「手前はよぅ、馬鹿でよかったなぁ」
木場のどこか上機嫌な声を聞いた寅吉はうっ、と喉の奥から絞り出すような声を出した。
そんな科白を榎木津が聞けば、事務所内が物の飛び交う乱闘騒ぎになるのは目に見えていたからだ。
部屋の惨劇を考えた寅吉は、何でそう余計な事を言うのだと、
先ほどまで余計な一言を言ったせいで榎木津に追いまわされていた自分の事は
棚に上げて木場を恨めしく思った。
しかし、榎木津は寅吉の予想に反し、その人形のような顔に嫣然とした笑みを浮かべた。
「ふふ、僕は神だからな!」
高らかに宣言したその科白は木場の声に負けず劣らず上機嫌なものだった。
榎木津礼二郎という男はどうにも掴み所のない困った輩だと、
彼の古い友人である木場修太郎は考えていた。
もっとも榎木津をそういう風に考えているのは木場だけに限った事ではなく、
榎木津を知るほとんどすべての人間が例外なく抱く感想でもあった。
たまに榎木津の事を知らない人間が、彼の風聞だけを耳にしてさぞ立派な探偵だろうと
言うのを聞くと、木場は呆れとも怒りともつかない感情にみまわれるのが常だった。
立派な探偵、というのはいったいどういった奴の事だと考えたが、少なくとも榎木津が
その範囲にないことだけは確かだった。
榎木津はとにかく滅茶苦茶な人間だった。容姿、家柄、頭脳とどれをとっても
優秀過ぎるほど優秀にも関わらず、彼個人を形作る人格はこれ以上は望めないほどに壊れていた。
どうしてこの入れ物にこの性格なのだろうと不思議に思わずにはいられない。
神も随分はた迷惑な失敗作を作ったものだと思う。しかし、榎木津に言わせれば
彼自身が神であるらしい。もちろんそれを素直に信用するほど阿呆でもない。
だが本当に神がいるにせよ、彼が神であるにせよ、榎木津のような人間が大手を振って
生きているということは、神仏など信用に値しないものだと考えざるをえないという結論に
達するのだった。木場の信仰心はこうして失われつつあったが、
もちろん榎木津はそんな事を知る由もなかった。
そういった取留めのない事を考えながら向かい側に座る榎木津へと視線をやると、
彼はだらしなく弛緩させた体に酒壜をしっかりと抱え込んで長椅子へと身を沈めていた。
それは俺の持ってきた酒だと何度取り上げても「僕がこれを欲しいということは、
この酒は僕のものなのだ!」と理屈にもならないような理屈で強引に奪い取ったまま離さない。
挙句にほとんど一人で飲み尽くして気持ちよさそうに寝転がっているとはどういう了見なのだろう。
「すいませんね、旦那」
探偵事務所の奥から寅吉が榎木津の部屋からこっそりくすねて来たものと思われる
酒壜を持って現れたので、木場は手を伸ばしてそれを受け取った。
「まあ、コイツの馬鹿は今に始まったことじゃねぇけどな」
「まぁ、そりゃそうなんですがね」
一度深々と頷き肯定しておきながら寅吉は「ああっ、今のは先生には内密でお願いしますよ!」
などと繕った。今さら何をと思いながら、木場は出された酒を注ぎ、一気に飲み干した。
そして再び目の前ですうすう寝息を立てている榎木津へと視線を合わせる。
今日は夜通し騒ぐのだと言っていたくせにと苦々しく呟くが、
寝入ってしまった榎木津に聞こえるはずもない。それに例え聞こえたとしても
他人の言う事など碌に聞いていない榎木津は歯牙にも掛けないだろう。
とにかく、この男は気まぐれでいけない、と木場は思う。
あれが欲しい、これが欲しいとやっておきながら、それを手に入れてくると、もういらないと言う。
「手前、それは勝手すぎやしねぇか」と怒鳴ると、「木場修は四角いのだから僕のような
柔軟さがないに違いない。もっとその角を取っ払って丸くするべきだ」とか何とか
腹の立つ事を言い出すので、うっかり殴り合いになってしまった事もあった。
その翌日には喧嘩の事をケロリと忘れて「何故だか分からないけれど頭がずきずき痛むんだ」
と真顔で悩んでいたりするに至っては、もう開いた口が塞がらない。そりゃ殴られたんだから
痛みもするだろうとは言いにくく、代わりに「手前の怪しげな探偵事務所に物の怪でも
