「 ある軌跡 」





 何てキレイな生き物なんだろう、というのが彼を初めて見た時の ジェームズ・ポッターの感想だった。「生き物」と人間を評するには少々乱暴な言い回しをしたが、 実際に彼は一字一句違わずそう考えていた。
 そして確かにジェームズの思った通り、彼は周りの学生に比べても かなり目立った容姿をしていた。肩よりも長めに伸ばした黒髪も、奥深い色を湛えた青い瞳も、 触れることを躊躇わせるほどの威圧感も、見事な調和で彼をジェームズの言うところの 「キレイな生き物」に見せていた。
 引率されている生徒にもそう思っている者はかなりいるらしく、 彼に向かってちらちらと遠慮がちに視線を送る者が後を絶たなかった。 しかし当の本人はそんな視線を気にもせずに真直ぐと前を見て歩いている。
 気に入った、とジェームズは思った。物怖じしないところがいい。
 ふと彼が視線を自分に向けた。ジェームズは一瞬目を丸くさせたが、 合わせた視線を外すこともなく彼の眼差しを平然と受け止めた。 それは少なからず彼には意外だったようで、自分と交わる瞳には驚きとも 好奇心ともとれる光が横切った。
 もし、その時に大広間にたどり着かなかったら、 組み分けの儀式が今から始まるというマクゴナガル女史のきびきびとした声が降ってこなければ、 きっと彼は自分に話しかけたに違いないとジェームズは思った。 そうしてほんの少しだけ早く、これからの生活を左右する出会いに巡り合えたのだろう。
 しかしそんな事は今さら考えたところで詮無い事だったし、 ジェームズ自身も後悔しているわけではなかった。 自分がその気になれば知り合う機会など幾らでもあることをジェームズは知っていたのだ。

 何て変わった生き物なんだろう、というのが彼を初めて見た時の シリウス・ブラックの感想だった。「生き物」と人間を評するにはあまり適当でない 言い回しをしたが、実際に彼は一字一句違わずそう考えていた。
 彼が初めてジェームズを見たのは確かホグワーツへ入学したばかりの頃だった。 確か、というのはシリウス自身その時の記憶があまりないからで、 微かに残っている記憶をたぐりよせてその時だったと判断している。  シリウスは他人から無遠慮に見られることには慣れていた。 彼は自分の容姿が他人よりも些か――――もちろんこれは謙遜だった―――― 優れていることを知っていた。しかし「慣れている」というのは「不快に思わない」 というのとは違うので、鬱陶しいなと思い始めると適当に周りを見回して視線を払うのが常だった。 大抵の人間は、まるで偶然そちらを向いたら彼がいたのだと言わんばかりの態度を取り、 視線を合わせると慌てて逸らそうとする。だからジェームズと視線を交わらせ、 しかし彼が視線を外そうとはせず逆にまじまじと覗き込んできた時には、 反対にシリウスの方がぎょっとしたものだった。
 初めて目にする黒髪の少年は交わらせた視線を外す気はまるでないようだった。 さすがに視線を合わせた最初はびっくりしたような、きょとんとした表情を見せたが、 すぐにそれは好奇心の塊のような色に変わった。  吸い込まれそうだ、とシリウスは思った。レンズ越しの大きな瞳はシリウスの奥深くにある 何かを撫でるように揺らしたが、それはまだ、少なくともこの時点では、 優しく緩やかに変化する季節の移り変わりのように分かり辛いものだったので、 年若くそういった心の機微には無頓着だったシリウスは自分の中にある声に 耳を貸すことをしなかった。だから引率をしていたマクゴナガル女史が何かを言った時も シリウスはすぐにそちらに意識を向け、次の瞬間には少年のことを 頭の中から完全に消していたのだった。
 そして、シリウスは今ではそれを激しく後悔していた。 それが子供じみた独占欲の裏返しであるということを自覚してなお、彼は後悔していたのだ。



「ウソだろ、おい」
