「 夜明け前 」






 比べようもなく、あきらかに今まで思い描いていた人物とは別な手で押さえつけられた ジェームズは、うんざりとした面持ちで嘆息した。 そして同時に突然暗がりに引きずられるという _________________ またこの家にはそんな都合のいい場所がいくらもあるのだ _________________ 事態に対して何の動揺もしていないことに、いささか辟易した。 もう少し焦るとか何とかすればいいのに、とも思ったが、 今さらそんなことで動揺などしないということは、自分でもよくわかっていた。
 つまり彼は「慣れて」いたのだった。
自分の服の下を弄る手に背後から抱きすくめるように押さえられた身体が、 覚えのある感覚に波打つのがわかる。そんな風に反応を返す自分を「どうかしている」 と思う心はとうの昔に捨て去った。その方が彼にとっては楽だったし、 また同時に生きるために必要なことでもあった。
_________________ どうせすぐ済むさ‥‥
 湧き上がった諦めにも似た思考に、ジェームズは抗うことはしなかった。



 ジェームズは才能を利用することに貪欲だった。
確かに彼には才能があった。旺盛な知識欲は乾いた大地が水を染み込むようにあらゆる情報を吸収し、 声に乗せて唱えた呪文は誰のものより強いベクトルでジェームズの意識に呼応した。 空を翔ることは息をすることと等しく容易いもので、当然ながら彼の右に出るものはいなかった。
 しかし、彼は誰もが羨むその能力に決して満足してはいなかった。 まだ、足りない。もっと、と妄信的に力に対する欲を隠そうともせずに貪る様は、 狂っているようにも見えた。
 それほどの力を持っていながら何故まだ先へ進みたがる?
_________________ 先があるからだよ
 今のままでもいいじゃないか。キミはもう十分に力を得ているのだから。
_________________ ‥‥十分な力などあるものか
 自分を傷つけるものにとっては、本当にそういうことを望むものにとっては、 今の彼の力などものの役にも立たない。ジェームズは嫌というほどその事実を知っていた。



「あぁ‥‥」
 小さく声を漏らすとジェームズは壁に顔を押さえつけた。 立ったままの姿勢で背後からつなげられ、何度も揺さぶられては、 さすがに声を殺すこともできなかった。
 相手もそれに満足したのか、全身にほどこされる愛撫を執拗なものにする。 その度にジェームズはむせび泣くような声を漏らして彼を抱く人物の嗜虐心をそそった。
_________________ もし、これが‥‥
 この相手が「彼」だったらと。ふと、ジェームズの脳裏を見慣れた姿が横切る。
_________________ 馬鹿なことを
 無駄なことを考えるな、と自嘲気味に頭から幻影を追い出そうとしたが、 思考はジェームズの根幹に素直に従って彼のことを思い出した。 自分よりも幾分高い身長や、彼の耳に心地よい声。 しなやかに筋肉のついた腕が鮮明にフラッシュバックされて ジェームズは小さな悲鳴を上げそうになった。
 もし、今自分を抱いている腕が彼のものだったら。
もう一度、今度は否定することなく考えると、鼓動がトクンと大きな音を立てた。
目を閉じて空想の中へ意識を落とす。いつもは後ろで無造作に束ねてある黒髪がバラバラに解かれ、 ジェームズの上に降り注ぎ、常より掠れた声で繰り返し名を呼ばれて催眠にでもかかったように 意識が浮遊する。数えきれないほどの口付けと愛撫を施され、 それに答えるようにジェームズも彼の名を呼んだ。
 突然、髪を乱暴に掴まれ頭をのけぞるほど後ろに引かれると、息苦しさに咳き込んだ。
_________________ しまったっ!
 声を出したのだと気付いた時にはすでに遅く、 ジェームズは相手の不興をかったのだということを悟った。 まったく迂闊だったと自身を口汚く罵りたい気分だったが、 そんなことをすればさらに事態を悪化させるだけだというのを長年の経験から知っていたので 黙ったままでいた。案の定頭上から怒りに満ちた声が聞こえてきたが、 意識的にそれは思考に入れなかった。どうせ聞こうが聞くまいが、 この後に起こる事はいつもと同じなのだから。
 本当に迂闊だった。あと少し受け入れて、すすり泣くようなフリをすれば今夜は開放された というのに。明日に響く身体の痛みのことを考えながら投げやりに自身を相手に差し出した。



 何が必要か、と。それさえ分かれば後は単純だった。 何故なら後はそれを追求するだけでいい。幸いそれを追えるだけの能力は備わっていた。 しかし、才能があると何も知らない他人は羨望に満ちた言葉で言うが _________________ もっとも意図的に何も悟らせないようにしていたのだが _________________ もし今ある能力すべてを誰かに譲って、 その代わり今までの人生をリセットすることが出来るならジェームズは躊躇いなくそうしただろう。 彼の才能は必要に差し迫られて必要なものだったのだから。
 初めに思ったのは死にたくないという本能だった。 次に考えたのはこんな生活からはどうにかして抜け出したいという欲求。 次は自分を今まで蹂躙してきた者たちを地獄に突き落としてやりたいという怒り。 そしてようやく人並みに自分自身の才能を渇望するという段階にやってきた。 しかしそれでも、彼にとって才能はあくまでも利用するためにあるものだった。
 痛い目にあえばいいんだよ、と。
ジェームズはどうやったらキミのようになれるのかと同級生の無遠慮な質問には皮肉たっぷりに こう答えることにしていた。そんな生ぬるい生活の中でもがいているからいつまでたっても 上達しないのさ。もっと自分を堕としてみろよ‥‥。
 しかしジェームズは彼自身の奥底でそれがただの妬みであることを自覚していた。
そうだ。僕は羨ましいんだ。
何も考えずに純粋に勉学にうちこめる彼らが。 学校から帰れば未だに惨めな生活から抜け出せない自分自身と比べて何と眩しいことか。

