足を組んで椅子に座る。近くの図書館で借りた本を片手に持ちながら視線をページに走らせる。
それが自分の教室での僕のやり方だった。
特に真剣に本を読んでいるわけでもないし、かといって読んでいないわけでもない。
適当に流しているだけのそのスタイルは今では珍しいことではなかった。
でもそれは本に限ったことじゃなくて。
最近では僕はいつもそうしている。
そんなこと僕にとってはたいしたことではないし、別にいつやめてもいいことなのだけれど、
何かと煩わしいことが多いから結局この方が楽なんだ。
それを知っている一部の人間
____________________ たとえば大輔くんとか ____________________
は「そんなのは正しくない」とありがたくも鬱陶しく忠告してくれるけど、
そんなのは僕に限ったことではないということを彼は知らないのだろうか。
だってね、そう言ってる大輔くんだってお兄ちゃんの前では自分を作ってるということを
僕は知っている。相手にされないって分かってるのに
そんな風にしているのは何だか微笑ましいよね。
勘違いしないでほしいんだけど、それが悪いって言ってるわけじゃない。
僕が言いたいのはそんなのは当たり前のことで、
誰だってやってるってことなんだ。
なのにどうして僕だけこう批判がましいことを言われなければならないのだろう。
ああ、でも。
本当は彼らが僕のことを心配してくれているというのが分かる。だから強くは言えないんだ。
ありがとう、でももう僕のことは構わないで。
僕の本当の気持ちはそんなところだ。だってね、これでも僕は情が深い方なんだから。
あんまり親しくしていると手心を加えてしまうよ。
僕にとって必要なことはそんなことじゃないのに。
それ以外の煩わしさに今は関わりたくないんだ。
僕だってそんなに余裕があるわけじゃない。 本当に、余計なことはごめんだよ。
「タケル、帰んないのか?」
デジタルワールドに行くわけでもないのにパソコンルームで本を読んでいるタケルに
大輔が声を掛ける。それでも身じろぎひとつしなかったタケルだったが
しばらくするとようやく大輔の存在に気が付いたかのようにゆっくりと視線を大輔に向けた。
「帰らないよ」
いつもより幾分低い声音でそれだけを告げると、また手元の本に視線を落とす。
「で、でもさ。もう暗くなるぜ」
冬を告げた季節、日の入りは早い。
まだ5時前だというのにすでに地平線に夕日がかかっている。
気に食わない奴とはいえ友達を一人で残していくには不安で
大輔はその場に立ち止まったままでいた。しばらくは2人とも何も喋らないままだったが、
いつまでたってもその場から離れない大輔にタケルが声を掛けた。
「大輔くんは帰らないの?」
「あ、ああ‥‥帰るけど‥‥」
「僕のこと心配してくれてるの?」
「 ___________________________ 悪いかよっ!」
うっ、とうめくような声を出した大輔だったがそっぽを向くとやけぎみに言い放った。
ぱたん、と本を閉じる音がして大輔が振り返ると
タケルがいつもと同じようににっこりと笑っている。
「ありがとう、大輔くん。でも僕、人を待ってるから」
「‥‥‥‥なんだ。そういうことなら先に言ってくれよ‥‥‥」
照れ隠しからかぶつぶつ呟く大輔にタケルは声を立てて笑った。
「じゃあ、オレ帰るわ」
「あれ、いいの?」
それがさも意外なことだと言わんばかりの声音でタケルが聞き返す。
「だって誰か待ってるんだろ。オレがいたら邪魔だろう」
「そんなことないよ。だって待ってるの、大輔くんも知ってる人だから」
「誰だよ?」
「お兄ちゃん」
次の大輔の反応はタケルの予想通りだった。
ヤ、ヤマトさんか‥‥と小さく呟いて真っ赤になる。
そんな大輔を見ながらタケルはさらに楽しそうにクスクス笑う。
「大輔くんお兄ちゃんのこと好きだもんね」
「別にっ‥‥お前ほどじゃないぜ」
「うん、それはそうだろうね」
てっきり反発の言葉が返ってくると思った大輔はにこりとした笑いを崩さないまま
さらりと返された答えにぎょっとなった。
「だってお兄ちゃんのことを一番好きなのは僕だもの」
まるでそんなのは地球が丸いというぐらい当たり前のことの様にタケルは答えた。
実際それはタケルにとっては当たり前のことだった。
物心ついたころからタケルの一番身近にいた親しい人間はヤマトだったし、
今でもそれは変わらない。たぶんこれからも変わることはないだろう。
「お、おまえさぁ」
それはちょっと兄弟としては変じゃないか、と言われる。
確かに正常な家庭で普通に育ってきた大輔にはタケルの行動は奇異に見えただろう。
「そうかな?‥‥うん、そうかもね。でも僕は‥‥‥」
そこまで言うと突然黙り込んで固まったように動かなくなる。
