カームには黒い風が吹く。どす黒い、乾いた血のような禍々しい色の風だ。
こうして街を見下ろす丘からの風景ではそれが顕著になる。
街全体が黒い空気にでも包まれているようだ。黒い風は黒い病の原因だという、
まことしやかな噂が街をめぐっている。噂によれば風が病を運んでくるのだそうだ。
根も葉もない戯言だとヴェルドは一笑に付した。
これはただの煤煙に過ぎない。ミッドガルにある巨大な魔晄炉が上げる、断末魔の産物だ。
災厄の日から断続的に続く爆発は、
今でも時折、か細い悲鳴のような小規模な爆発を繰り返していた。
激しい燃焼反応により分子単位にまで細切れにされた物質の中には、
人工的に生成され、自然界の自浄作用を受け付けないものがある。
そういった化学物質の一部が空高く舞い上がり、拡散され、ミッドガルを越えて広範囲に散らばる。
やがて塵となり、周囲に水分子を集め、雲を形成する。そして雨になって降り注ぎ、
地面に落ちて泥塊となった後、風化して黒い風になる。
だから黒い風というのは、あくまでも人の引き起こしたケミカルな現象にすぎない。
有害でありはしても、星痕症候群と呼ばれる病とは何の関係もない。
もしかしたら今から何年か後には人体に深刻な影響を及ぼす原因になるかもしれないが、
それは今考えてもせんないことだ。
「鎮火まで早くとも、あと二ヶ月はかかるでしょう」
落ち着き払った声が、まるでヴェルドの思考を読み取ったかのように言った。
「あれから半年以上も経っているのに、まだ治まらないとはな‥‥」
「魔晄は一定濃度以上になると金属を侵食します。魔晄炉自体は侵食を防ぐために
ミスリル合金を使っていましたが、直接触れない部分、
冷却水用の配管などは表面処理を施しただけの、ただの鉄鋼材料で出来ていましたから」
破壊された炉から漏れ出した魔晄が、今、その耐食性の弱い部分を侵している。
高濃度の魔晄に晒された金属はゆっくりではあるが確実に腐食していき、
様々な化学反応を起こす物質同士を混合する。あるいは、空気に触れることによって
引火性を持つ物質を、外界へと解き放つ。
ミッドガルは今では死の街だった。かつて、ほんの一年も経っていないほど昔の繁栄は、
今では見る影もない。
ヴェルドの隣で静かに言葉を紡いだ男は、そのミッドガルから来た。
死を背負ったような黒いスーツは、かつてはヴェルドも身に着けていたものだったが、
彼ほど似合っていなかったように思う。黒髪に黒い瞳。長身ではあるが目立たない彼の在り様は、
この男が画策してきた多くの奸計とは裏腹に、ストイックなイメージしか与えなかった。
「まだ、ミッドガルにいるのか?」
「はい」
今度は簡潔な返事だけを返したツォンは、ようやくヴェルドを正面から見据えた。
「お久しぶりです、ヴェルド主任」
穏やかというよりは感情がない、喜怒哀楽の一切が削ぎ落とされた声だった。
「何をしに来た?」
「視察です」
再び視線を逸らした先を追うと、そこには復興の兆しの見える街があった。
ヴェルドが住んでいる街。カームだ。
幸いにもカームは先の災厄によるダメージが比較的少ない街だった。
ミッドガルとの距離という地理的要因を考えれば奇跡に近いほどだ。
「カームをどうするつもりだ」
「悪いようにはしません」
「信用出来ない」
ツォンはゆっくりとした動作で、再びヴェルドに視線を合わせた。
「信用していただく必要はありません」
あっさりと言い捨てた言葉を肯定するように、黒い瞳はガラスのように無機質なままだった。
感情は相変わらず窺い知れない。ツォンの言葉から探りを入れることを早々と放棄したヴェルドは、
彼の背後にあるものを考え始めた。
今ではツォンは神羅の意思決定に深く関わる存在にまでなっている。
彼の描く図が、そのまま神羅の選択になるといっても過言ではない。
そんな重要な立場にある男の常として、ツォンは日々、本社での仕事に忙殺され、
