものだった。
富裕と貧困、秩序と混沌が互いに反発することなく同じ場所で一つの街を構成している。
ツォンは今までこの光景を疎ましいと思ったことはなかった。
彼は魔晄のもたらすあらゆる恩恵や、表裏をなすように発生する負の財産も、
有りのままに受け入れていた。
だが、この一年というもの、理性とは逆のところにある感情が、
彼から普段の冷徹な判断を奪い去っていた。それは、彼の立場では持つことは許されない、
否定的なものだった。
目的の場所まで来たツォンは足を止めて扉を数秒見つめた後、音も立てずに開いた。
室内は静かで暗かった。まるで誰もいないようだったが、ツォンは迷いもなく、
するりと中へ入ると、ベッドへ歩み寄った。
そこに寝かされている人物は、侵入者には気付かないまま眠り込んでいた。
だがそれは今に限ったことではない。
ツォンはもう長い間、何の変化も見せない男を見下ろした。
手を伸ばし、触れると、鮮やかなオレンジの髪は存外柔らかかった。
この人にこんな穏やかに触れることがあるなんて。ツォンは不思議に思った。
「もう一年が過ぎる」
あなたが眠りについてからと声に出して言い、その残酷な響きに自らを抉りながら、
眠りという言葉が適当なのかと訝しんだ。
ヨリックが魔晄炉に落ちてから、一年が経とうとしていた。
その間、彼は一度として目覚めることもなく、今に至るまで覚醒の気配すら見せなかった。
体に異常はないと医師は言う。ただ眠っているだけで、すぐに目覚めてもおかしくないと。
だが、ヨリックは起きなかった。
一年。淡い希望のようなものを持ち続けて待つには、ひどく長い時間だった。
希望かとツォンは表情を変えずに思った。
私はそんなにも長い間、いったい何を望んでいたのだろう。
一年前には切実に望んでいた何かがあったはずなのに、
今ではそれは曖昧でつかみ所のない霧のようなものになり、自分でもよく分からなくなっていた。
「あなたの声まで忘れてしまいそうだ」
本当は少し違う。忘れてしまいそうではなく、忘れたいのだ。
こうして、眠っているだけで他には一片の動きもない男を、もう自分は忘れたいと思っている。
だがそれも仕方のないことだ。
無力で無防備な姿を晒すしかない男のことで一年も煩わされたのだから、
いいかげん忘れてもいい頃合だろう。
ツォンはしばらくヨリックを睥睨した後、スーツの内側へと手を入れ、
使い慣れた短銃を取り出した。消音装置はあらかじめ取り付けてあった。
多少の音は漏れるだろうが、人が来たところで、今のツォンの立場なら事件自体もみ消せる。
どうということはない。
安全装置を外して鼻腔と耳道の交差線上を視線でたどり、
脳幹を一撃で破壊出来る位置を見据えて照準を定めた。即死させるならここだろう。
顔を撃てば死体は惨憺たる有り様になるだろうが、
そこが一番苦しまずに死なせてやることが出来る。
それとも彼は綺麗に死にたいと願うだろうか。斜に構えたところの多い男だったから、
そう言うかもしれない。銃口を心臓へと向けた。ここなら、体の損壊は最小限で済む。
だが何分かは出血と痛みで苦しむだろう。
もっとも、意識のない人間にとっては不要の心配かもしれないが。
ヨリック、どちらがいい?
もちろん彼は答えない。せめてその意思が確認出来ればよかったのにと思いながら、
勝手に決めさせてもらうとそっけなく言い、もう一度、銃口を顔へと戻した。
トリガーに指を掛ける。あと数ミリ、それを手前に引けば片がつく。
途端に動悸が早まり、眩暈がした。微かに銃を持つ腕が震えるのが自分でも分かる。
しかしそれらすべてのことは音にならず、室内の静寂は保たれたままだった。
喉がカラカラに渇き、ひどく胸が苦しい。いや、苦しいのは今に限ったことではない。
ずっと、この一年、自分は鋭い痛みや緩慢な苦痛に耐えてきた。ずっと苦しかった。
だがそれも、もう終わる。終らせる。
静寂の中ではひどく場違いに響くだろう銃声が、終焉の宣言だ。
すべてが無くなる。彼の命も、あるとも言えない希望も。この一撃で彼は楽になれる。
私は、楽になれる。
ツォンはトリガーにかけた指に力を入れた。
しかし、結局のところ、静寂を破ったのは銃声ではなく、
ツォンの苦悩に満ちた深い溜息だった。銃を構えた手をだらりと下へ落としてツォンは項垂れた。
震える指はトリガーにかかったままだ。かろうじて安全装置を掛け直した後、
よろめくようにして壁に手をつき、全身を震わせた。
「……何故だ」
何故殺せない。何故。
震える体が自分のものではないようでひどく不可解だった。
喉元までせりあがってくる嗚咽を堪えるだけで、こんなにも意思の力を必要とする。
いったい何故?
