疲労と焦燥。
今のツォンを表す言葉はこんなところかとレノは考えた。
常に油断のない男にしては珍しく隙だらけで、まかり間違えばタークス入りをして
一年にもならない新人連中にさえ負けてしまいそうな気がする。
タークス本部にある来客用の長椅子の上で、レノは仕事をするでもなく、
だらだらと寝そべりながら彼を観察していた。だがやる気のない態度とは
裏腹にレノの瞳は凪の水面のように静かに張りつめていた。
この人こんなに弱かったかなと、レノは目を細めた。
デスクの向こうで書類に目を通している男は幽霊のように生気がない。
手元の書類に忙しなく何かを書き込むと、それを既決の棚へと無造作に放り込み、
次の書類を取り出して目を通し始める。それを延々と繰り返す機械的な作業は、
何かの懲罰でも受けているようだ。書類を追うツォンの目は爛々と輝いているが、
普段の怜悧なものとは全く違っている。それは明らかに足りない睡眠と疲労のせいだった。
意識を無理矢理目の前の仕事に向けているのが傍から見ていてもわかる。
仕事でもしていないと、どうにかなりそうだというのが本音だろうとレノは思った。
情報漏洩の責任を追及されたヴェルドがタークスを解任されたのは数日前だった。
たった数日だという事をあらためて認識すれば、ツォンの変化は信じられないほどだった。
彼はもう見ていられないほど疲弊していた。
もちろんそれは一見したところでは分かりにくいものには違いない。
多少やつれたとはいえ、相変わらず仕事は完璧に近いし、
内心の焦燥を垣間見せることもない立ち回りはさすがに如才ない。
だがあくまでもそれは普通なら、という程度でしかなかった。
タークスとしての彼は、レノから見ればかなり危うかった。
そしてレノはその事に激しい憤りを覚えているのだった。
ふいにツォンがペンを走らせる手を止めてレノを見た。
視線に気付き顔を上げると、黒髪と同じように黒い瞳が射抜くようにレノと交わった。
「レノ、用がないならもう帰れ」
その冷ややかな声音にレノはふんっと鼻を鳴らす。
「そんなコトあんたに命令されたくないぞ、と」
空気が温度を下げたことをレノは肌で感じた。
ピリっとした緊張感は戦場で感じる気配と何ら変わりはない。
自制もきいていないのかとレノは舌打ちした。
ツォンが書類の束を放り出し、無言で歩み寄った。
表情は忌々し気で、苛立っているのが手に取るように分かる。
そんなところも彼らしくないとレノは思った。
いつもの彼は内面など悟らせない。表情もなく、一見穏やかにさえ見える様相をしながら、
胸奥だけで策略をめぐらせているような男だった。
ふいに立ち上がったレノは、背後に隠し持っていたロッドをツォンに叩き付けた。
脇腹をまともに狙った一撃は狙いこそ正確だったものの、
金属同士がぶつかる甲高い音を上げて未然に受け止められた。
咄嗟に銃を抜き、銃身で受けとめたのだと理解してレノはニヤリと笑った。
「‥‥さすがだぞ、と」
からかうような声音にツォンの瞳がギラリと光った。
反射的にゾクリと背後に悪寒が走る。だが同時にこれだという安堵感もあった。
この切れ味の鋭い刃物のような性質がツォンの本性だという事をレノは知っていた。
普段は巧妙に覆い隠されてはいるものの、彼の本性は猛々しく制御の効かないものだ。
しかしまだ分は自分の側にあるとレノは冷静に判断した。そうだ、まだ分は自分にある。
まだ有利だ。
まだ、この人は正気じゃない‥‥。
ロッドを引き、もう一度叩き込む振りをしながら足払いをかける。
あっさりとかわされた一撃だったが、直後に払いのけた足を床に踏みしめ軸にしながら、
もう片方の足で真正面からツォンの腹を容赦のない力で蹴った。
ぐっ、とうめき声を上げたツォンは、衝撃で床へと倒れ込む。
すかさずレノは一度蹴った場所を再び蹴り上げた。
体をくの字に折り曲げて喘ぐ男を見下ろしたレノは、大きくため息をついた。
「ツォンさん、オレに負けてどーするんですか、と」
こんなあからさまなフェイントに引っかかるなんてと吐き捨てるように呟く。
まったく、目の前で無様な醜態を晒しているこの軟弱な男が本当にタークスの次席だというのか。
これがレノを散々痛めつけ苦しめた、あのツォンだと言われてどう信じろというのだ。
倒れたツォンの肩に足を掛け、仰向ける。