 貼り出された上位成績者の順位表を見てシリウスは思わず声を漏らした。 自分の名がそこに無かったわけではない。彼の名は順位表の上位に確実に記載されていた。 問題は彼の名よりも前に違う人物の名があったことだ。しかもその人物の点数は これ以上ないというほど完璧な点数だった。
「パーフェクトかよ‥‥」
 視線を掲示板から逸らせ指を口元にあてて軽く噛みながら問題用紙の最後にあった 問題を思い出し、シリウスは小さく舌打ちをする。 あれを解けたヤツがいたのかと苦々しく思った。
 見たことの無い名だった。いったいどんなヤツだったのかと教室にいるそれらしい 生徒の顔を端から順に思い浮かべていくが全く心当たりがない。
「――――ジェームズ・ポッター」
 口に出してその名前を呼ぶ。
「何だい?」
 思いがけず返事が返ってきたので驚いて後ろを見ると、 廊下の壁際でにこにこと笑いながらシリウスを見る顔があった。
「あ、オマエ‥‥」
 どこかで見た顔だと思ったが思い出せない。 彼のこの人懐っこそうな容姿には確かに見覚えがあるのだが。 シリウスが記憶の底をさらっている間に彼はひょこひょことシリウスの間近まで来てニコリと笑う。 並んで立ってみると彼の方が少しだけ目線が低いが、あまり手入れのしていない髪が 好き勝手に散らかっているために背の高さは同じくらいに見えた。
「キミ、シリウス・ブラックだろ?」
 そうだと答える前にジェームズはシリウスから視線を外して掲示板に目をやる。
「ああ、アレ間違えたんだ。最後の問題だろ?」
「そう。難しくてさ」
「ホント、難しかったよね。僕も解くのに数分かかっちゃったよ」
「――――何っ?!」
 返された答えにシリウスがまたしても目をむく。しかしジェームズはそれを気にした風でもなく 「だから見直しの時間があまりとれなくてどっか間違えてるんじゃないかとひやひやした」 と軽く肩をすくめた。これがセブルスあたりなら――――彼のことは 最高にウマの合わない相手としてすでに知っていた――――不快なことこの上ないという 印象を受けるのに、何故か彼が口にすると嫌味のないサラリとした印象しか受けなかった。
「すごいな」
 素直に賞賛の言葉を述べる。ジェームズはありがとう、とこれもサラリと軽く受けた後に 「キミもね」と付け加えた。
 瞬間、シリウスは彼をどこで見たのか思い出した。 心の片隅に引っかかっていた棘が急に痛みを思い出したように彼を、 そして彼の視線を思い出した。
――――あの時の‥‥
 たぶん、間違いない。と思いシリウスは彼に問いただそうとしたが、 突然ジェームズはシリウスの腕を掴み廊下の柱の影へと引っ張り込んだ。
「な、何だ?!」
「ちょっと待って」
 ジェームズの視線を追うと、そこには怒り心頭といった表情で廊下の端から歩いてくる マクゴナガル女史の姿が見えた。まずいなぁ、と舌打ちしながら唸るジェームズに 何かやったのかと問いかけると「罪のないいたずら」という答えが返ってくる。
 罪の無いいたずら?しかし本当に彼の言うとおりなら何故彼女は髪を振り乱したまま ――――いつも毅然たる態度を信条としているマクゴナガル女史にしては本当に珍しい ことだった――――あんな鬼気とした迫力でジェームズを探しているのだろう。
「罪が無いって思ってんのはオマエだけじゃないのか?」
「そーかもね」
 やっぱり、と顔をしかめるシリウスにジェームズは忍び笑いを漏らした。 そして唐突に初めて会った時と同じように 遠慮なくシリウスと視線を合わせて幾分真摯な表情で問いかけた。
「でもさ、そのぐらいの方がいいんじゃない?一人くらいはそういう生徒がいたって 構わないと思わない?この学校の生徒はおとなしすぎるよ、みんな――――キミも、 おとなしすぎて張り合いがない。刺激がない。つまらないよ」
 一方的にまくし立てながら話す口調に次第に熱が帯びる。
「それともキミは違うのかい?まだ猫かぶってるだけ?知らないだけ? 自分でもまだ気付いていないだけ?だとしたら勿体無いなぁ。 こんなにおもしろそうな人間は久しぶりだってのに‥‥」
「なんだよソレ」
