大乗仏教      主要概念  空の思想  唯識思想              コメント目次
 
 中村元著・現代語訳大乗仏教「法華経」・「華厳経」-東京書籍、参照
 大乗思想はマウリア朝(紀元前317-180頃といわれる)時代、仏教庇護者として有名なアショーカ王時代に萌芽したのではないかと思われます。その頃は個々の思想家によるもので統一的なものではなかったと思われます。マウリア朝の首都のあるマガタ地方はカーストの影響の少ない自由なところであったといいます。前王朝はカースト最下層のシュードラ出身でした。
 部派仏教では『法』の展開の上にすべては存在するのですが、この存在の因縁は、縦系列であり、個別的であって、他者との関係性は「法」の共有を通した2次的なものに過ぎなかったいえるでしょう。「四諦の理を繰り返し研究考察することによって煩悩を断つ」というのですから、知的・精神的宗教だったといえます。
 しかし、西暦紀元前後にも世界的にも人口の急激な増加があったようで、横の広がり、すなわち大衆社会が拡大し、大衆救済の宗教が要請されるようになって来たと思われます。その要請に応えるために仏教の神秘化が必要となり、「真如」という考え方が生まれたのでしょう。思想的には横の広がりを持つ「空の思想」、そして包括的な「唯識の思想」が現れました。
 大乗と小乗に、「大きな神秘的な力にすがりたい」大衆を救済するにおいて大きな差はないと思いますが、世界のすべてが関係性のなかにあるのなら、一人だけ覚って世界を去るのは正しい行いでは無いということでしょう。しかし、彼らのいう小乗の菩薩たちが自分だけ覚ればいいと思っていたわけではないでしょう。釈迦と同じように人々を正しい道に導こうとしていたことに変わりは無いでしょう。ただし小乗の菩薩たちは現世には真の涅槃はないとして釈迦の現世主義に背理していました。現世主義の大乗は大衆の願望、目に見える存在にそれを見たいという願望、「偶像崇拝」、「個人崇拝」という心に寄り添っているといえます。バラモン教との融合のようなものも感じさせます。大乗思想の誕生は仏教のヒンズー化の始まりといえるかもしれません。ただし仏教側では「如来」という概念も方便に過ぎないとします。
 教団的には釈迦や修道者の呼称であった「如来」や「菩薩」の神格化が始まったと言えるでしょう。「常住不滅・永遠不滅」の超越的存在が、仏教世界に登場したのです。「般若経」や。「維摩経」はその正当化と言えるでしょう。そして大乗仏教は「法華経」、「華厳経」、「無量寿経」、「阿弥陀経」などへと、その世界を広げていきました。
  大乗仏教の主要概念
如来
 「如来」は「金剛般若経」に初出することばのようですが、「如」の本来の意味は「あるがままにあること」のようですから、原始仏教における釈迦は、この世界のあるがままの真実を観た人と考えられていたのでしょう。大乗仏教において、この「如」が「真理」となり、唯一「自性」を持つ絶対的存在となりました。絶対的存在の成立は仏教のヒンズー化といえるでしょう。
 インド仏教の消滅を前に成立した密教の経典(両部大経のうち特に)金剛頂経では、『如来』が完全にブラフマン化しているようです。「金剛乗」を主張する密教は、華厳経の延長にあるようですが、仏教とはいいがたいところがあります。釈迦は一菩薩の境地に落とされているようです。大衆化というより民衆化といえるでしょう。大衆というとまだ知的要素が感じられますが、民衆というと盲目的な情念、行動を感じさせます。
  大日経には、思想として菩提心とは「如實知自心」であるといいますが、「自心」とは何でしょう。おそらく、「頭で理解することもできないし、覚ることもできない」といっているのですから、密教儀式によってのみ体験できるものなのでしょう。「仏性」はそのようにして獲得されるもののようです。
 