 彼はその最たる者だった。古くから続いた伝統のある血統。傲慢とも言えるほどの自尊心。 経済的にも精神的にも満たされ、なおかつ才能もあった。 まったく、彼を見た時には笑いが止まらなかったものだ。 世の中にはこんな恵まれた人間がいるのかと。
 少しだけ溜飲が下がったのはそれでも自分の力は彼よりも上にあったということだった。
 どうやら神は _________________ もっともそんなものがいればの話だが _________________ まったく不公平な世を作ったわけではないらしい。
 ああ、それでも
 やっぱり公平ではないね。だって自分はそんな彼に惹かれているのだから。 友人として傍にいる以上のことを求めてしまったのだから。 その気持ちを自覚した時の敗北感は忘れられない。 結局自分は日の光のような明るいものには勝てやしないのだ‥‥。
 その日、ジェームズは何年もずっと乾いたままだった瞳を久しぶりに涙で濡らした。



「痛っ‥」
 人の身体だと思って好き勝手しやがって、と今度は遠慮なく声に出してジェームズは罵った。 さんざん押さえつけられ、ひどく痛む身体を引きずりながら ようやく部屋まで戻ったのは明け方近くだった。 しっかりと鍵をかけて自分の意思以外では誰も入ってこれないようにする。 その自衛のための最低限の行為は、今ではどんなに意識が薄らいでいても忘れることのない 習慣となっていた。
 シーツの上に横になるとそのまま眠りそうになった。 しかし眠りの淵を彷徨いかけた刹那、今日だけで何度思い出したか分からない人物の声が 聞こえたような気がして意識を外へ向けた。
_________________ ?」
 ここに彼がいるはずはない。 なのにどうして声が聞こえたのだろうと思ったジェームズは視界入った窓の外を飛ぶ 白い物体に急激に眠気を追い払った。
「おいでよ、僕はここだっ!」
 窓を開けて叫ぶと空を翔る鳥が音もなくジェームズの隣に手紙を落として、 部屋の中へ入ってきた。彼と同じくらい見慣れた、この長い悪夢のような休暇の間、 唯一の心の支えになる鳥をジェームズは両手でふんわりと抱きしめた。
「遠かっただろうに、よく頑張ったね。ありがとう」
 与えられた謝辞を当然のようにうけとった白い大きな梟は、 もちろんジェームズのその素直で心からの礼がめったに拝めないものだとは知る術もなかった。 だから、他人が、例えば梟の主人などが同じことを言われたら、みっともないほどうろたえることも 当然知らなかった。だが、たとえ知っていても関心をよせることはなかっただろう。 何せ梟は主人の気まぐれで衝動的な手紙のせいで夜通し飛び続けていたのだから。 体と頭を支配していたのは休みたいという原始的な欲求だけで、それは仕方の無い事かもしれな かった。
 白い羽に顔を埋めていたジェームズだったが、しばらくすると梟が運んできた手紙を手にとった。
署名を見なくても誰からのものかは分かる。 しかし確認したいという欲求には逆らえず手紙を裏返すと予想通りの名前に思わず笑みが漏れた。
 そっと字をなぞる。彼に触れたわけでもないのに、指先がジンとぬくもりを伝えた。 ジェームズはまるで高価な宝石でも扱うようにしてその手紙を開封し、読み始めた。


 彼の白い鳥が返事を書いた手紙を持って空を飛んでいくのをジェームズは ぼうっとした表情で眺めていた。心を占めるのは今来た手紙のことばかりで 他の事は何も、見据えなければならない現実でさえも頭に入ってこなかった。
 内容はたわいも無いことなのだ。 休みの間は何をしているとか、新学期に会うのが楽しみだとか。何でもない話。 だからジェームズも彼の手紙に合わせて嘘をついた。休みを楽しんでいると。
 本当のことなど教える必要はない。知ったところで何も出来ないのだからよけいなことは 言わない方がいい。そんなことは誰も知る必要のないことなのだ。
 ジェームズはもうずっと以前から、 すべてをどうにかするのは自分の力にのみ頼らなければならないという事を知っていた。 そのために、今は貪欲にならなければならない。来るべき時のために才能に貪欲に。あと少しだから。 あと少し、堪えるだけでいいのだから‥‥‥
 しかし、それでも心のより所は必要だった。 突如何もかも投げ出してすべてを、命すら終わらせてしまいたくなるような激情から 自分を守るためには。
 どれだけの能力を持っても、冷めた目で世間を見ることが出来たとしても、 彼はまだ十代を幾許か過ぎたばかりの少年に過ぎなかったのだから。


 帰りたい。彼のいる場所へ、帰りたい。
夜明け前の風が全身を刺すように凍えさせたが、ジェームズはかまわず窓枠に寄りかかり空を見上げた。 彼が同じ空を眺めているかもしれないと。感傷で自分を慰めるほどには、まだ純粋だった。








 そろそろジェームズをかっこいい路線に戻さなければ‥‥、という焦燥感がヒシヒシと。



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