「気を悪くした?ごめんよ、そういうつもりじゃない。ただ思ったんだ。キミは面白そうだって。 人好きするキレイな顔してるくせに誰も寄せ付けようとはしないし、 何でもソツなくこなすくせにすごく毎日つまらなそうだし。刺激がないんだろ? 変わらない日常には嫌気がさすんだろ?僕には分かるよ。キミもそういう人間なんだ。 だからずっとキミのことを考えてた。初めてみた時からずっと思っていたよ」
「――――何だか告白でもされてるみたいだな」
「当たらずとも、てヤツかな。ある意味では、そう」
 つまり、とジェームズは言い、目を輝かせる。
「勧誘してるのさ、僕と友達にならない?」
 そういうのは勧誘というのだろうか、と思いながらもシリウスは何故か気分が 高揚するのを押さえられなかった。胸の奥が熱く、脈打つ感覚。 この感覚に従えばいつも何かしら刺激のある場所にいけるということをシリウスは知っていた。
「友達になったら何かいいことでもあるのか?」
 挑むように言うとジェームズもつられたように不敵な笑みを浮かべる。
「人生波乱万丈になるよ」
 そう言いながら手をシリウスに向かって差し出した。 まるで握り返されることを確信しているようだった。 そしてシリウスはすでにそうすることに一片の躊躇いもなかったのだ。
「オーケイ、悪くない」
 握り替えそうとシリウスも手を差し出した時、「ジェームズ・ポッター!」と 背後から怒鳴り声がした。ジェームズがピクリと反応して体ごと振り返る。 シリウスも彼と同じ方向を見て、予想通りの光景にあーあ、と軽くため息をついた。
「ポッター、逃げた方がいいんじゃないか?」
シリウスがそう言うと、ジェームズは視線だけこちらによこして一言「ジェームズでいい」と返した。 彼らしい――――と何故かシリウスはまだあまり彼のことを知らないにも関わらず確信していた ――――その仕草にシリウスはふと笑みをこぼす。ジェームズも一度だけそれにならって笑みを返し、 次の瞬間にはくるりと踵を返してマクゴナガル女史とは逆方向に走り出した。
 待ちなさい!という彼女の制止の声を聞きながらシリウスはいずれ自分もああやって 追いかけられることになるんだろうなと考えていた。



 彼を探していた。
列車から降りる人影に二ヶ月ぶりに会う顔を捜してシリウスは周りを見回したが、 その中にジェームズの姿はなかった。
「乗り遅れたかな?」
 同時に鳶色の髪の友人もいないかと捜しているのだが二人とも影も形も見えない。 これはいよいよ何かあったのかと思ったが、だからといって今更何か出来るわけでもない。 学校まで行って、それでもまだ見つけられないようだったら先生にでも相談してみるか、 と腹をくくったシリウスはホグワーツまでの長い道のりを人波と共に歩きはじめた。
 周りには緊張の面持ちの新入生が、ぎこちない足取りで歩いている。 誰もかれも皆初々しくてすぐに在校生との見分けがついた。自分もあんな風だったのだろうかと 考えたがよく分からなかった。でもジェームズは、とシリウスは彼のことを思い出す。 そういえばあいつはまるで緊張してなかったっけ、 と入学当初からふてぶてしかった彼のことを考えた。
 ホグワーツに入学してから初めての休みはシリウスにとっては新鮮なものだった。 彼はそれまでの休みには一度も家へは帰ってはいなかったので、帰った時には家にいる誰もが ――――家族も使用人も含めて誰もが、だ――――シリウスのことを何十年ぶりに帰ってきた 息子のように扱った。大げさだなと思いながらも悪い気はしない。 以前はそんな干渉を鬱陶しいと思っていたこともあったが、今ではそれが嬉しくもあった。
 休暇中に学校での生活を思い出すことはあまりなかった。ただ、会えないままでいる 友人たちのことを考えることはしばしばあった。特にジェームズのことは度々思い出していた。 勉強は無駄にできるくせに授業はキライだし、縛られることを忌み嫌う彼のことだから 休暇中はさぞかし羽を伸ばしていることだろう。
 休み中の話を聞くのが楽しみだ、とまだこの時のシリウスは気楽に考えていたのだ。