仏性
 「如」からアートマン的存在として「如来蔵思想」の「生きとし生けるものみな如来の容れものである」という思想が生まれました。「涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」となります。「如来は真理の世界から来たもの」となり、『如』を行き来する存在となりました。 仏性は大乗仏教では重要な概念ですが、当初はそれほど重要視されていなかったようです。「法華経」では「五百弟子受記品」に「衣裏繋珠の譬え」があり、種子ですから仏縁によって蒔かれたものという考えでしょうか。「一切衆生は皆我が子なり」ともいっているのですが、すべての子供に仏になる資質があるということではないでしょう。
 「華厳経」では、その性格上からいって「仏性」について言及されていないようです。仏は森羅万象に満ちているのですから「仏性」など必要ないでしょう。
 「楞伽経」では「如来蔵」という考え方は自我に執着する人を仏法の無我に導く方便だといっているようです。「華厳経」や「楞伽経(りょうがきょう)」のいいたいことはただ一つ、神も仏も「心」が造ったものだということでしょう。楞伽とは現在のセイロン島のことのようです。

  慈悲
 大乗仏教は慈悲の仏教といいます。慈悲あふれる父親や母親のような存在、大衆のもっとも求めるものです。
 仏教では「慈悲」について「この心、心にあらず」というそうです。関係性によって生じる泡沫的な心ではないということでしょうか。「如来・菩薩」は慈悲心の権化のようです。「慈悲」は「一切衆生悉有仏性」の絶対的唯心論において、世界の本質、「心」の本質ということでしょうか。
 インド仏教における本来の慈悲は友情のようなものだったようです。友が苦しんでいると自分の心も引き裂かれるように苦しみを感じ、助けようとする心ということでしょう。
友愛、あるいは端に「愛」とでもいうべきものですし、あくまで人間の心にあることだったでしょう。
 しかし、菩薩や如来の超人化が進んだ大乗において
「愛」の差別化が起こりました。思想的には「慈悲」は『如』の本性の現われということでしょうから、本来は衆生縁とか法縁、無縁などと差別するべきものでは無いのです。しかし、衆生の慈悲は様々な我欲。我愛という雑菌に冒されていますし、また菩薩の慈悲も法の理に捕らわれていて純粋ではないということなのでしょう。
 空の思想 
 
「諸法空相」といって大乗仏教の理論的説明といわれるのが「空」思想です。「空」とは何かを「欠いていること」が原義ですから、何もないということではなく、元はおそらく「常住不滅性の欠如」だったのではないでしょうか。龍樹の空理論では「独立した不変の実体(自性)の欠如」ということのようです。
 龍樹によれば、この世界はすべて関係性の上で成り立っていて独立した存在(イデアやブラフマン・アートマンのような自性・実体を持った存在)としての「法」などないということです。「説一切有部」のいう「実体的な法」など無い、「諸法」といわれる現実世界も関係性の上に生じるものである。それが空性ということのようです。「法」として認識されているのは言葉による虚構に過ぎないといいます。
 ここに来て
「空」という概念は世界の関係性という意味を含むということになりました。「縁起」は個人的空間における関係性の感がありますが、「空」とは空間的関係性の自覚でしょうか。
 