問いかける自身の行動とは裏腹に、本当は疑問に思うことなど何もなかった。
殺せない。それはすべて自分の内側にある手に負えないやっかいな感情のせいだった。
自覚はしていた。だからヨリックを殺そうと思った。
彼を殺して、自由を取り戻さなければならないという焦燥にかられた。
こんな、不安定な精神ままタークスを続けていけば、いずれ命取りになる。
それは自分だけではない。部下もそうだ。今ツォンが下す決断はタークスの行動指針になっている。
失敗すればそれを贖うものは命だ。だから殺そうとした。殺せると思った。
後悔はするだろうが、それも少しの間だけだと思った。
今まで他の誰に対してもそうであったように、一時の後悔ですべてが終わると思っていた。
なのに、とツォンは呆然と呟いた。
なのに、まさかトリガーが引けないなんて。
その結果が意味するところに、ツォンは激しく打ちのめされ、動揺していた。
ゆっくりと、今にも倒れそうな病人のような緩慢な動作で、ツォンは顔を上げてヨリックを見た。
規則正しい呼吸。一見すると、ただ眠っているだけのように見えるのに。
左手を伸ばし、彼の腕に触れる。
一年前に比べ、大分筋肉が落ちていることが傍から見てもわかった。
そのまま手首の方までなぞるように触れ、最後に彼の手に触れる。
手のひらを数回撫で、指を絡めるようにして手を取った。だが、ヨリックは何の反応も示さない。
人形のように無抵抗でされるままだ。
信じられないとツォンは愕然とした。いつだってこの手は、強固で苛烈な意思を持ち、
好き勝手にツォンを翻弄してきたというのに。
ふいに、せりあがってきた激しい感情の振幅があった。
右手の銃が、カン、と金属的な音を立てて床へと滑り落ちる。
だがツォンはそれを拾おうとはしなかった。落ちたことにすら気付いていなかった。
左手で絡めたヨリックの手を右手で包むようにして握ると、祈るように額を押し付けた。
起きてくれ。喋ってくれ。皮肉でも何でもいい。
いつも通りの勝手で理不尽な要求をするでも構わない。
強引で手前勝手で、何よりあなたらしくあれば、それでいい。
ただ、意思を。あなたの意思をあなたの体に返してくれ。
だが手は温もりを保ったまま、やはり一片の意思もその身には宿さなかった。
ツォンはしばらくじっとそうしていた後に、小さな声で嘲るように笑った。
「何をやっているんだ、私は……」
先までの激しく荒々しい感情はすっと波が引くように消えうせ、
残ったものは下手な芝居を見た後のような白々しい虚しさった。
本当に、何をしているのだろうか。こんなことをしている暇はないというのに。
ヴェルドがタークスを抜けた今、やることはそれこそ山のようにある。
時間はいくらあっても足りない。無為な行動に費やす余裕などないはずだ。
本部に戻ろうと、立ち上がった。それはツォンらしさの全く取り戻せていない、
不安定な動作だった。手はまだ握ったままだ。離そうとしたが、なかなか決心がつかなかった。
ツォンは知っていた。今この手を離せば、ひどく人間的で精神性の高い、
自分の持つものの中では数少ない純粋なものが跡形もなく壊れてしまう。
だが同時に、それを壊さないことには自分は生き延びることが出来ないということも知っていた。
ああ、私はそんなところまで追い詰められてしまった。だから、もういいだろう。
私の中からあなたを失くしてもいいだろう?
声は出さずに唇だけを動かして別離の言葉を告げた。
一瞬、手を離すのを躊躇うように動作を止めた。
ツォンの瞳の中に悲愴で縋るような色が過ぎったが、それもすぐに消え、
再びガラスのように無機質な瞳に戻った。
確かに温もりはある。彼は生きている。
だが、それだけだ。
それだけだ。
ツォンはゆっくりヨリックの手を離すと、踵を返して医務室を後にした。
とてつもなく強大で無慈悲な何かに、敗北した気分だった。自身の価値を根こそぎ否定され、
奪われたようだ。深い疲労と脱力感がツォンを襲い、苦しめたが、
彼はそれに抗う術を知らなかった。
だが、結局はそれも壊れた何かを補うほどのものではなかった。
ひどく冷たい、凍えるような感情がゆっくりとツォンを内側から蝕み始め、
それはほどなく彼自身となった。もうツォンの瞳には一欠片の揺らぎもなかった。
人間的な温かみもなかった。
|