唯物論 における霊魂観
 近代に入ると、唯一神教に胚胎していた物質主義によって科学が急速に発達しました。そして物質や生命、心など、宗教時代には欺瞞と誤謬、迷信に覆われていた現実世界の法則、システムが解明され宗教的世界観の根拠が大きく揺るがされました。科学による生産技術も発展し、古代には微々たる勢力でしかなかった唯物信仰が優勢となりました。そして心も物質現象化し、生命原理としての魂の意味は消失し、いまや心も生命も脳という機械の働きということになっています。もちろんあらゆる霊魂の存在は否定され、統一原理である創造者を失って、物質世界は無際限に広がってしまいました。宇宙には人類の誰一人到達することのない無数の星雲があり、星々があり生命があるということになり、人間は限りなく卑小な存在となってしまいました。多元宇宙論などという荒唐無稽な理論も作られました。この無限の虚無をカバーしようとするのが相対性理論であり、そこから生まれたビッグバン理論ですが、そこに量子の不確定的な世界が登場しました。それは見たままの現実という唯物信仰の崩壊を意味していました。こうして今や人類は混沌の中に投げ込まれているのです。
純粋に唯物的な物質観念は唯一絶対神教の誕生によって始まったと考えるべきでしょう。唯一絶対神教とは、唯一の神を除けば物質主義であるという意味になります。唯一絶対神教では『神』あるいは人間の魂以外のものは造られた「物」でしかないからです。人間の魂といっても、物質に『神』から生命の息を吹き込まれた程度のもので、死ねば消えるものであり、神に認められたもののみ、世界の終末の後に永遠の生命を与えられる程度のものでしかありませんでした。そして生物(organism)は道具に過ぎないのです。

 古代の唯物論者の「精神は物質から生まれる。それは酵母からアルコールが生じるようなもの」といいました。しかし酵母からアルコールができるのは物から物が生まれるということです。物から精神が生まれるというのは「無から物が生じる」といっているようなものではないでしょうか。不自然というか、何の必然性もない考え方といえるでしょう。とはいえ霊魂が気息のように考えられていた時代、物質にも霊的存在を認めるアニミズムの延長にある時代ですから、そういう意味では自然な考え方だったのでしょう。現代科学も、物質に「心」の形成力を認めるなら、けっきょく物質的エネルギーに霊的力の存在を認めなければならないでしょう。それは唯物主義の破綻に他なりません。思うに引力や重力という見えないエネルギーも十分に神秘的で霊的に思われます。
 古代唯物論
 そもそも唯物論とは「神話時代」の神々の支配、裏を返せば祭祀階級など神々の権威を利用する権力を否定する意志からのものでした。古代ギリシャの原子論者デモクリトスは「神々の恐怖から解放された魂の安らかさ」を幸福としました。といっても彼のいう原子は現代人の感覚でいう原子とは違う霊的な存在でしょうから、神霊にかわって霊的物質元素の持つ力(物質エネルギーといってもいいでしょう)によって世界が存在するとする思想なのでしょう。彼にとって『魂』も霊的物質元素によって形成される物なのでしょう。思うに、現代物理学における、物と物を、原子と原子を結びつける力、物質エネルギーという状態も、重力や引力が見えないものであるように、すでに絶対的に見えない神秘的霊的なものではないでしょうか。そこに心的・精神的力の形成力を想像するのに何の困難もないのです。ただ、宗教的権威・支配の根拠である「神」の存在を断ち切っただけのことです。同じく「神」を否定するものとして成立した仏教のような唯心論には、精神的権威・宗教的権力の入り込む余地がありますが、唯物論においては、心は二次的な存在ですから、それはありません。それが唯物論の強みです。
 しかし、唯物論には人間の生き方としての正邪、あるいは人生の価値を判定する基準はありません。チャールバーカやエピクロスのいうように「何が快楽」かというのが基準といえば基準ですが、それは人によって違います。何が快楽かを世間常識的にいえばチャールバーカのいうように本能的欲望の充足でしょう。しかしエピクロスは精神的欲望の充足をいいました。 
 「快楽」とは欲望の充足のことでしょう。「快楽」とは「欲望」なのです。すなわち、快楽をもたらす「欲望」とは何であるかという問いが重要になります。知的欲望の快楽もあるでしょう。芸術的人間にとって芸術こそ快楽です。生活における豊かさや平和ということも快楽といえるかもしれません。反社会的人間にとっては破壊こそ快楽かもしれません。これでは「快楽」を人生の普遍的価値とすることはできません。しかし、精神主義が否定し、唯物主義が肯定する「欲望・快楽」の底には見えない普遍的価値が潜んでいるようにも思われます。すべてはそこから立ち上がっているのですから。