出たんだろうよ」と言ってやると、何故かその答えに大層満足して
「ならば仏頂面をした陰気な本屋の出番だな!」と楽しそうに京極の処へと向かい、
嫌がる彼を引っ張り出してきて大騒ぎに発展させたのだった。
事の次第を理解した京極からは見慣れぬ者が見たら泣き出しそうな程の渋面な顔で
「下らない喧嘩のとばっちりは御免だと何度言ったら分かるのだい、旦那」と嫌味を言われた。
どうして榎木津ではなく自分が嫌味を言われたのか今でも納得しかねるが、
榎木津に遠まわしな嫌味などいっても通じないという事を自分も彼も知っているので、
その煽りをくったのだろうと木場は榎木津の周りにいる者が
よく感じるような諦観な心地に陥った。
しばらく榎木津とは関わるまいと決心し、数週間事務所を訪れないと、
今度は榎木津が木場の下宿先へと乗り込んできて暴れまわる。
大乱闘と云っても過言ではないそれに、木場は怒鳴り散らすが、榎木津はそれを気にする風でもない。
いい加減に腹に据えかねて帰れ、迷惑だと連呼すると、この子供のような男は昔から全く変わらない
あどけない表情で「修ちゃんは僕の事が嫌いなのかい?」と殊勝な事を言いだすのだった。
いつもは木場修だの箪笥男だの好き勝手な呼び方で人を呼ぶくせに、
こういう時だけ甘えるような声音で修ちゃんなどと呼んだりする。
普段ならふざけるなと無下に扱う事も出来るが、何故だかこういう時に限って突き放せない。
「別にそういうわけじゃねぇが‥‥」などと甘い答えを返した途端にうふふと気味の悪い声で
笑いだし再び暴れだす榎木津を見て、今までに何度襲われたか分からないほど訪れた後悔に、
再び身を浸すのだった。
「僕がいるのにその態度は何事だっ!」
ふと耳に届いた声と、目の前に勢いよく振り下ろされる空の酒壜を見たのは同時だった。
反射的に身を縮めて長椅子から転げるように退くと、顔先数センチの処を先ほどまで
榎木津が握って放さなかった手土産の酒壜がぶんっ、と音を立てて掠めていった。
「礼二郎、手前何しやがるっ!」
だん、と机の上に拳を振り下ろすと、安物の机がぎしりと音を立てた。
近くで榎木津の散らかした服やら備品やらを片付けていた寅吉がそそくさと台所へ避難するのを
横目で捕らえる。
「ふん、おまえが悪いのだろう」
「何だと?!」
「どうして僕を構わないのだ!」
白い頬を紅潮させて怒る榎木津を、木場は憮然としながら睨み付けた。
「何言ってやがる、だいたい今まで寝てたのは手前じゃねぇかっ!!」
「僕は眠ってなどいない。だいたい眠っていたとしても、だから僕を構わないというのは
筋が通らない。木場修は勝手なのだ。そういうところがいけない、だが、和寅!」
台所へと姿を隠していた寅吉がひぃっと幽霊でも見たような声を出す。
榎木津は姿の見えないそちらへとくるりと体を反転させ、眉に皺をよせながら楽しそうに叫んだ。
「下僕の分際で僕を愚弄するおまえはもっと悪い!」
木場へと向けていた酒壜を片手で振り回しながら今度は寅吉の処へと駆け出した。
そりゃどういう筋だよ、と呆れながら木場は再び面倒臭そうに長椅子へと腰を下ろす。
物が割れる派手な音が聞こえ、寅吉が「す、すいません、先生ェっ!」と情けない声を出した。
榎木津は相変わらずの馬鹿笑いを上げながら、哀れな世話役を追い掛け回していた。
「ったく、ちったぁテメェの歳を考えて行動しろよ」
盗られた酒壜の代わりに先ほど出された壜を傾けてとくとくと酒を注ぐと、
木場はそれをちびりちびりと飲み干しながら目の前で繰り広げられる光景を眺めた。
しかし、榎木津の馬鹿騒ぎに呆れながらも、彼はそういう態度でいた方がしっくりくると
納得している自分を木場は自覚していないわけではなかった。
こんなものは見たくもないのに、と榎木津が一度だけ弱音らしきものを吐露した日の事を
木場は今でも忘れる事が出来ない。傍若無人で唯我独尊が服を着て歩いているような男が
唯一漏らした苦悩の言葉だった。
戦争が終わり、帰還した木場を待っていたのは、最後に会った時と全く変わりのない
榎木津の姿だった。「おおっ、修ちゃん生きていたのだな!ん、猿まで連れて帰ってきたのかい?