 龍樹の「空」思想は、「説一切有部」の主張する「三世実有・法体恒有」という世界を現象させる「法」の実体性を否定する意志によって考えられたということですが、原始仏教が釈迦の言葉を「法」として原理化したことが誤りだということでしょう。こうなると「一切皆苦」という仏教精神も消滅してしまいそうです
 龍樹は言語による認識を「言葉の虚構」と説明しているといいますが、「虚構する主体」は何なのでしょう。そして関係し合っている「もの」とは何でしょう。「それは言葉で表現できるものではない、つまり実体がないのであるから」と龍樹は言っているようですが、「心」のことではないでしょうか。華厳経の「三界唯心」につながるでしょう。
 「実体のないなにものか」を道教では「タオ」あるいは「気」と言います。「空」とは「気」に似ていますが全く違う概念でしょう。「気」はエネルギーのようなものですが、「空」は様相に過ぎません。龍樹はそれを「ありのままの姿・真実」としているようです。つまり「空」は「ありのままの真実・『如』」の様相ということになるでしょう。仏教にはエネルギーに当たる概念はないようです。エネルギーは「根」という身体器官の元になるもの(法)に分有されているようです。
 龍樹は「如来」だけが自性を持つ存在だとしたようですから、すべては『如』からくるもの、『如』から展開しているという考えなのでしょう。つまり『如』には『関係性』によって世界を展開する仕組みがあるということになります。『如』の自性とはけっきょく「空」ということではないでしょうか。「空」の本質は『如』であり、この世界の本質は『如』ということでしょう。「空」は『如』の体のようなものといえます。
 こうして龍樹は説一切有部の矛盾を克服したのですが、「如来」という自性を持つ存在を設定してしまいました。それは必然的に衆生の如来性すなわち仏性へ導きます。
 
  「空」に関する諸説。
「なにも無いこと」。「空とは単なる無のことではない」。「空とは無と有を超えた概念である」。「空」とは無と有の絶対矛盾の自己同一である」。「空とは無と有の弁証法的止揚である」。
 唯識思想
 無着・世親によってまとめられた「唯識思想」は、龍樹が「空の思想」で言っている「虚構」のシステムの解明、すなわち『心』のシステムの解明といえます。仏教思想をシステム的に説明しようとする試みといえるでしょう。
 「識」は「心」の働きで、「識」によってのみ世界は現象するものですから「唯識」というということのようです。
 「識」や「種子(しゅうじ)」の作用を語りながら、それも実体がないという表現が神秘的に聞こえるかもしれませんが、「心」の働きはこれこれといえる実体を持たないが、それを仮にこのように名付けただけだということでしょう。
 唯識思想には陳那(じんな、ディグナーガ、dignaaga दिग्नाग(sanskrit)による「有相」という考え方もあって、物の形は実体ではないがその形態(相)は実在(おそらくシステム的な)と言います。「色法(物質的存在)」にはそれ固有の相があるという考えのようです。固有の相とはプラトンのイデア論やアリストテレスの形相論のような感じがします。「唯識思想」は人間の心の構造的システムを語ったのですが、それはとりもなおさず『諸法・世界』のシステムということでしょう。このシステムは機械論的システムではないようですが、有機システムともいえないようです。植物的で動物性が欠けているといえるでしょう。
 ところで、なぜ、どこから、心の働き「識」が生まれるのかという疑問がわきます。その答えが『如・真如』でしょう。『如』は森羅万象における実在、唯心の実在なのです。『真如』に多くの名前があるのは、仏教者における『真如』に対する考え方の違いにもよるものでしょう。清浄無垢・平等・愛という善のみを『真如』とする立場と、「無明」という悪の根源を伴って『真如』とするのかという違いが大きいでしょう。そして、すべての存在に『真如』を見る立場もあります。しかし、『真如』と「無明」や「諸法」を別なものとするなら、「無差別」を標榜する大乗仏教の精神に反するでしょう。『真如』の上に「一なるもの」を考えなければならなくなります。だいたい真と形容すること自体が差別ですから「一なるもの」を『如』とすればいいのではないでしょうか。結局あらゆる存在は『如』の現れに他ならないでしょう。すべてはそこに有り、そこから生じ、そこに存在し、そこに消えていく、『如』とは『混沌』であるといえるでしょう。

 唯識思想によって仏教思想はまとめることができるようになり、絶対的唯心論としての立場は完成したといえるでしょう。
 インド仏教はある意味で「独我論」ではないかと思います。インド仏教の世界観を理解するのには客観的視線では不可能です。釈迦は客観的人間でしたが、インドにおいて仏教という宗教団体を形成した仏教者たちは、自己の内界において世界を見ていたといえるでしょう。いわば自己のうちで葛藤し、自問自答している世界です。

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