抵抗されるより早く彼に覆い被さりながら顎に手を掛け、乱暴に口付けた。
口腔に舌を差し入れ歯列をなぞる。抵抗しようとレノを掴もうとした片腕を易々と押え込み、
それ以上反撃される前に、先ほど思いきり蹴った場所に膝を乗せて力を込めた。
くぐもったうめき声の後に抵抗が弱まる。ツォンの意識が口付けから逸れた隙に、
歯列を割って舌を差し入れた。
深い口付けは、しかし舌を噛み切られるのを警戒してあっさりと引きあげ、唇を離した。
屈辱で歪むツォンの表情を妙に冷静な気分で眺める。
「やっぱ、ヴェルド主任の方がイイですか?」
押さえつけた体がビクリと震えるのがはっきりとわかった。
名前を出しただけでこの反応かと肩をすくめる。
「別に主任のコト考えてたって問題ないですけどね、と」
ツォンの首筋に唇を当て、舌を骨に沿わせてなぞる。
襟元に噛み付き、引きちぎるようにしてシャツをはだけさせると、
器用に片手でネクタイを緩めた。舌をゆっくりと鎖骨まで下ろし、そこに痕をつける。
ふいに、ツォンの体から力が抜けた。諦めたのだろうかと思うと、
レノの髪にそっと愛撫するように手が差し入れられた。
「‥‥レノ」
深いため息の後に掠れた声で名を呼ばれる。
視線を上げるとツォンは普段の凍るような冷たさとはまるで逆の、
熱のある不安定な瞳でレノを見つめていた。ギクリと身を起こしてまじまじと眺める。
「ツォンさん?」
それが自分の名前であることを自覚していないような虚ろな瞳は、
とても常からは考えられなかった。
それほどあの人がいなくなったダメージが大きかったのだろうかとレノは憐憫を覚えた。
そしてふと何も考えたくないのならそうしてやるのもいいのではないかと考えた。
一度くらいなら、他の男の代わりをして彼を慰めてもかまわない。
髪を掴む手に力が込められ口付けをねだるように引き寄せられる。
それが彼の望みなら答えてやってもいいと、そんな気になりながら再び
ツォンの唇に触れようと顔を寄せた。
天地が逆になったとレノは錯覚した。
逆になったのは周囲ではなく自分の方だと悟ったのは、
容赦のない力で引っ張られた髪の痛みのせいだった。気が付けば自分は床へと転がされ、
上にはツォンが圧し掛かっている。しまった、とレノは己の過ちを悟った。
もういいだろうと、拘束していた力を緩めたのは明らかに自分の失態だった。
ツォンは先までの熱っぽさが嘘のような冷ややかな表情で目を細め、レノと視線を合わせた。
まずい、と抜け出そうと体に力を込めるのと、腹部に衝撃が走るのは同時だった。
がっ、と空気を吐き出し嘔吐したが、容赦なく続けざまに同じ箇所に拳を叩き込まれる。
痛みにうずくまろうとするが、髪を掴んだままの手に引っ張られ、
片膝をついたツォンの顔の傍まで引き上げられた。
「‥‥調子に乗るなよ、ガキが」
静かな声の後に、もう一度同じ場所へと拳を叩きつけられ、
レノは勢いで背後へと吹っ飛ばされた。
ぐぇっ、と押し潰されたような声で呻いて胃液を吐き出す。
しばらく腹を抱えてうずくまった後に、レノはクックッと奇妙な声で笑い始めた。
「‥‥っとにあんた強いなぁ!」
怒りよりも屈辱よりも、こみ上げてきたのは嬉しさだった。
そうだ、これがツォンだ。彼を形作る荒々しい性質。穏やかとは程遠く野性的な、
まるで鏡の向こうの自分を見ているような獰猛な男。そうとも、これが本来の彼だ。
「何だ、今さら‥‥」
呆れた声が上から降ってきた。見上げると、乱れた服を整えながらツォンが覗き込んでいる。
レノはヘラヘラと笑い出した。
「ああ、良かった。このままオレ、ツォンさんを抱かなくちゃいけないかと思ったぞ、と」
「気味の悪い事を言うな‥‥」
私にそんな趣味はない、と眉を寄せてツォンが呟く通り、
それは本心からだとレノは思った。別に彼は男が好きなわけではない。
というより、男だろうが女だろうが、ツォンは他人には特別な
興味を持っていないような気がする。
たった一人。
そんな彼が唯一、無条件で心も体も明け渡す相手は、たった一人だけだ。
それが決して報われない想いだということを自覚して尚、
その想いに殉ずることを厭わないのは、暗く凶暴な男の驚くほど
無垢な感情のせいだということをレノはずっと以前から知っていた。
笑いながらツォンと視線を合わせる。
「たぶんオレ、ツォンさん好きだぞ、と」