現場任務からは基本的に退いたはずだ。その彼自らが、わざわざこんな僻地にまでやって来たのは、
それ相応の、何か重要な用があるからに違いない。
だが、カームに今更何の用があるというのか。ここは神羅にとって、
ほとんど何の益もない小さな田舎街だ。排他的だが穏やかで秩序があり、
静かに過ごせることだけが取り柄の街だ。
だからヴェルドがカームへ戻ってから、タークスがここへ来たことはない。
好き好んで来るはずもない。タークスを離反した自分と、元アバランチのトップである娘の住む街だ。
下手に手を出し、揺り起こしてはたまらないという打算があるのだろう。
プレジデント神羅ならともかく、ルーファウスが社長を継いだ今では、
自分に対する見せしめのような処分が下されることはないと、ヴェルドは考えていた。
ルーファウスは、そして彼の背後にいるツォンは、感情にまかせて動くことはしない人種だった。
彼らの行動理由には冷徹なまでの狡猾さと計算高さがある。
それは逆を言えば、ある程度、神羅の取る行動が予測出来るということでもあった。
神羅はヴェルドを敵に回すよりは不干渉を貫くだろう。情が理由ではない。
リスクの割には益が少ないからだ。しかし、神羅にとってはそれがほとんど唯一で絶対の基準だった。
手を出さないかわりに手出しもさせない。それは互いに暗黙の了解のようなものだった。
しかし、タークスは明らかな意図を持ってカームへと来た。それもツォン自らが出向き、
ヴェルドを牽制するような何か重要役割を持って。
「何が目的だ」
しかしツォンはその質問には軽く首を振っただけで答えなかった。
答えるつもりはないということだ。
ツォン、とヴェルドは低く呟いた。
「俺がここでおまえを殺すとは考えなかったのか?」
ヴェルドの言葉を聞いても、ツォンは身じろぎ一つしなかった。動揺の欠片も見せない。
ヴェルドのことは取るに足らないと思っているのだろうか。
そうであっても不思議ではないと思った。確かに、ヴェルドの肉体は全盛期を過ぎ、
衰えを見せ始めている。それとは対照的にツォンは今が心身ともに最もピークの年代だ。
正面きって戦闘に持ち込んだところで、彼にとってはさほどの脅威にならないだろう。
だが、ツォンにはタークスとしては致命的とも言える、肉体的なハンディがある。
ヴェルドは彼の右足を見た。引きずるようにして歩くその足は、
脊髄を掠めた禍々しく鋭い一太刀による後遺症だった。話はじめに、
ツォンの歩き方を見て驚いたヴェルドに向かって、おそらく回復は無理でしょうと、
彼は何でもないことのように言った。災厄そのものを象徴する相手に傷つけられたものだからと。
そんな足ではろくに戦うことも出来まい。今のツォン相手なら易々とはいかないまでも、
勝つことは決して難しいことではない。
「それとも俺にはおまえを殺せないとでも?」
見くびられたものだと言うと、ツォンは即座に否定の言葉を返した。
まさか、そんなことは思ってもいません。
「ですから、私に何かあれば――こういうやり方はあまり本意ではありませんが、
エルフェの身の安全は保障しかねます、と言っておきましょう」
思わず舌打ちをする。ああ、そうだったと納得する。おまえはそういう男だった。
そして同時にツォンの部下である赤毛の男を思い出した。
「レノか」
「あれはこういう仕事には打って付けです」
確かに、人目をはばかる後ろ暗い仕事を嬉々として引き受ける性質の悪い男は、
裏家業を専売とするタークスでも彼ぐらいのものだった。
もちろん他のタークス連中も仕事なら従うだろう。内心はどう思っていようとも、
上の命令は絶対というのがタークスの不文律だ。
だがレノは躊躇わない。
ツォンがそうしろと言えば、女子供を相手にしても鼻歌まじりでトリガーを引くような男だった。
膨大な手間をかけてまで、獰猛で野生を色濃く残した彼にタークスというアイデンティティを