それはおまえ、褒められたことではないけれど、まあせっかくの帰還祝いなのだから
今日のところはお咎めなしといこうじゃないか!」と一息で捲くし立てた榎木津は屈託なく
笑いながら木場を出迎えたのだった。猿というのはおそらく木場の上官だった鬱病の青年の
ことだろう。木場は榎木津が稀に見えると言っていた変な幻影の事を知っていたので、
今回もそうなのだろうと思い、彼の発言を大して気にもしなかった。
気になる事が他にあったから構わなかったというのが本当かもしれない。
左目がほとんど失明同然だと聞き、励ましの一つでもしてやろうかという気持ちで
榎木津の家まで来た木場としては、拍子抜けするやら嬉しいやらで些細な疑問を考える間もなく、
また以前と同じ憎まれ口を叩きながらその日も朝まで飲み明かしたのだった。
何かがおかしいと感じたのはそれからしばらくしてのことだった。初めは何がおかしいのか
判らなかったが、そのうち不規則な生活ばかりしていた榎木津が決まった時間にしか
現れなくなったという事に思い当たった。榎木津は木場が復員してからというもの、
夜中には一度も姿を見せず、代わりに明け方辺りにひょっこりと顔を出し、
遊ぼうと騒ぎ出してばかりいた。不思議に思い周りに聞いてみると、榎木津は夜、
日が落ちてからは自室に篭って眠ってしまっているという事らしかった。自分の好きな時間に起き、
眠っていた榎木津にとって、昼夜のはっきりとした規則正しい生活は珍しい事だった。
馴染んだ軍隊生活に感化されてそうなっているのだろうかとも思ったが、
どうやらそういうわけではないらしい。昼間から飲み歩いていても必ず夕暮れになると帰ると
言い出すのは、小さな子供でもあるまいし少々変だった。
どういうことだろうな、と京極に漏らすと、彼は何やら知った風な顔で
「あんな多少の事では堪えない性質の人間でも手を焼くということなんだろうね。
関君あたりならとっくに向こう側へ行っていてもおかしくないが、榎さんはそうでないのだから
無駄な心配などせずに、もう少し待っていてあげなさい」
といつもと同じ口調で淡々と言うのだった。それはどういう事だと京極を問い詰めると、
彼はしばらく言い渋っていたが、そのうちに榎木津の視力障害と能力の関係について
自分の思う処を話し出した。
榎木津には昔から一種変わった力が備わっていた。記憶を見る、と京極は推察していたが、
おそらくそれは正しい。確かにそう考えればいろいろ辻褄の合うことがあった。
だが、それは榎木津の足枷にしかならないように木場には思えた。京極に言うと彼は笑いながら
「それは旦那の云う通りなんだけれども、でもだからといって自分ではそれをどうこうすることは
出来ないのだから言っても仕方のないことだ。それより、今あの人は自分と世界を調整している
処なんだから、旦那はそれを黙って見ていてやればいい」とやけに達観した風に言うのだった。
本屋を後にした木場はその足で榎木津のところへと向かった。
時刻はまだ正午を幾許か過ぎたばかりだったが、木場は途中で酒を買いこんで
榎木津の家へと向かった。
思った通り榎木津は家にいた。最近では日がな一日ぼうっとしているか、
道行く人を窓から眺めるかのどちらかで困る、と榎木津の父はあまり困ってなさそうに言った。
礼二郎、と声を掛けて彼の部屋へと行くと、榎木津は目ざとく木場の持ってきた酒を見て
「宴会だ!」と騒ぎ出した。もちろんそのつもりで来た木場に反対する理由はなかった。
たわいもない話をしながら呑み続け、日が落ちそうになった時に榎木津は唐突に
「僕は今から寝るから木場修はもう帰れ」と言った。そう来るだろうなと思っていた木場は
