武節城
ぶせつじょう

■所在地:豊田市武節町シロ山 ■立地:丘陵 ■別称:地伏城 ■築城年:16世紀初期
■築城者:
菅沼定信 ■遺構等:曲輪、土塁、堀、碑、説明板

主郭にある土塁(櫓台) 城址碑
主郭南の堀 二の曲輪(奥の高いところが主郭)
三の曲輪、二の曲輪、主郭が連なる 西から見た城址
武節城縄張図
■歴史
 永正年間(1504〜1521年)に田峯城主・菅沼定信が支城として築いた。1556年には武田信玄の家臣・下条信氏の侵攻を受けて激戦となった。
 1571年、信玄が三河に攻め入ると田峯城の菅沼定直は武田の軍門に降り、支城の武節城も従った。以後、武田氏の支配下におかれることとなった。
 1573年、徳川家康の長男・信康が武節城を攻め落としたが、翌年には武田勝頼に攻め落とされた。
 1575年に長篠の合戦で勝頼が敗れると、田峯城主・菅沼定忠は勝頼を田峯城へ案内したが叔父の定直や家老の今泉道善らの反逆にあって入城できず、苦難のすえに武節城へ落ち延びた。勝頼はここで梅酢湯を飲んで心身の労を休めて甲斐へ帰ったといわれている。
 定忠はその後も武節城に籠ったが徳川家康家臣の酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領有となった。1590年に家康が関東移封となると信昌も従い、武節城は廃城となった。

●現状(2007年3月)

 国道153号沿いにある道の駅「どんぐりの里いなぶ」のすぐ東にある丘が城址で、大きな看板が国道からでもよく見えます。道の駅を過ぎてトンネル手前を左折すると主郭まで舗装された道路が続いていますが、工事中だったので道の駅の駐車場へ入って歩きました。
 主郭は広く、説明看板や城址碑があり、主郭南部に大土塁が残っています。この土塁も防御のための土塁ではなくて櫓台、狼煙台としてのものらしいので、実質的には土塁はなく、菅沼氏の田峯城と同じ特徴を備えています。主郭から北に二の曲輪、三の曲輪が階段状に連なっています。この3つが主な曲輪ですが、他にも多くの曲輪があり、墓地やゲートボール場、畑などになっているものもあります。
 城めぐりで疲れたら「どんぐりの湯」で疲れを取るのも良いですね。


◆場所