植え付けたのも、神羅ではなくヴェルドでもなく、ツォン自身の手足に仕立て上げたのも、
すべてはこのためだ。行動に良心という枷のない男。優秀で役に立つ技能を持つ男。
自分の上司だった者を陥れる奸計にも平気で手を貸す、使い勝手の良い男。
ツォンがレノに与えたポジションはそういうものだった。
「有能な部下をつけていただき感謝しています」
思わず苦笑する。確かに、彼をツォンの右腕にするという意図を持ってタークスに入れたのは、
他でもないヴェルドだったからだ。
「レノが聞いたら泣いて喜ぶな」
「本人の前では死んでも口にしません」
すぐに調子の乗るのがあれの欠点ですからとツォンは言った。
不思議な関係だと思った。ツォンは、もしそれが必要であれば、
レノを即座に切り捨てることも厭わない。それはレノも知っていることだ。
しかし彼らは揺らがない。不安定な均衡を嘲笑うかのように、少しの戸惑いもなく平気な顔で、
互いに手を組み歩き続ける。たぶん、それは何か、信頼のようなものなのだろう。
他人には分からない奇妙で強固な絆だ。
だが不思議だといえば、ヴェルドとツォンとの関係も不思議なものだった。
今でも自分と彼の間柄がどういう言葉で言い表せるものかはわからない。
それどころか、自分が彼に対してどういう想いを抱いているのかすら、
ヴェルドには分からなかった。
傍から見れば憎んでいる、というのが一番しっくりくるのだろうが。
憎悪もないわけではなかった。
だが時折、ふとしたはずみで脳裏を過ぎる残像は、とても憎しみを抱く相手とは思えないほど
切実な表情であることが多かった。
恋をしていると途切れがちに告白してきた姿が。
忘れられないと思った。だが、それは感傷的な理由からだけではない。
何故ならそれは、ツォンにとって決定的な選択の場だったからだ。
おそらく、本人も気付いていないだろう、最初で最後の分岐点。
今とは全く違う人生を選択出来た、唯一の機会だ。
「ツォン」
「はい」
「もし俺が、もう一度おまえを抱きたいと言ったらどうする?」
「主任がそう望むのでしたら」
ツォンの答えには気負いも逡巡も躊躇いすらなかった。
「だが、今の俺に抱かれたところで何のメリットもないだろう」
それまで心を読ませるような動きは何も見せなかったツォンが、すっと目を細めた。
ガラスのような目にわずかに生気が見える。
「確かに、あなたにはそうした打算も含めて触れたことは否定しませんが」
ツォンは右手をゆっくりと自分の肩へと手を乗せた。以前に一度だけ、
彼のそういう仕草を見たことがあった。心の奥に流れる、過去の記憶だ。
「ですが、私は‥‥」
言葉を切り、動きを止める。続きを待ったが、彼はそれ以上言おうとはしなかった。
そして一度目を伏せ、再び開いた時、
そこにはもう先ほど覗いたような生気は欠片も見当たらなかった。
一瞬垣間見えた感情は深く激しいものだった。
だがそれを彼は完璧とも言える仮面の下へと隠している。
何者をも内側へは踏み入れさせないという、孤独で強固な意思だ。
俺もおまえも若くはないな。
もう、ヴェルドが手を差し出しても、ツォンはその手を取らないだろう。
そうすることの出来た時代はとっくの昔に過ぎてしまったのだ。
しかし、ヴェルドは心のどこかでほっとしている自分を自覚していた。
ツォンは自分の手に余る男だ。彼の人生は暗すぎる。策略と打算。
そして数限りない血で染まった軌跡。
そう血が‥‥。
まだ少年の頃、自分の血縁者を手に掛けたのを皮切りに、
彼はいったい今までどれほどの人間を破滅へと導いてきたのだろうか。
「おまえは‥少し、殺し過ぎだ‥‥」
ツォンは肯定も否定もしなかった。
「俺がカームで殺した人々のことを勘定に入れたって‥‥」
「あれは主任の責任ではありません」
静かだが、きっぱりとした否定。意外なことに、それはヴェルドを思い図っての否定のようだった。