物論的世界観において魂、生命と心に対する思索は無意味だったでしょう。しかし現在、唯物的な現代科学はその頂点を迎えるとともに自己否定的に生命と心に目を向け始めました。それについて語る前に現代唯物論を支える科学の歴史を概観してみます。
 近代唯物論
 科学の発祥
 科学(science近代西洋科学―実験と観察、測量と論理的思考による自然学)はイスラム教神秘主義に始まったといわれます。イスラム錬金術は『神』の創造の意図を知り、それに近づくために行われたのでした。それは『神』の創造の謎を解き明かすことでもあったでしょう。イスラムの神秘科学(キリスト教世界からはアラビア科学ともいわれたそうです)が東ローマ帝国を経て、十字軍の遠征と地中海貿易で富を築き、繁栄をきわめていたイタリアに伝わりルネッサンスの原動力となったようです。そしてイスラム教と違って自然を単なる創造物としてしか見ないキリスト教世界観のもと、機械論的世界観の広がりとともに、神秘のヴェールをはがされ、純粋に物質化した近代科学となったのでしょう。キリスト教世界では、物質における霊性の存在は人々の意識から失われ、占星術が天文学になり、錬金術が化学になり、数秘術は数学になったのでした。イスラム科学に対してキリスト教科学というべきかもしれませんが、科学の父といわれるガリレオ・ガリレイに見るように、実際は科学的唯物論の誕生ともいえるでしょう。とはいえガリレオが死んだ年(1642年)に生まれた万有引力のニュートンは、科学の法則を神の摂理として考えていたようです。
 近代科学の発展
 近代科学は、キリスト教徒の『神』への奉仕精神をバックにして、大航海時代植民地時代へと拡大するキリスト教世界とともに発展し、産業技術の発展をもたらしました。
 科学技術の発達は十八世紀後半、ワットによる蒸気機関の改良とともに、植民地貿易で巨大な富を築いたイギリスに産業革命を起こしました。
 一九世紀に入るとドルトンの化学的な視点からの原子論、そして原子の集まりとしての分子説など様々な画期的な科学理論が発表されました。中でもファラデーの電磁気に関する研究は特筆すべきものでしょう。それを応用する様々な産業技術の発達があり、産業界は一段と革命的な発展を遂げました。それが一八五一年のロンドン万博として結実しました。科学の成果は人間生活のさまざま面に広がって産業革命で台頭したブルジョワ市民生活を豊かにして行き、一方自然学において「進化論」が登場し、『神』の絶対権力を揺るぎ始めていたのでした。
 現代科学へ
 唯一絶対神教的な物質世界はデカルトの機械論的世界観を経て、ニュートン物理学において頂点に達し、二〇世紀初頭においては、もう『神』の創造の謎は大筋においてすべて明らかになったと思われていたようです。科学者たちに残されたのは、究極的な物質とは何かとか、黒体輻射など熱や光に関する瑣末な問題になってしまったかのように思われていたということです。
 「黒体輻射」はマックス・プランクの「量子仮説」の「量子定数」によって解決されたということです。しかし、量子という観念はそれまでの物質運動に対する固定的連続的なとらえ方を、比例的段階的な変化としてとらえることでした。量子の登場はそれまでの唯物論における固定的な物質観念を覆す物理学の革命というべきものでしょう。しかし当時の科学者たちは、ブランク自身も、それに気がつかなかったようです。「量子仮説」を生かし、「量子定数」を初めて使ったのがアインシュタインでした。それ以後ニュートン物理学は古典物理学といわれるようになりました。
 量子状態に対する最初の大きな成果がアインシュタインの相対性理論でした。「スピノザの神」を信じるアインシュタインの認識では相対性理論はスピノザ的『神』の範疇の中にあったようですが、すでに『神』の領域、世界観・物質観を侵していたといえるでしょう。なぜなら、『神』は人間の自由意思、自己判断の能力を認めず、すべての世界を、すべての人間に対して平等に、絶対的法則によって支配していたのですが、アインシュタインは「人の立っている位置によって時間も空間も違う」といったのです。それは人間それぞれの立場によって世界観が違うということをを認めたということでしょう。個々の人間の立場を認めるということは『神』絶対性をすでに犯しているといえるでしょう。
 そのころエックス線によって原子の非固体性、不確定性が露呈されました。それが量子力学の不確定性原理となって、『神』とその「物理」に決定的打撃を与えました。
 こうした物理学における革命のさなかに起こった二つの世界大戦は、科学技術の驚異的な発展をもたらし、核爆弾の開発に至り、長崎・広島で実験されました。その驚異的な破壊力は人類の破滅を予感させるものでした。産業廃棄物による自然破壊とともに唯物科学の負の面が浮上したのでした。

