安祥城
あんじょうじょう

■所在地:安城市安城町 ■立地:台地端 ■別称:森城 ■築城年:1440年
■築城者:和田親平 ■遺構等:曲輪、土塁

本丸跡(了雲院) 城址碑
二の丸跡(八幡社) 土塁?

■歴史
 1440年に足利一族の和田親平が築いた。
 15世紀後半に松平3代の信光が攻略し、以後7代清康が岡崎城に移るまで松平家の本拠となった。清康の死後、跡を継いだ広忠の代になると織田信秀は松平家の攻略を考え安祥城は何度も戦火にさらされた。そしてついに城は織田氏のものとなった。
 信秀はさらに岡崎城の攻略を考え、広忠は今川氏に援軍を頼んだ。その見返りとして広忠の子竹千代(徳川家康)が人質として差し出された。しかし竹千代は駿府に送られる途中で田原の戸田康光に奪われ信秀に送られてしまった。さらに広忠が家臣に殺されるという事件が起こり、今川義元は松平家の遺臣が信秀につくことを阻止するため岡崎に雪斎和尚を派遣した。
 雪斎は松平家の遺臣とともに安祥城の奪還を図り、2度目の攻略で城を落として城将の織田信広(信長の兄)を人質とした。そして信広と家康の人質交換が成立し織田・松平の安祥城攻防戦は幕を閉じた。
 桶狭間の合戦後に家康が自立すると信長との間に同盟(清洲同盟)が結ばれ、安祥城は廃城となった。

●現状(1998年10月)

 現在の安城市歴史博物館付近が城址で、隣接する了雲院が本丸跡、八幡社が二の丸跡、博物館の敷地が三の丸跡となっている。三の丸は当時の面影は全く残っていないが、本丸、二の丸は周囲の切岸や櫓台跡等の遺構が確認できる。また、了雲院の山門前と八幡社の南側に土塁らしきものが残っている。
 初めてここを訪れたとき、城址を撮影しようとデジカメの電源を入れたらピーピーピーというエラー音が。液晶には「No Card」の表示が。スマートメディアの接触不良かと思って差込み口のふたを開けるとカードがない。デジカメのケースにも入っていない。痛恨の入れ忘れだった。ここまで来て帰るのは悔しいので近くの家電店を探し、ようやく見つけたエイデンでスマートメディアを購入。当時は8MBで5千円。家には既に3枚のカードがあったのだが、痛い出費となってしまった。


◆場所