思い切り顔をしかめるツォンに、変な意味じゃなくってと続ける。
そういう意味ではない。レノが言う好きというのは、もっと違う、
身内に対する情のようなものだった。
「だからあんたが心配なんだ」
彼らしくない不安定な状態は見るに耐えない。
少々乱暴な手段を使ってでも正気に戻してやりたいと思ったのは、
間違いなくツォンに寄せる好意からだった。
ツォンは、大きなため息をついた後、レノに手を差し出した。
戸惑いながらその手を掴むと存外強い力で引き起こされる。
上半身だけ起こして座り込むと、ツォンが上から覗き込むようにしてレノと視線を合わせた。
「‥‥おまえは本当に獣みたいな男だな」
ツォンはふっと視線を和らげ、珍しくゲラゲラと声を上げて笑い出した。
彼らしからぬ笑いの発作に唖然とした表情のレノを尻目に、一通り笑い転げた後、
ツォンはおもむろにスーツの内側から銃を取り出し、レノへと銃口を向けた。
なっ、と声を上げて身を引くより早く、ハンマーを起こし、
トリガーに掛けた指を躊躇い無く引かれる。
鼓膜が破れそうな程の破裂音を至近距離から聞き、レノの体が硬直した。
弾丸は彼の耳朶を切り裂いて背後のソファーへと着弾した。
ツォンを見ると、彼は感情を一切滲ませないままレノを睥睨していた。
カチリという音と共に、再びハンマーが引き起こされ、硝煙の立ち昇る銃の照準が、
今度はレノの額に合わされた。ほつれた前髪をいたぶるように銃身が揺れ、
熱せられた銃口で額が熱く焼かれる。
顔色が変わるのをはっきりと自覚しながらレノはゴクリと唾を呑んだ。
「二度と私に今のような生意気な真似はするな」
恫喝にしては怖ろしいほど穏やかな声音だった。子供を諭すような口調ですらあった。
しかしツォンの瞳はとても穏やかとは言い難かった。あと数ミリ、
彼の指がトリガーを引き絞ればレノは抵抗も出来ずに撃ち殺されるだろう。
そんな生殺与奪を握っているというのにツォンは冷静なままで、
必要があれば躊躇いもなく撃たれるだろうということは疑いようもなかった。
ふとツォンの瞳が逸らされ、同時に銃口も下を向いた。
胸を圧迫する息苦しさに、ようやくレノは自分が呼吸を止めていたことに気付く。
ツォンは無表情のまま銃をスーツの内側へとしまった。
ほっとして自分の耳に手をやると、思ったより大量の血が掌を汚した。
思い出したようにズキリと響くような痛みが走る。
「マジで撃ちやがった‥‥」
呆然と呟くと、ツォンはレノを見て口の端を吊り上げて笑った。
「ただの威嚇だ、ビビるんじゃない。『タークスのレノ様』だろう?」
立ち上がったツォンは冷ややかな一瞥をくれると、レノが好んで口にするセリフを
揶揄するように告げた。そのままくるりと踵を返し、
後はもう興味がないとでも言いたげにレノを一人残して部屋から出て行った。
姿が見えなくなったと同時に、どっちが獣みたいなんだと毒づき、
全身の力を抜いて床へと倒れこんだ。
ドクドクと脈打つ音を耳に感じる。だが震える体は痛みのせいではなく、
銃口を向けられた時に感じた、芯から凍えるような恐怖が未だ背筋に
張り付いて離れないせいだった。
ツォンは自身の中に、巧妙に制御された狂気をはらんでいる男だった。
それは普段なら表層に出ることもなく、おとなしく蹲ったままだ。
だが、彼は不安定だった。飼いならしたと思った狂気は本当はただ身を潜めていただけで、
制御の手綱を緩めれば暴れ出す、そういう種類のものだった。
今の彼はまさしくその制御の出来ていない状態だ。
暴れだそうとする狂気は瀬戸際で何とか食い止められているに過ぎない。
それがまだ、たったの数日しか経ってない状況だという事を思い出し、レノは戦慄した。
「‥‥早く帰ってきて欲しいぞ、と」
脳裏に浮かんだ渋面が常の男に懇願するように口に出した。
ツォンは危険すぎる。それなのにレノ以外の誰もが彼の危ういバランスに気付いていない。
だから彼を宥めたり賺したりするのは自分以外にはいない。しかし、とレノは思った。
こんな毎日ではこちらの身が持たない。
だから早くタークスへ戻ってきてくれと、恨みがましい思いと共に、
唯一あの猛々しい男を従わせることの出来る人物の帰還を、
レノは以前もずっと切実に願うのだった。
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