長篠城
ながしのじょう

■所在地:新城市長篠字市場 ■立地:段丘上 ■別称:末広城、扇城 ■築城年:1508年
■築城者:
菅沼元成 ■遺構等:曲輪、堀、土塁、井戸、碑

城址北側の大土塁に建つ城址碑 主郭
城址北側の大土塁
城址北側の堀 天然の堀、寒狭川

■歴史

 長篠の菅沼氏は、菅沼満成の子元成が荒尾の岩古屋城(設楽町)からこの地に城を築いて移ったことにはじまる。当時は今川氏親に属していた。長篠菅沼氏は元成の後、俊則、元貞と続き、元貞の頃には別所城の伊藤氏を従えるほどの勢力になった。
 今川氏親の子義元が桶狭間で敗死し、器量の小さい氏真が継ぐと今川氏に背く者も多くなった。菅沼元貞の子貞景も松平氏(徳川家康)に降った。貞景は掛川城(静岡県掛川市)攻めの際に戦死した。
 1571年に武田氏が東三河に侵攻をはじめると、貞景の子正貞は田峯菅沼氏の勧めで武田氏に従った。1573年に徳川家康が長篠城を攻めると、正貞は長篠を脱出し信濃に移った。その後、徳川配下の松平家忠、奥平景忠を城番に置き、奥平信昌が城主の時に武田勝頼率いる1万5千の軍に攻められた。こうして、戦国史上最も有名な長篠・設楽原の合戦がはじまり、武田の無敵騎馬軍団を破った織田・徳川連合軍の鉄砲隊や、武田軍の包囲を脱して岡崎へ援軍を頼みに行ったが帰りに捕まり、磔にされながらも援軍の到来を告げた鳥居強右衛門の武勇など、多くの名場面の舞台となった。ここで大打撃を受けた武田氏は間もなく滅亡し、奥平信昌も新城に移り長篠城は廃城となった。


●現状(2000年2月)

 城址は、主郭と主郭周囲の内堀以外は目立った遺構は残っていないが、広範囲にわたり城址をしのぶものが残っている。城は寒狭川、宇連川、矢沢と3本の川に3方向を守られた要害であることが良くわかる。城内にある史跡保存館へ入ると往年の長篠城の様子を知ることができ、付近から発掘された矢じりや鉄砲玉なども展示されていて、400年以上も前の出来事が急に生々しく感じられる。
 私が訪れた時は、ちょうど発掘調査が再開された直後で、いたる所にビニールシートや掘り返した土の山があり、発見されたばかりの中堀もシートで覆われていた。
 豊川方面へ少し戻ると設楽原古戦場資料館があり、付近には武田騎馬軍団を防いだ馬防柵の複製や、主な武将の陣跡、戦死場所の碑などがあり、一日かけて自転車でのんびりと探索したい。戦国時代に興味があるなら、一度は訪れて欲しい。


◆場所

 東名豊川インターを降りて、国道151号線をひたすら北上し、旧新城市を越えて旧鳳来町に入るとすぐに長篠城址がある。大きな看板も出ており、すぐに見つかる。