刈谷城
かりやじょう

■所在地:刈谷市城町1丁目 ■立地:台地端 ■別称:亀城 ■築城年:1533年
■築城者:
水野忠政 ■遺構等:曲輪、水堀、土塁、碑

城址碑 城址は現在の亀城公園
本丸の様子 本丸周囲の土塁
水堀 城址は桜の名所

■歴史
 緒川城(知多郡東浦町)の水野忠政が境川を挟んで対岸の台地に刈谷城を築いた。忠政の娘於大は岡崎城の松平広忠に嫁ぎ、家康を生んだ。
忠政の死後信元が跡を継いだが、以前から松平氏と結ぶことに反対していたため織田氏に属した。その後、松平氏との抗争が続き、岡崎の於大も刈谷へ帰された。
桶狭間の合戦でも信元は織田氏についたが、今川義元が討たれると家臣を使って大高城の家康にそれを知らせ、岡崎城へ帰る手引きをした。しかし、刈谷城は鳴海城を守っていた今川の将岡部長教に攻められ、城を守っていた信近(信元の弟)は討たれ城は焼かれた。信元はただちに援軍を送り城を奪還した。その後、信元の計らいで信長と家康は清洲において同盟を結んだ。
 1575年、信元は武田氏との内通の疑いをかけられ殺害され、佐久間信盛が城主となった。やがて水野氏(信元の弟忠重)に帰された。1632年、忠清が吉田城へ移り、以後、松平、稲垣、安部、本多、三浦、土井氏と続いた。明治維新後、城は取り壊された。
●現状(2008年4月)

 本丸と内堀の一部が公園として残されている他は、野球場や体育館、小学校の敷地となっています。確認はしていませんが、これらの跡地には標石が立てられているようです。本丸の周囲には土塁も良く残っています。本丸周囲の切岸は、もともとの遺構なのか、公園整備の際に削られたものかはわかりません。江戸時代には石垣も築かれたそうですが、廃城後に持ち出されたために跡形もありません。
 また、亀城公園は刈谷市内有数の桜の名所で、花見の時期には露店も並び、多くの人で賑わいます。

◆場所

 刈谷市役所の西1.5qほどに位置する亀城公園が城址である。近くには刈谷球場や刈谷市体育館があるので、地図でそれらを目指していけば道路沿いに幅の広い水堀があり、すぐにわかる。