 しかし組み分け儀式が終わり、晩餐が始まっても二人とも姿を見せようとはしなかったので シリウスはさすがに心配になってきた。 やっぱり先生に聞いてみるかと腰をあげようとした時、視界の隅にきょろきょろと周囲を見回す 少年の姿が目に入る。
「リーマス!」
 こっちだ、と手招きをすると彼もシリウスを見つけて走りよってくる。 人波を器用にすり抜けながらシリウスのところまで来ると、 リーマスは以前と変わらないにこやかな笑みを浮かべた。
「シリウス、久しぶり。元気そうだね」
「ああ、まあな」
 手を出して握手を交わす。
「ところで今までどこいってたんだ?ジェームズも一緒じゃなかったのか?」
「うん、一緒だった。事情があって僕たち一本早い列車で来たんだ」
 事情?というとリーマスはちょっとね、と言葉を濁す。追求したいのはやまやまだったが、 それよりも先にもっと気になる問題を解決したかった。
「アイツはどうしたんだ?」
「医務室。具合悪そうだったから連れて行った」
 具合が悪い?と訝しげに聞き返すとリーマスは暗い表情でコクリと頷き 「今眠ったところ」と付け加えた。

 他には誰もいない静かな部屋の隅にあるベッドで彼は眠っていた。 遠目でそれを確認したシリウスはとりあえず安心して音を立てないように気をつけながら 彼に近づいていった。
「――――ジェームズ‥‥」
 初めは見間違いかと思った。久々に見た彼はシリウスの想像とはまるで逆だった。
――――何で、こんな
 言葉も出ない。シリウスは食い入るようにジェームズの疲労の色が濃い寝顔を見つめた。
 彼は憔悴していた。もうしばらくの間まともな生活をしていないようだった。 何故だ、と考えたシリウスは同時に休みに入る前の彼を思い出した。 久々の家は楽しみだと懐かしがる自分に彼は「そうなんだ」と少しだけ曖昧に笑って返した。 気付くべきだった。普段の彼なら、きっとそんな時はからかいながら言うのだ。 「そんなに家が恋しいのかい?」と自分の少し子供っぽい感傷を屈託なく笑って後押しするのだ。
 ジェームズは知っていたのだろう。何があったのかは知らないが、 決して自分にとってこの休暇が楽しいものではないということをわかっていたに違いない。 だから彼らしくない歯切れの悪い返事で、少しだけ何かを諦めた表情を最後に見せたのだ。
 激しい憤りがシリウスの胸に広がった。無償に悔しくて、悲しかった。 自分が気付いてやれなかったことも、彼が何も言わなかったことも、すべてに憤っていた。
「なぁ、友達だろう?」
 酷いじゃないか。少しくらい相談してくれよ。力を貸してやれたかもしれないのに。 オマエの一番親しい友人は自分だと思っていたのはオレだけなのか?
「バカだな、何でキミがそんな苦しそうなんだよ‥‥」
 ふいにかけられた言葉に驚き、シリウスは眼下の彼を見た。 眠っているとばかり思っていた彼は重そうに瞼を開きながらシリウスを見上げていた。
「バカはおまえだ」
 傍らにあった椅子を引き寄せて座る。随分とこけた頬を手のひらで触るとジェームズは 子猫が身をすりよせるようなうっとりとした表情でそれを受け止めた。
「うん、そうかも――――」
 常ならぬ弱々しい声音にシリウスの胸にあった憤りは影を潜め、替わりにもっと温かく、 優しい感情が心を満たした。しばらくはそうして彼の望むままに温もりを分け与えてやる。 少しだけ安堵の表情が見えたのは自分の気のせいではないと思いたい。今からでも、 微力でも彼の支えになれたら。そして、シリウスは小さな声で囁くように何があったのかを ジェームズに尋ねた。
 とろん、と眠そうにシリウスを見ていたジェームズは一度だけ瞳を揺らした。 それは一瞬だったのでそこに映った感情をシリウスは読み取ることができなかった。
「眠いんだ、少し眠るよ」
「眠るって‥‥おい、ジェームズ!」