静寂が薄暗い教室を支配し、その沈黙に居たたまれなくなった大輔は
「でも何だよ!」と先を促す。だがタケルはそんな大輔には全く構わずに
ただいつもより少しだけ真剣な表情で腕を組んでじっとしていた。
それが何分か続いたか大輔には分からない。
そういった居心地の悪い時間というのは自分で思っているより長く感じるものなので
本当は1分もたってなかったのかもしれなかった。
ただ、大輔にとっては何分もたったような気がして、もう一度タケルに声を掛けようとする。
だがそれより先にタケルが口を開いた。
「僕はね‥‥‥」
「何だよ」
気勢を制された大輔は再びタケルの言葉を待った。
タケルは視線を大輔にあわせずに、視線を眼下に注いだまま再び口を開いた。
「僕はもしかしたら知っているのかもしれない。
そういうのを全部。知っててそれでも好きだとか言ってるのはどういう了見なのかな
‥‥そういうところがまあ
____________________ らしいと言えばらしいんだけど。
でも、もし関わるなとか誰かに言われたとしてもきっともう後戻りなんて出来ないところに
いるんだろうね。たぶん、それは僕にとって生きるってことそのものだと思うんだ‥‥‥」
「なに‥‥、らしいって?」
淡々と喋るタケルの声が時折聞こえなくなる。
何を言ったのか聞き返すとタケルは、ゆっくりため息を吐き出した。
そういう瞬間に。
たまに目の前にいるクラスメートが分からなくなる、と大輔は思う。
同い年で、そう変わらない月日を生きているはずなのに、
その時だけはずっと歳を経た大人を相手にしているような錯覚におちいる。
______________________________ でも
もしかしたらそれがタケルの本当なのかもしれない。
本来ならそれなりに年月を重ねた日々だけが構成させるものをタケルは持っているのかもしれない。
それが彼の最大の武器であり、最大の弱みだということを大輔は無意識のうちに感じ取っていた。
辛いのか、と。
問い掛けたら彼は何と答えるだろう。素直にそれを認める性分とは思えない。
何かと馬鹿にされている自分によりによって彼がそんなことを言うだろうか。
だからいつも少し前で言葉を飲み込んでいた。
伝えればよかったのかもしれない、と何年か後にこの時のことを思い出すと大輔はいつも
後悔することになるのだが、
それは彼が今よりもずっと大人になってからのことで、今はただ、
自分には見えない深淵の縁にいる彼を見守ることしか出来ないと思っていた。
実際タケル自身は誰にも助けを求めていなかったし、
仮に誰かが彼を理解しようとしてもそれを拒絶するだけだっただろう。
たった一人を除いて。
今までもこれからも、そこへ到達することが出来る可能性のある人物は一人だけだった。
それを大輔は知っていた。
そして大切な友達なのに、苦しさを分かち合えないことを心から悲しんだ。
大輔自身は知らなかったが、彼のそういうところをタケルは気に入っていた。
純粋で優しくて、もっとも残酷なたちを。
それは彼の兄に少しだけ通じるものがあったからなのかもしれないとタケル本人は思っていたが、
痛みを伴うそれをあえて深く考えるということはしなかった。
だからもっと深い部分ではそれが「しない」のではなく
「出来ない」のだということには気付かなかった。たぶん、永久に。
「‥‥‥名前だよ」
ぼうっと立ち尽くしている大輔に表情だけで笑いかけながらタケルが答える。
一瞬何のことだか分からずに首をかしげた大輔だったが
、それが先ほどの自分の問いに対する答えだと気が付く。
「名前って何の?」
「僕の中にあるモノの名前」
ぱらぱらと再びページをめくりだしたタケルは、
しかし本を読むわけでもなく手の上でその感覚をもてあそんでいるだけだった。
「大輔くんにはないの?」
何がだよ、と言いながら一生懸命理解しようとする大輔の姿を見て
タケルは羨望を込めた視線を向ける。
「もしかしたら無いのかもね」
きみには無いのかもしれない。
でも、と言葉を区切る。
「僕にはある」
「だから何だよ、それ‥‥」
いつの間にか問い詰めるような口調になっていたが、
タケルはまったくいつもの調子を崩さずに大輔から視線をそらした。
「自分の中でいちばん暗いものだよ。例えば、そうだね。こうやって‥‥‥」
ぱさり、とページをめくっていた本を下へ落とす。
静かな教室に響く異質な音にぎょっとした大輔は、
落とした本を無造作に踏みつけているタケルを見た。
「それ‥‥借りた本なんじゃ‥‥」
裏にある図書館のマークの入った本を見た大輔が慌てて言うとタケルは
にっこり笑って落とした本を手にとた。
「‥‥‥こうやって大切なものを無造作に扱ったりとかね。しかも‥‥」
「都合のいいことに僕にはこの後の対処の仕方も分かっているんだ。
