深溝城
ふこうずじょう

■所在地:幸田町大字深溝字丸ノ内 ■立地:丘陵上 ■別称: ■築城年:14世紀初期
■築城者:
大庭氏− ■遺構等:碑、説明板

■歴史
 鎌倉時代末期に大庭氏が築いたとされる。以後200年ほどは大庭氏の居城であったが、大永年間(1521-1528年)頃に松平忠定が大庭氏を討って入城したとされている。
 以後、2代好景、3代伊忠は徳川家康の三河統一事業に従い、4代家忠は長篠の戦いで功を挙げた。 1590年の徳川家康の関東移封により、家忠は武蔵国忍藩(埼玉県行田市)1万石として入封した。
 5代忠利は1601年の関ヶ原の戦いで功があり、旧領の三河深溝藩1万石となった。1612年には吉田藩(豊橋市)3万石に加増され移ったために深溝藩は廃藩となった。
 1614年に板倉重昌は深溝において1,230石を拝領し、家康の側近として活躍して家康死去の頃には11,800石ほどの大名となった。1624年に陣屋を構えて深溝藩が復活した。その後、重昌は領内に検地を実施して、1万5000石の石高が認められ、深溝藩は1万5000石となった。
 1637年、重昌は島原の乱鎮圧の総大将として幕府軍を率いたが戦果を挙げられず、幕府から新たに松平信綱が増援として送られたたため、功をあせって自ら突撃し、戦死してした。
 後を継いだ子の重矩は藩庁を三河中島藩(岡崎市)に移したため、深溝藩は廃藩となった。

●現状(2008年8月)

 幸田町にある三協幸田工場のあたりが城のあった場所で、地形的に雰囲気を残していると思います。土塁があるとのことでしたが、工場の敷地内なのか、見つけることはできませんでした。
 深溝松平2代目の好景は、三河統一を目指す徳川家康と東条城の吉良氏との戦いである善明堤の戦いで吉良義昭の軍に討たれましたが、それにまつわる旧跡が吉良の東条城をを訪れた時にあったのを思い出しました。
 この日は、別の用事で幸田町を訪れていたので時間が限られていたのですが、最後に深溝城へ寄るのがぎりぎりで、深溝松平氏の菩提寺である本光寺などに寄れなかったのが心残りでした。


◆場所
(碑の場所)