 彼の体調が万全なら肩を持って揺さぶってやるところだと思いながらシリウスは もう半分まどろみかけているジェームズに向かって声を上げた。しかし眠りは唐突に深くなり、 すぐに意識を現実から剥離させていった。彼の意識が現を浮遊していた最後の瞬間、 ジェームズはしっかりとした力で頬にあてられていたシリウスの手を引き剥がした。
「シリウスはもう戻りなよ。僕はまだ、眠いん、だ‥。まだ、少しかかる‥‥ 遠いけど‥完全には。ああ、それも遠、い――――やっと―――から‥‥」
 最後の方は断片的にしか聞き取れなかった言葉は虚ろな表情の中へと消えた。 しばらくは億劫そうに開かれていた瞳もすぐに閉じられ、不規則だった呼吸が 一定のリズムを打ち始めた。
 今度こそ深く眠りについたジェームズに、シリウスはため息をついた。
「――――何が、遠いって?」
 しかしその答えは聞いても返ってくるとは思えないのだった。



 そんなこともあったっけ、とジェームズは記憶の中の彼を思い出した。 二度目の新学期最初の記憶。それは随分と昔の事のはずなのに何故か今でも鮮明に 思い出すことができた。細部まで、それこそ彼の手を引き剥がした時の諦めに似た 喪失感まで正確に思い出せるのだ。
 あれからもいろいろあったな、とジェームズは考えた。 二度目の休暇の時は必死で自分を探す彼を煙に巻いてさっさと帰った。 捕まえられれば何かを白状させられそうだったし、何よりも自分がその場から 動けなくなってしまいそうだったから。そんなのは自分には似合わないとジェームズは思っていたし、 彼を巻き込むつもりも毛頭なかった。ただ、リーマスだけにはだいたいのことを話していた。 それは彼特異の事情とも重なり半ば白状させられてしまったに近いものだったけれど。
 三度目の休暇の前は妙に関心のない素振りを見せていたので諦めたのか、 とジェームズは彼らしくなく油断していた。だからまさかシリウスが休暇の直後に家に 乗り込んでくることになるとは想像もしなかったのだ。そうして自分を強引に連れ出し、 しかもその時彼はジェームズの養い親を容赦なく殴り飛ばして――――顔が変わるほどだから 全く手加減しなかったに違いない。シリウスとは何度も殴りあいの喧嘩をしたが、彼がこれほど 激昂したのを見るのは初めてだった――――家をとび出した。そんな彼に目を白黒させながら、 これから自分はどうすればいいのだろうとぼんやり考えていると、そのまま近くのホテルまで 引っ張られていき、「事情を話すまでは自由にしてやらない」と詰め寄られた。まったく、 こうなっては話さないわけにはいかないなと諦めたジェームズは彼にすべてを話した。  嫌われるとは思っていなかった。彼がそういう人間ではないというのはすでに知っていた。 それでも話すことが怖くはあった。シリウスとの関係に一抹の翳りが入ることをジェームズは恐れた。 彼との間柄はあまり執着心のないジェームズの中では数少ない手放したくない大切なものだったのだ。
 シリウスが泣き出すのを見たのもこの時が初めてだった。悔しそうに、辛そうに顔を歪めて 声もなく泣いている姿をジェームズはまだ焦点のおぼつかない瞳で捉えた。どうして彼はこんな風に 泣くのだろうと不思議に思った。自分のことでもないのに何故と。考えれば昔もそれに似たような ことがあったのを思い出した。シリウスはいつもジェームズに加えられる理不尽な扱いを 我がことのように憤るのだ。
 何だかそれが妙におかしくてジェームズは笑い出した。 発作的な笑いは止まらず、笑い続けているうちに、ジェームズは自分が泣いていることに気がついた。 そんなジェームズをシリウスは子供をあやすように優しく抱き寄せた。 もう平気だからと耳元で何度も囁かれる。しかし、自分が泣いたのは彼が思っているような 理由ではなかった。そんなもう慣れてしまった鈍い心の痛みに泣いたのではなく、 その涙はシリウスが泣いていたために流したものだった。彼が悲しいと自分も悲しいということを ジェームズは知った。そうして掴みかけては何度もすり抜けていった気持ちの正体を、 ようやく明確にすることができたのだ。