逆らうことなく邪魔したなと腰を上げ、そしてそのままの姿勢で固まった。
榎木津と視線が合った。
彼は硝子のような大きな瞳で射抜くように木場を見ていた。
元から色素の薄い瞳は、受ける光源により普段から何通りもの色彩を放つ。
今は窓から入る夕焼けを投影して紅く輝いていた。彼は今、自分の記憶を見ているのだろうかと
木場は考えた。だとすればそこには何が映っているのだろう。
先ほどまで感じていた地に足のついた現実味が脳裏で霧散するように薄れていった。
紅い双眸に吸い寄せられるように手を伸ばしても、榎木津はじっと動かなかった。頬に手を当て、
さらりとした肌を擦っても彼は微動だにしない。「目ェ閉じろよ」と言い、
どういう気分になったのか自分でも解らぬままに口付けた。
唇に触れるだけのそれは随分と長い間続いた。榎木津は抵抗の欠片も見せなかった。
軽く弄ぶように何度も唇をなぞり吐息を絡ませると、木場の背後をぞくりとした高揚が走った。
唇を重ねたまま間近から榎木津の瞳を見ると、やはりそれは先と変わらず紅く輝いていた。
目を閉じろといったのにと木場は何故か身を切るような罪悪感に囚われた。
ふと我に返り榎木津から体を離すとまた唐突に現実感が戻って来て、
己の行為を客観的に判断した木場は柄にもなくうろたえた。榎木津はそんな木場を見て
一頻り大笑いした後に「呑みに行こうか、木場修!」と元気な声をあげた。
おまえ、もう寝るんじゃなかったのかよと言ったが、彼はすでに忘れているようだった。
戸惑いながらも一度言い出したらきかない彼の事なので、木場も連れられるまま
近くの居酒屋へと向かった。浴びるほど飲んだ後にさらに飲んだので、
さすがの榎木津も所在が覚束無くなっているようだった。突然笑い出したり黙り込んだりを繰り返し、
木場がそろそろ帰ろうと言うと、いやまだ飲めるといい、本当に何杯も飲み足した。
僕はね、と榎木津にしては随分と感情の篭らない口調で言い出したのは、そんな時だった。
何だよと続きを促すと榎木津は小さな声で淡々と言葉を繋げた。
暗い処では前にも増してよく見えるようなんだ、と榎木津は言った。それは復員してからは、
というより左の視力を失ってからは、余計に見えるようになったらしい。見え方も色々で、
霧のようにぼんやりと見えたりするものもあれば、あたかも
榎木津本人が体験したかのように現実味を帯びているものもあるという。
だから夜はさっさと眠ることにしたのか、と木場は納得した。
唯でさえ暗い世界がさらに暗くなるような闇ではよけいにそれが目に付くのだろう。
より強くなった力に彼はまだ順応出来てはいないのだ。
「こんな時代だからかなぁ?見えるものといっても皆つまらないものばかりだ」
と言う榎木津の言葉に木場は彼の見てきた幻を容易く思い浮かべる事が出来た。
自分の体験と照らし合わせてもそれは想像に難くない。
では、榎木津はそんな光景を見つづけているのだろうか、と木場は思った。
そしてそれはいったいいつまで続くのだろう。
戦争は終わったとはいえ、
各人に残された焦土の傷跡は深い。何度も傷口を思い出し苦悩する者を見るにつけ、
榎木津もまた彼らと同じように陰鬱な光景を繰り返し見せられ、
あるいは体験することになるのだろう。だが、そんな光景を見つづけて平気でいられる
人間などいるのだろうか。常人ではとても耐えることは出来まい。
もし自分ならさっさと人気のない山にでも篭ってしまっている処だ。
しかし榎木津はどこへも行こうとはしていない。自宅へ閉じこもっているとは云え、
京極の言った通り、少しずつ自分と世界を馴染ませ、安定を保とうとしている。
木場はふと無邪気に笑ってばかりいた幼い榎木津の事を思い出した。自分は彼を何の苦労もなく