少し反省したカンジで『ごめんなさい』
って言えばそれは事故ってことになることとかさ」
まるで以前にもそうしたことがあるとでも言いたげな、確信を持った口調だった。
「でも‥‥‥壊せないものもある。というより、
それが壊せないから他のものを代替的にしてしまっているだけなんだと思う。
はじめ、それは僕じゃないモノだと思ってた。
今ではそれは違うんだって知っているけど‥‥‥。
だから僕はそれに名前をつけたんだ。
適当に、その時読んでいた小説からとってきたんだよ。
深い意味はない。今ではそれの内容も思い出せないけど、すごく哀れな話だったと思う」
僕もそうなってしまえばいいと思いながらね。
最後のところは声に出さなかったが、タケルにはそれが大輔に伝わったことが分かった。
__________________________ だから僕には構わないでと言ったのに
哀れに思うのは僕だけでいいんだ。それを哀れに思うのは僕だけで。
__________________________ それでも
言い訳がましくそのことを彼に話したのは、誰かに知っていてほしかったからかもしれない。
助けてほしいと声をあげて泣き続けた日々はもう終わってしまったから。
後はもう正しいとか正しくないとかそういう概念には左右されない自分だけの
何かを手に入れてしまって、この想いと心中でもするだけになってしまったから。
せめて、知っていてほしい。
そういう意味ではタケルは大輔に最大限の信頼を置いていたし、
誰よりも代え難い大切な友達だと思っていた。
タケル自身でも信じられないほどに心を許していた唯一の「友達」だったのかもしれない。
「タケル‥‥‥と、大輔もいたのか」
がらりとドアを開けてヤマトが室内に入るとタケルがにっこり笑って出迎えた。
「あ、ヤマトさん‥‥‥」
心なしか震えているような声の大輔にヤマトが疑問を抱く前に、
タケルが正面からヤマトに抱きついてきた。
「もう、お兄ちゃん遅いよ」
甘えるような仕草でくっついてくる弟に、
ヤマトはごめんと小さく謝ってタケルの頭を撫でた。
兄弟で一緒に過す日々が少なかった彼らは互いに甘えるということを隠すことはしなかった。
特にタケルは人前でも好きな時に甘えてきたし、ヤマト自身もそれを心地良いものだと思っていた。
「じゃあ大輔くん、僕帰るね」
「何だよ、大輔も帰るんじゃないのか?」
「うん、大輔くんはまだ用事があるんだって」
帰るなら一緒に帰ろうと誘おうとしたヤマトに大輔より先にタケルが答える。
なら仕方ないなと言ってヤマトは大輔の元に歩み寄った。そのままくしゃりと大輔の頭を撫でる。
「遅くならないうちに帰れよ」
「 ____________________ はい」
触れられることになれていない大輔が、
頭にある彼の存在にビクリとするとヤマトは軽く笑って手を放した。
「じゃあな」
静かに響く声。
少し前に気付いたその暖かみを含んだ声音を聞いて、今日初めて大輔は安堵感を覚えた。
つい数分前まで晒されていた手放しに恐れを感じるものからやっと開放された。
入ってきた時と同じようにヤマトがドアを開けて廊下にでる。
そのすぐ後をタケルが追うように出ようとしていたのを大輔は腕をひいて止めた。
「 ____________________ 何?」
「オレっ‥‥」
ごくりと喉を慣らしていつもより大分真剣な表情で大輔が言う。
「おまえとは友達だから。本当に、そう思ってんだからな!」
言葉が出てこない。それでも今思っていることを伝えるために必死だった。
「 ____________________ 知ってるよ」
無表情で囁くように返された答えが、大輔には何故か泣きそうな声に聞こえた。
少しだけ、泣いてもいいだろうか。
兄の家のソファーで2人で座っている時にそう言うと、黙って僕を抱きしめてくれた。
あいつと喧嘩でもしたのかと聞かれたのでそのままこくりと頷く。
面倒だったから訂正はしなかった。
余計な事はごめんだ。
なのに、どうして心というのは思い通りにならないのだろう。
いらないと言って手を放してしまえば楽なのに。
久しくなかった痛みがギリギリと胸を締め上げる。
__________________________ 好きだよ、大輔くん
この人の次にね。一番好きなものは譲れないけど、この人のためなら何でもするけど、
そういうことを除いてしまえば彼は最高の友人なのだろう。
そんなものは一生持てないと思っていたのに。
結局僕は泣かなかった。
そしてもうそんなことではどうしようもない所まで来てしまったということに、
ようやく気付いたのだ。
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