 ジェームズが泣く姿を見たのはその時が初めてだった。 それは狂ったような笑いを伴った、ひどく痛みの感じさせる泣き方だった。 彼らしいと思った。こんな時くらい、しおらしくしていればいいのにと思いながら彼を腕の中に 抱き寄せた。
 好きなんだと気付いたのはその時だった。後先考えずに行動した理由も、こんなにも彼の痛みが 自分の胸を焼くのも、すべてそのせいだった。泣きつかれたジェームズが眠ってしまった後に 一度だけ額に口付け、シリウスはそのまま自分も眠った。もうこの腕を離すつもりはなかった。
 それからの休暇はシリウスにとっては楽しいものだった。そしておそらくジェームズにとっても そうだったと考えている。理由や言い訳を何度も繰り返しながら彼を家に呼んだり、ふらふらと あてもなく旅をしながら過ごす日々は楽しかった。家族からはすっかり放蕩息子呼ばわり されていたが構いはしなかった。ジェームズが家族に受けが良かったのも幸いだった。 おかげで彼はすんなりとシリウスの家に馴染むことができた。衝動にまかせてこのままここにいろよ、 と口に出した事もあった。返ってきた答えは「じゃあ遠慮なく休み中はくつろがせてもらうよ」 というものだったが、休みの間だけじゃなくてさと、どれほど言葉に出して言いたかったことか。
 気持ちを伝えたのはいつだったのだろう。いつ頃だったのかという記憶は薄れてしまっていた。 代わりに覚えているのは学校を探索中に二人で偶然見つけた隠し部屋みたいな場所と、 その部屋にある唯一の窓から流れ込む心地よい風だった。伝えた後、軽蔑されるだろうかと 後悔しかけたシリウスを待っていたのは仰け反りながら笑い転げるジェームズの姿だった。 本気にしてないなと怒鳴ろうとしたシリウスだったが耳に入ってきた言葉に硬直した。
――――あーあ、先越されちゃったなぁ
 笑いが止まらないジェームズの前で言葉の意味を考えながら、ふと彼の笑いが以前に涙と共に 見たものとは全く違う種類のものだと気付き、シリウス自身も止まらない発作のような笑いが こみ上げてきて、結局二人で笑い出してしまった。ようやく気分が静まった頃にもう一度、 確認するように伝えると今度は「僕もだ!」という嬉しい返事が返ってきた。そのまま勢い余って 身体を重ねてしまったのは少し性急だったかなとも思う。でも、まあお互い若かったんだから しょうがないかと納得することにした。自分で言ってりゃ世話ないな、とシリウスは考えたが、 その楽しそうな表情だけは彼自身にもどうすることも出来なかった。



「ジェームズ」
 後ろから声を掛けられて振り向くのと、 卒業証書が入った筒の先でコツンと頭を叩かれるのは同時だった。
「あれ、キミも抜け出してきたのかい?」
 悪いヤツだなぁと言うと、校長の話は長くて聞いてられないとぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「そんなコト言うもんじゃないよ。あの人の話はなかなか含蓄がある」
「そういうのは話を最後まで聞いたヤツの言うセリフだ。最初からエスケープしてたオマエに 言われる筋合いはない」
 それもそうだ、とジェームズは笑いながら視線を窓の外に戻した。眼下には大勢の生徒と、 今日卒業を迎える彼らの同窓がいる。シリウスも彼にならって外を見下ろした。
「ここから見る景色も今日で最後だと思うと淋しくてね、いてもたってもいられなくなってさ」
「そういう時はオレも誘えよ」
「そのうち来ると思ったんだ。現に来たじゃないか」
 それもそうだ、と先の台詞を今度はシリウスが返した。忍び笑いをもらしたジェームズは 窓から身を乗り出し外の風に頬をあてる。気持ちがいい、と呟くとシリウスも本当に、と頷いた。
 今日の風は本当に心地よかった。もうここに来ることもないと思うと尚更、 今この瞬間が掛け替えのないものに思えた。この場所で、何年もの間二人でいたずらの画策をしたり、 熱をわけあったりした部屋で、あの日も今日と同じような風を感じていたのだ。
「これからどうするんだ?」