育ったお坊ちゃんだと思っていた。そして彼の行く先にはこれからも何の障害もないに違いないと
愚かにも考えていたのだ。だが木場はそれを妬んでいたわけではない。
榎木津のような人間はそうやって生きていくのが相応しいと思っていただけだった。
手にした日本酒を一気に煽り、木場は榎木津の方を見ずに言った。
「俺はな、おまえが照明弾に左目やられたと聞いた時には正直ほっとしたんだ。もし
あのまま将校やってたら間違いなく戦犯として裁かれていたに違いないからな。
でもな、おまえはどうなんだ?やっぱり苦しいのか、それと一生向き合いながら生きていけんのか、
受け入れられんのか?おまえの話を聞くとどちらが良かったかなんて俺にゃわからねえよ。
もしかしたらあのまま‥‥」
思った言葉を考えずに口に出していくうちに考えたくもない結論にたどり着き、
途中で言葉を止めた。そんな木場を榎木津はをひょいっと横目で見て、
ふふっと笑うと片手を自分の前に突き出し、その手を愛しそうに眺めた。
「この手はね、僕のものだよ。同じように足も頭も体も、視力を失った目も、
何だかよく解らないものが見える力も僕のものだ。だから僕は付き合ってゆくよ。
どれも自分からは捨てたりしない。修ちゃん、僕は決して自ら死を望んだりなどしないのだよ!」
思っていた事を言い当てられた木場はごくりと息を呑んだ。
そして、朗々と語りだした彼の精悍な横顔を眺め、榎木津はいつからこんな表情をするように
なったのだろうと考えた。もう大分長い付き合いだというのに木場にはそれが判らなかった。
幼い時分の榎木津はもうそこには居らず、ただ、あの頃と全く変わっていない彼の純粋な部分と、
それに加えて何にも揺るがない芯がいつの間にか榎木津という人格を形成している事を
はっきりと感じ取った。
榎木津はわはははと楽しそうに笑うと、そろそろ帰ると言ってさっさと勘定を済ませて
店の外へ出た。
外は暗く、月明かりもなかった。木場は榎木津の横へと並ぶと家まで送ると言って、
舗装もされていない道に彼が躓かぬように彼の手首を掴んで歩き出した。榎木津はそうしてくれ!
と横柄に頷き、鼻唄を唄いながら木場の後についてきた。
いつ見ても大邸宅だなと思う立派な門構えが見える処まで来ると木場はじゃあ、
と榎木津の手を離した。榎木津はしばらく握られていた手首をしげしげと眺めていたが、
またな!と彼らしい元気な声で別れの言葉を口にした。
木場が歩き出そうとくるりと榎木津に背を向けた時、ふいに背中に何かがあたった。
振り返ろうとした木場だが、鋭い響きで制止する声にそれは叶わなかった。
背に感じたのは彼のふわりとした髪の感触だった。コツンと軽く頭を摺り寄せるその仕草は、
昔から榎木津が木場に甘える時によくしたものだった。
ふいに木場の耳に消え入りそうな声が聞こえた。
「こんなものは見たくもないのに‥‥」
声音には少しだけ諦めたような色が混じっていた。先ほど同じ声で死を望まないと宣言した彼とは
別人のようだった。しかしどちらも間違いなく榎木津の本心なのだと木場には分かっていた。
そして彼が決して諦めたりはしないこともまた、分かっていたのだ。
ふいに彼の気配がなくなった。慌てて振り返ると榎木津が走り去る姿が見えた。
彼は一度だけ木場を振り返ると「また明日も遊ぼうな、木場修!」と普段と変わらぬ溌剌とした声で
叫び、背後の闇へと消えていった。明日は仕事があるんだよ、と木場は大きくため息をつき、
耳に残った聞き覚えのない声に心を掻き乱される己に戸惑いながら家路に着いたのだった。
それからの榎木津は木場の心配をよそにあっさりとしたものだった。間を置かず、