科学(science)の原義はラテン語のscientia(単なる知識)だそうです。ギリシャ語のフィロソフィア(哲学、知を愛すること)やグノーシス(知識、認識、知ること)との違いは、ギリシャ語の背景には霊性、形而上学性が存在することでしょう。
イスラム神秘科学の知(イルム)は純自然科学的な論理的思考と知的直感的把握、そして神の啓示という三つの階層からなっているといいます。
神秘主義を否定したキリスト教の即物精神こそ科学進歩の原動力と言っても過言ではないでしょう。


 デカルト、スピノザ
アインシュタインが共感したスピノザの思想は無神論とか無世界論、唯物論とかいわれるようですが、世界は神の身体として展開していると見ています。一元多神と通じるところがありますが多神論的汎神とも違います。一元的汎神論というのが正解かもしれません。唯物論といわれるのはキリスト教的偏見からでしょうが、神の存在を排除すれば即唯物論という点では唯一絶対神教と共通です。神の人格性を否定したのは勇気あることでしたが、自由意志を持った魂を否定しているところなどは彼の思想が唯一絶対神教の範疇の内にあることを示しています。スピノザの思想はカント、ヘーゲルという西洋的な「唯心論」へと続きますが、個の魂の領域へ踏み込んだものはいないようです。
スピノザが影響を受けたデカルトは「我、思う、故に我あり」といって自由意志の存在を認めているようですが、個の魂の存在には否定的であったようです。しかし、デカルト思想には「神」の存在は薄いようですから、そこまで踏み込むことは身を滅ぼすという恐れがあったからかもしれません。とはいえ、彼の思想はルネッサンス以後のキリスト教世界に生まれた宗教的『神』に対する懐疑精神の現れといえます。それがスピノザの神を生んだのでしょう。
デカルトの思想がその後の西洋思想をリードしたといわれます。しかし、むしろスピノザの「神だけが唯一の実体である」という主張こそ西洋哲学の本質的問いになったのではないかと思われます。「神」のみを実体とするだけなら唯一絶対神教に反することはないのですが、彼は「神とはすなわち自然である」といったのです。言い換えれば「すべては自然の法則の現れである」ということでしょう。そこに「実体」という表現の意味があると思われます。万物万象すべて「神」の現れです。これでは唯一絶対神教の本質「選民思想」に対する反逆です。
スピノザの思想はユダヤ教神秘主義「カバラ」の流れを見ることができるでしょう。アインシュタインが自由意志を否定するスピノザの神を信じていたという点に、彼の科学的情熱の源泉をみることができます


『実体(subsutance)』とは仏教の『タターガタ、如』と同じで、変化する物事の根底にある変化せず続いていくものという意味のようですが、原義は「下に立つ物」で、織物の地ということから来るようです。
『実在(reality)』は個人的な内なる観念に対して客観的に真実に存在するものという意味のようです。しかし、客観という観念は東洋思想にはなく、イデア論の系列にある哲学の用語といえるでしょう。