「僕?もちろん働くさ。一人暮らしには先立つものが必要だしね。就職口はあるんだ。 ホグワーツの首席って結構信用あるみたいでさ」
 彼の帰る場所を奪ってしまったシリウスとしては後ろめたい部分もないわけではないので 遠慮がちに尋ねたが、ジェームズは表情一つ変えずに答えた。 もう彼は何も気にしていないようだった。少なくとも以前のような 切羽詰ったような気負いはなかった。
「それより僕はキミの方が心配だな」
「オレ?」
「親の財産食いつぶすだけのロクデナシ人生にならない事を祈ってるよ」
うっ、と言葉に詰まったシリウスにジェームズはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。 しかしジェームズにしたところで本気でそんな事を思っているわけではなかった。
 シリウスは家業を継ぐことを、ついこの間決めたばかりだった。 元々彼は家に縛られるのを嫌っていたのだったが、何の心境の変化か突然「家を継ぐ」 と両親に宣言して驚かせたばかりだった。それは名のある家出身の彼にとっては同時に 爵位を継ぐことでもあった。そのために今度は今までとは違う種類の勉強をしばらく、 少なくとも数年の間はすることになる。
 ジェームズはシリウスの決断の理由を知らなかったが、結果については満足していた。 贔屓目を差し引いてもシリウスには相応しい道だと思っていた。いずれ彼のことを「サー」 の称号で呼ぶことになるんだろうかと考えて、ジェームズはおかしくなった。 きっと彼はそれを嫌がるだろう。「シリウスって呼べよ」と捻くれたように答える姿が リアルに想像できる。
 まだ見ぬその日を考えていたジェームズは、しかしそれよりも目先の事実に心を移した。
「しばらく会えなくなるね」
互いにどういう道を選んだとしても、今までのように毎日顔をつきあわせて過ごすわけでない 以上頻繁に会えたとしても月に何度かがせいぜいだろう。覚悟はしているが、 しばらくこの寂寥感は埋められそうにもない。
「困ったことがあったらいつでも連絡しろよ」
 彼らしくない気落ちした口調にジェームズはそう考えているのが自分だけではないと知った。 トクリと胸に何かがこみ上げてくるのを堪えてわざとからかうように言う。
「連絡するのは困ったことがあった時だけでいいのかい?」
シリウスは憮然とした表情を作って、よくないと呟いた。
 彼の手が頬に触れる。ジェームズはいつもそうするようにその手にすりよって感触を確かめた。 暖かい手。しかし本当に暖かいのはそれだけじゃない。もっと何か別の種類のものが ジェームズの心を狂ったようにかき乱し、そしてどんな魔法よりも効果的に安堵させるのだ。 それを身近に感じていなければ生きてゆけないほど弱くはない。それでもこの暖かさを手放すのは 辛いことだった。
「もっと早くオマエと出会いたかったよ」
 ふいに投げかけられた言葉にジェームズは視線をシリウスに向けた。
「何言ってるんだい。一年の時から友達やってるじゃないか」
「違う。もう少し早く、学校に来てすぐにさ。 そうすることも出来たのにオレはそうしなかったから」
数週間の違いだろう、と呆れるジェームズにシリウスは一分一秒だって惜しいんだよと答える。
 その言葉にジェームズは初めてシリウスを見た時のことを思い出した。 記憶の中の彼は今よりも随分と子供っぽくて、退屈そうだった。変われば変わるものだと思う。 そんな変化を間近で見てこられたのは、そしてそんな彼に少なからず影響を与えられたのは 何と幸運なことだったのだろう。彼の人生の中で自分が関わった部分を見られるのは 本当に幸せだった。
 自分も変わったのだろうか、とジェームズは考える。そして彼が自分の生き方に与えた影響を 考えて苦笑した。
 一人で生きていこうと決意したのはいつだった?その考えを根底から引っくり返されたのはいつ? 胸の疼きが耐え難いほどになったのは、好きだと言われて心の声に 抗うことをやめたのはいつのことだったのだろう?