再び昼夜を問わない不規則な生活を取り戻し、あっちへふらふら、こっちへふらふらしていたかと思えば、
いつの間にか探偵などという訳の分からない職業を始めると言い出して止めるのも聞かずに
行動に移してしまった。こちらの気も知らず、と京極に愚痴ると、彼はいつもの不機嫌そうな
表情のまま「だから心配などいらないと言ったでしょうに」とそっけなく答えた。
結局、彼の問題は彼自身でさっさと解決してしまったのだった。榎木津のそういった性質を
気難しい本屋はよく理解していたのだろう。
木場が心配するようなことなど何も起こらなかった。
だがそれも当然だ。彼は一度として助けを求めたりはしていない。
元より榎木津は誰の助けも必要とはしていなかったのだから‥‥
「そんな事はないぞ、修ちゃん」
寅吉を追い掛け回していた榎木津が突然ピタリと動作を止め、木場を振り返った。
顔を上げた木場は、彼の瞳が吸い寄せられるように自分の後方へと注がれているのを見て、
何を見ていると思い訝しげな視線を榎木津へと送った。
「‥‥どういう意味だよ?」
胡乱気な声で聞き返したが、榎木津はそれには答えず、急に楽しそうに笑い出して
木場の傍へ来ると目の前に置いてあった酒壜を引っ手繰るようにして掴み、
口をつけてごくごくと飲み始めた。
「礼二郎っ!」
「これは上等なものだから人間を止めて久しい弁当箱のような男にはもったいないのだ!」
仰け反るようにして笑い出した榎木津の阿呆な姿に、すっかり毒気を抜かれた木場は酔っ払いの
相手は面倒臭いと諦め、嘆息しながら榎木津を眺めた。
まったくどうしてこいつはこうも馬鹿なのだと頭を抱えたくなる。
そしてそんな男と二十年以上も付き合いのある自分も大した馬鹿だと木場は自嘲気味に思った。
榎木津の言った言葉を考える。そんな事はない、とは何に対しての言葉なのだろう。
彼はいったい自分の何を見たのだろう。京極の言葉を信じれば、榎木津に見えるのは記憶だけで、
それに付随する想いは判からないのだという。だが木場の知る限り、榎木津は記憶から
実に的確にその者の感情を読み取っているように思えた。
ただ、それを巧く言葉や行動にしないから気付いている者は少ないというだけの話だ。
あの人はあれでなかなか聡明なんだよ、と気難し気な声が脳裏に蘇る。しかしそれは、
とても目の前で馬鹿騒ぎをしている男を評した言葉とは考えられないものだった。
事実それを言った本屋も不本意だという表情を隠そうとはしなかったし、
彼に榎木津の印象を聞けば迷うことなく馬鹿者だと答える事だろう。
木場とて昔から榎木津の事をとんでもない大馬鹿者だと思っていたし、
未だその認識は変わることはない。
だが一方では、そうでなければ彼は此方側には留まれなかっただろうと思っている事も確かだった。
彼の性格がこうだからそれに呑み込まれずにすんだのか、それが彼自身をこういう風に
変えてしまったのか。それは到底、木場には判断のつかないことだった。
しかしそんな事はどうでもいい事でもあった。京極の言う通り、榎木津が聡明だというならば、
それは彼が馬鹿であることと同義なのだと思った。そして、それ故の結果もここにある。
榎木津礼二郎というあらゆる意味で奇跡のような人間が生きてここにいるのだ。
意識こそしてはいなかったが、木場にとってそれはこの上なく満足のいく結果だった。
「手前はよぅ、馬鹿でよかったなぁ」
知らずに上機嫌になる声で、酒壜を持ったまま笑い転げている榎木津に声を掛ける。
「ふふ、僕は神だからな!」
榎木津は人形のような顔を、これ以上はないという程綺麗な笑みで飾りながら不敵に答えた。
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