東条城
とうじょうじょう

■所在地:吉良町大字駮馬字城山 ■立地:丘陵上 ■別称: ■築城年:13世紀初期
■築城者:
足利義氏 ■遺構等:曲輪、土塁、碑、復元櫓

城址碑 主郭の様子
中世城郭を再現した櫓門と物見櫓 二の曲輪(八幡社)
八幡社境内に残る土塁 三の曲輪
城址遠景 藤波畷古戦場の碑
東条城縄張図
■歴史
 1221年に足利義氏が承久の乱の戦功により三河守護職に任ぜられた。義氏は西条城(西尾市)を築いて長男・長氏を入れ、一方で東条城を築き、三男・義継を入れた。義継が前期東条吉良氏の始まりである。以後、経氏、経家、貞家、満家と続き、南北朝の頃には貞家・満家は奥州管領として奥州攻略へ出向いた。
 この隙に西条吉良氏の尊義が空いた東条城を押さえて自立し、尊義は後期東条吉良氏の始祖となった。以後、西条と東条は吉良氏の正統を主張して争った。
 尾張の織田氏、三河の松平氏、遠州駿河の今川氏の勢力が伸びてくると東条吉良氏の八代持広は西条吉良氏と和睦し、西条吉良氏から義安を養子に迎え、松平清康の娘と結婚させて東条城を譲った。
 1535年に松平清康が守山で殺害されると織田信秀と結び今川氏に対抗したが敗れ、義安は駿河へ幽閉された。後を継いだ義昭は1560年に桶狭間で今川義元が討たれると徳川家康(松平元康)と争うようになった。
 1561年に家康が東条城を攻め、藤波畷の戦いで敗れると降伏した。義昭は許されて岡山城へ移されたが、1563年に三河一向一揆が起こると家康に背いて一揆方に加わった。一揆が収まると義昭は近江へ逃れた。
 東条城には松井忠次・松平家忠が守将として入り、家忠が東条松平氏の祖となった。

●現状(2007年2月)

 東条城は案内看板もあるので行きやすく、近くまで行けば丘の上に物見櫓が見えるのですぐにわかります。駐車場もあり、城内には遺構の案内看板もあるのでおすすめの場所です。
 主郭はよく整備されており、中世城郭を再現するために物見櫓と櫓門、柵、土塁が復元されています。櫓門と物見櫓には登ることはできません。主郭はかなり広く、ここに吉良氏の居館があったと考えられています。
 主郭北西の二の曲輪には八幡社があり、境内右手には当時の土塁が残っています。また、城址は遠くから見るとなだらかな丘ですが、曲輪の周りは全て切岸となっており堅固な造りとなっています。
 城址から周囲を見渡すと、家康が東条城攻略のために築いた砦の位置関係が良くわかり、包囲されていた状況が目に浮かびます。城址のすぐ西の農道沿いには東条吉良氏の敗戦を決定付けた藤波畷古戦場の碑が建っています。


◆場所