 遠い日の記憶にまだ奇跡を願っていた自分を、そしてすぐにそんなものはないのだと 諦めてしまったことを思い出してジェームズは懐かしく思った。 何も奇跡というのは神がかり的な事象だけではないのだと、彼と出会ってようやく気がついたのだ。
「だったらこうしよう」
 添えられた手の上に自分の手を重ねる。一度は遠ざけたこともあるその手を今度は しっかりと握り、頬に強く押し当てた。
「僕は寿命が尽きそうになったら何とか頑張って数週間だけ長く生きるようにする。 だからキミはその数週間の間存分に僕を存分に構ってくれ」
 シリウスの呆れた顔を目に入れつつ、そうすれば差し引きゼロだと続ける。
「頑張って何とかなるもんじゃないだろう‥‥」
「なるさ。してみせる」
 はっきりとした口調で言う言葉にシリウスは呆れた表情から諦めたような、 それでいて何とも幸せそうな顔になった。
「かなわないな、オマエには」
 ポツリと呟いた後にシリウスはジェームズを思い切り抱き寄せた。

 手の力を緩めた時には、もうお互い何も言わなかった。名残惜しい気持ちは尾を引くが、 シリウスは自分を叱咤しながらジェームズを腕の中から解放した。自分の背にまわされていた ジェームズの腕が一度だけ別れを惜しむように服を掴んだが、すぐにそれも離された。 彼の常には見せないその行動にシリウスは胸が鳴るのを感じた。
「行こう」
 囁くように言うと、そうだねという返事がかえってきた。少し淋しげなこと以外は 普段と同じ平然とした口調。そして表情もいつもと変わらない凛としたものだった。
 彼は強いな、とシリウスは思う。大抵の人間には耐えられないあらゆることに、 彼はいつだって立ち向かってきた。もちろんそれが彼に残した禍根は根深いものがある。 一度麻痺させた心は事あるごとに古傷を抉り、彼自身をそれとは気付かぬうちに傷つけた。 なのに開いたままの傷口からどくどくと血が流れているにも関わらず、それにはまるで頓着せずに 前へと進もうとする。シリウスはいつの日かジェームズが取り返しのつかない場所で 倒れてしまうのではないかと心配していた。ある日突然歩けなくなり、 しかもそうなってしまった理由も分からず、もう動けない体を不思議に思いながら 死んでしまうのではないかと。
 確かに彼は強い。ただ、それは同時に彼にとって最大の弱点でもあることをシリウスは 知っていた。たまには泣くといい。自分でそれが出来ないようならオレが無理にでも泣かせてやる。 そうして少しは自分に限界のあることを自覚してほしい。心の軋みに耳を傾けることは 悪いことじゃない。もうダメだという心を何度もねじ伏せて歩いていくのはいずれ何らかの形で 自身に降りかかってくる災厄となるだけだ。もちろん、そうしていなければ彼が 生きていけなかったのは知っている。
 でも、とシリウスは心の中でジェームズによびかける。
もう一人ではないんだよ。今までのようにいつも一緒にいられるわけではないけれど、 それでも必要な時には隣にいる。いつだって助けになるよ。オマエだって、 それを知らないわけではないだろう?
 帰ろうと背を向けたジェームズにシリウスは長い間疑問に思っている問いを投げかけた。 それはずっとシリウスの気持ちの奥底にひっかかっていた疑問だった。あの日、意識も朦朧とした 彼がうわ言のように呟いた意味をなさない、しかし何かとても大切な言葉。
「何が『遠い』んだ?」
 ジェームズの歩みがぴたりと止まり、ゆっくりとシリウスを振り返る。ブラウンの瞳が ふいに細められ、光がすっと収束されるように小さく揺れた。
「違う。『遠かった』んだよ。もう今では遠くない」
 答えになってないじゃないかと言うシリウスに、ジェームズは何も言わずに笑顔を浮かべて 彼の手をとった。
「遠くないんだ‥‥」
 それは小さく、そして力強い口調だったので、 もうそれで満足するしかないのだとシリウスは理解した。 あの時思ったように問いかけに対する答えは返ってはこない。しかしそれは想像したような痛みの 伴うものではなかった。だからもうそれでよかった。

 彼らの描いた軌跡がこの学校には残っていた。それは他の誰かには 分からないものかもしれない。でも、もしもう一度ここへ来ることがあるとすれば、 それは間違いなく鮮やかな記憶として蘇ることだろう。想いを残すとはそういうことなのでは ないだろうか。背後を仰ぎ見たジェームズに、シリウスもつられるようにして振り返った。 そして最後にその城を瞳に焼き付けた後、もう二度と振り返ることもなくその場を後にした。


 彼らの卒業はそんな風だった。








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