ふと、ヴェルドはあの事件の時も、ツォンが自分を支えるように立ち回ったことを思い出し、
やはり憎めないと思った。
だが、憎めないことと殺せないことは違う。
「おまえはこれからも多くの人間を破滅に導くだろう」
だからと言葉を続けると同時に、スーツの下内側へと手をやり、銃を取り出した。
「ツォン、俺と俺の娘は決して罪のない人間ではない。
だが、これからおまえが手にかけようとする者の多くは、罪なき者だろう」
ツォンは横目でヴェルドの手の動きを追った。
「他人のために、ご自分を犠牲にするというのですか?」
「そんな殊勝なものでもないが」
スライドを引くと、カシッ、と小さな音がしてチェンバーに初弾が装填された。
「だが、俺はここでおまえを殺すことを厭わない」
心臓に照準を合わせる。この距離なら少しぐらい動かれても外すことはない。
だが、ツォンはゆっくりと自分の左手を挙げ、自らのこめかみを指した。
「出来れば、ここを」
「何?」
「綺麗に死にたくはないので」
楽に死にたいとは思いますが、と付け加えるとツォンは動揺の欠片も見せずに
ヴェルドと視線を合わせた。
「怖くはないのか?」
「さぁ、でも‥‥」
ツォンは薄く笑った。
「主任に殺されるというのは、とても良い死に方だと思います」
嘘とは思えない静かな口調だった。ヴェルドはトリガーにかけた指に力を込めた。
だが、指先は鉛のように重く、硬直したまま動かなかった。
ヴェルドは考えた。この男は悪だ。破滅と死をもたらす、死神のような男だ。
今殺さなければ後悔する。それは考える間もないほど自明の理だった。
しかしヴェルドは躊躇っていた。どうしてだろう。彼の昔を知っているからだろうか。
まだ人並みの感情を持っていた子供の頃を知っているからなのか。
それとも、育ててきた情があるからだろうか。
確かに彼をタークスのトップにするつもりで導いてきたのはヴェルドだった。
だが違う。そんなものではない。これは、俺のこの逡巡は。
選んだからだとヴェルドは思った。
彼を今ある道に進ませたあの時、彼に手を差し伸べなかった時。
あの時から、ツォンがこうなることを、俺は知っていた。
それがわかっていながら行動を起こさなかった。知っていながらみすみす見逃した。
いや、見捨てたのだ。
だとすれば、それは俺自身も悪だということにはならないだろうか。
こうなるとわかっていながら、多くの者を犠牲にする可能性を見逃した罪科は
俺にもあるんじゃないのか。それなのに、
今更、彼を裁こうなどとは随分、身勝手な話ではないか?
もし、とヴェルドは考えた。
もし俺がツォンの手を取り、離さなかったら、彼はどうなっていただろう。
多くの血を流さずに済んだだろうか。自分がタークスを追われるという事態には
ならなかっただろうか。
何より、ツォンは苦しまずに済んだだろうか?
「今でも‥‥」
すっと銃口を下ろしてヴェルドはツォンから視線を逸らし、深々とため息をついた。
俺の負けだと思った。もうこの男には勝てない。禍々しい、この世で稀に見る悪徳を実践する、
悪そのもののような男だ。それなのにと、ヴェルドはギリっと奥歯を噛み締めた。
それなに、この純粋さはどうだ。
色々な人やもの、世界そのものにも多くの変化があった。多くの人が死に、
その死の中には自分達が関わったものもある。あらゆるものが形を変え、
以前とは全く別のものに姿を変えた。自分も、彼も。
だが、その中にあっても変わらないことはあった。
「今でも、おまえを大切に思っている」
口にした途端、それがずっと真実だったことをヴェルドは思い知った。
十代の頃から、出会うだけならもっと以前から彼を知っていた。
親子のような関係を築いたこともあった。刹那的になら恋愛の真似事をしたことも。
陥れられ、銃を向けたこともあれば、命を助けられたこともあった。
ツォンへ向ける感情や関係は一時も止まることなく流動し、色や形を変えた。
けれど一貫して変わらなかったのは、彼を大切に思っているというヴェルド自身の感情だった。
俺にはツォンを殺せない。
それは決定的なヴェルドの敗北を表していた。
「馬鹿なことを‥‥」
呟くようなツォンの声には、僅かだったが確かに感情が混じっていた。
訝しげにツォンを見ると、彼は眉を寄せ、
苦虫でも噛み潰したような表情でヴェルドを睨んでいた。
ふいに笑いがこみ上げてきた。
なんだ、おまえ。銃を向けられても動揺すらしなかったのに。
こんなガキのようなセリフの一つで顔色を変えて。
だが、それはとてもゆるやかな温度を伴ってヴェルドの内面を満たした。
手を伸ばし、彼が撃てと言ったこめかみの辺りに触れると、ツォンが小さく身じろぎした。
このまま抱き寄せて、おまえの内側も満たしてやろうか。
それはとても魅力的な考えだったが、ヴェルドはすぐにツォンから手を離した。
黒い瞳が揺れるようにヴェルドを見返していた。
「二度と神羅の邪魔はしない」
小さく決別の言葉を告げると、ヴェルドは軽く手を振って踵を返した。
そこから歩き出しても、背後の気配が動く様子はなく、ただ、
ヴェルドは彼の視線だけをずっと背に感じていた。
おまえのいいようにしろ。もう、俺は表舞台には上がらない。
肩の荷が下りたような清々しい気分だった。それと同じくらいの寂寥感もあった。
だが、すべてのことはもう自分の手を離れ、手遅れなのだということを、ヴェルドは知っていた。
ヴェルドがタークスだった最後の時間は、そうやって終わりを迎えたのだった。
「どうでしたか、と」
「問題ない」
扉を開けて入ってきた人影に、一足先に本部へと戻ってきたレノが声を掛けると、
ツォンからはこれ以上はないほどの簡素な答えが返ってきた。
それじゃあ何があったかわからないですよ、と。
久しぶりの逢瀬なんだからもっとあれやこれやと期待していたのにとぶちぶち言うと、
ルードに頭を小突かれた。
ツォンはレノを完全に無視したままルーファウスの前まで行くと、ディスクを手渡した。
「簡易なものですが、カームの概要です」
「ああ」
ルーファウスは受け取ると、手元の端末に差込み、報告書を読み始めた。
一礼して下がろうとしたツォンを、ルーファウスが待てと呼び止めた。
「何でしょうか」
「おまえ、何を拗ねてるんだ?」
「何の事ですか?」
一瞬ピリっと緊張感を孕んだ空気が満ちたが、ルーファウスは口の端を上げて声もなく笑うと、
行っていいとツォンを追い払うような仕草をした。
「ふん、気分屋め。さっさと機嫌を直すんだな」
追い討ちのようなルーファウスの言葉にもツォンは眉一つ動かすことなく、
失礼しますと簡単な挨拶だけを残して、さっさと部屋を出ていった。
「気分屋?ツォンさんが?社長、何言ってんのかしらねー、先輩」
小声で囁くイリーナに、レノはひょいっと肩をすくめてみせた。
「知らないぞ、と」
そんなのわざわざ指摘する度胸なんてオレにはないし、とレノは思う。
何があったか知らないが、あんな分かりにくい男があんな分かりやすい
不機嫌さを見せるとは珍しい。どうやらツォンは相当頭にくることを言われたようだ。
しかしそれが何かは検討がつかなかった。ヴェルドは怒りにまかせて
人を面罵するような男ではないし、ツォンだってその程度で動揺するような男ではない。
というか殺されなかっただけでも不思議なんだけどな、と。
殺されるか、さもなければ怪我の一つや二つは負わされるかと思っていたのに。
一人で行くといったツォンに、護衛をつけた方がいいと忠告したレノだったが、
ツォンはにべもなく却下した。殺されるかもしれないと食い下がるレノに、
ツォンはそうだなと何でもないことのように言った。
「あんたなー‥‥」
自分一人の命だとでも思っているのだろうか。あちこち自分の都合の良いように
動かしておいてさっさと一人だけ退場するなんて虫の良過ぎることが許されるとでも?
しかしツォンは口の端を上げて薄く笑うと、レノに言った。
「信用しろ」
そんなこと、出来るとでも思っているのかと返してやろうかと思ったが、
寸でのところで思いとどまった。人の行動を読むことにかけては彼の右に出る者はいない。
信用なんてしないが‥‥ああ、従いはするさ。何てったって、あんたはオレの上司だし、
それに彼の判断力だけは認めているのだ。
「オレはエルフェの方についときますよ、と」
ツォンはそうしてくれと言った。
そして彼の思い通りにことは運んだ。カームのデータは無事に手に入り、
ツォンも殺されず、傷一つ負うこともなく戻ってきた。何も憂うことはない。
すべて上々のはずだ。
それなのに、ツォンのあの態度。いったい何があったのだろう。
彼をあれほど動揺させる誤算とは、いったい何だったのか。
「意外にセンチメンタルな理由だったりしてな、と」
「何がですか?」
イリーナが覗き込むようにして尋ねてきた。彼女の揺ぎ無い視線に、
レノはふと既視感に捕らわれた。そういえば、こいつは外見だけならキーラにそっくりだ。
キーラか、とレノは笑った。あのクソ生意気なガキには勿体無い女だったのに。
「何笑ってるんですか、先輩!」
「何でもないぞ、と」
たぶん、そういう理由だろうとレノは思った。
ツォンは人や物を操る手腕とは裏腹に、昔から自分の感情との折り合いは
あまり得意ではない方だった。
泣けば良いのにとレノは思った。それか、いっそ手に手を取って逃げてくれるとか。
そうすれば殺してやれるのにという物騒な考えは、しかし剣呑さよりは穏やかさの方が
前面にあるものだった。レノには分かっていた。もしそんな死がツォンに訪れるとしたら、
それは彼にとって安らぎに他ならない。だからそういう最期は、
もしかすると幸せと言えるものではないだろうか。
だが、実際にそんなことは有りえないということもレノには分かっていた。
ツォンはもう二度と泣くことはないだろうし、すべてを捨てて逃げ出す可能性にいたっては、
想像というより妄想の域に達している。
「レノ」
名前を呼ばれた声に反応して、ルーファウスへと顔を向けると、
彼は冷たい瞳でレノを見据えて言った。
「おまえが口出しすることじゃない」
「‥‥はい、と」
何の話だと喚くイリーナを適当にいなしながらレノは答えた。
まったく、何だってこう‥‥。
肩をすくめながらデスクへ戻ろうとして、レノはちらりと横目でルーファウスを見た。
くせのない金の髪に、アイスブルーの瞳。ツォンのように感情を隠した無機質さを持つわけでもなく、
ヴェルドのように人を威圧するわけでもないのに、どこか人工的な匂いを持ち他者を寄せ付けない。
偽りを多く抱え、同じぐらいに狡猾な青年。そして、
ルーファウスはその年齢にしては信じられないほど聡い青年でもあった。
神羅は彼の下で統一されるだろうとレノは思った。そしてようやく、
すべてのことが望み通りになる。
望み、誰の?
誰もが衝かれたように全速力で走ってきた。他人を蹴落とし、奸計をめぐらし、
他の多くのものを否応なく巻き込みながら、世界や自身を変えていった。
けれど、そうやって必死になりながら得たものは何だったのか。果たして、
それだけの犠牲を払ってまで手にする価値のあるものだったのか。
今の世界を見るがいい。誰もが、あるいは誰かが、満足した形ですべてが終わったなどとは、
とても言えたものじゃない。それともまだ終わりは遠いということだろうか。
歴史を彩る者達は、未だ最前線で抜き身の剣を片手に、血を浴びながら道を切り開いている。
まだ足りないとでも言うつもりだろうか。もっと多くの犠牲を得るまで満足しないと?
ぞくりと背筋を震えが走った。いったい彼らはどこまで進む気なのだ。いったいあと、
どれほどの血を流せば気が済むというのだ。
だが、結局はそういうことなのだろうとレノは思った。
世界はそういう、曖昧で苛烈で、混沌としたもので構成されている。
これからも、彼らは身勝手な打算の中で世界を動かしていくだろう。対抗する者もいる。
その中にはクラウドのように力を得た、手強い相手もいる。負けるかもしれない。
あるいは勝つかも。どちらでもなく、妥協という道を選ぶ可能性だってある。
未来ははるか遠く、霧の中にでもあるように、明日のことすら掴み取れない。
これから先、何がどうなるかレノには分からない。想像もつかない。ツォンにも分からないだろう。
ルーファウスにも、ヴェルドにだって分かるはずがない。
たぶん、誰一人として分かる者はいないだろう。
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