山中城
やまなかじょう

■所在地:岡崎市舞木町城山 ■立地:山頂 ■別称:■築城年:1524年
■築城者:
松平信貞 ■遺構等:曲輪、土塁、堀切、碑、看板

主郭に建つ城址碑と看板 主郭西の曲輪U
主郭東の曲輪Vの東側切岸 城址西側の堀切
曲輪Uの北の竪堀 城址遠景
山中城縄張図

■歴史
 岡崎城の西郷氏は松平信光との抗争に敗れて、信光の子・光重を養子にさせて所領を継がせた。これが岡崎松平氏の始まりである。しかし、3代目の信貞は1524年に山中に砦を築いて宗家である安城の松平清康に対抗したため、清康方の大久保忠茂が風雨をついて夜襲し、一夜で落城した。
 1535年に清康が守山で殺されると、広忠(家康の父)が後を継いだが、織田氏にそなえるために竹千代(家康)を人質として駿河の今川義元に救援を求めた。今川氏は山中城を西三河確保のための拠点とした。
 1548年に、尾張の織田信秀(信長の父)と小豆坂で戦った際には今川方の拠点となり、山中城を守り織田勢を退けている。
 1560年に桶狭間の戦いで義元が敗死すると、松平元康(家康)が山中城を攻め落としたが、1563年の三河一向一揆により一揆勢に一時占領された。その後、酒井忠次に山中郷の知行を安堵し、関東転封まで酒井氏の所領であった。

●現状(2004年3月)

 周りには何も無いが道も狭いので車を止める場所もない。農道の路肩の広い場所を探して車を停めて歩いた。城の入口は、西の羽栗口と東の舞木口があるが、この時は主郭に近い羽栗口から登った(たまたま、こちらの入り口を先に見つけたというのもある)。自然歩道の入り口に駐車できるスペースがあったが、今さら車を取りに戻るのも面倒なので、そのまま城址へ向かう。縄張図を見ても主郭を基準にしないと自分の居場所がわからないことが多いので、山城へ行くとまずは主郭を目指すことにしている。
 城内は自然歩道が整備されており、主な曲輪は歩道沿いで見られる。コース上でない部分は木が茂っているので確認しにくいが、下草があまり茂っていなかったので、結構歩き回ることができた。
 羽栗口から登ると、左側に堀切があり、さらに登ると広い曲輪にでる。この曲輪の周囲は低いながらも土塁が取り囲んでいる。そのすぐ東に主郭(一番高いところにあるけど、規模的に主郭と呼んでいいものかどうか。)があって城址の看板と石碑が建っている。そこから東へ向かうと延々と小さな曲輪が連なっている。各曲輪の周囲には切岸が設けられているのが明確である。城址の北側には竪堀が点在している。竪堀は雨水の通り道となりやすいために、崩れてしまったり周りが浸蝕して保存状態が悪いことが多いが、山中城の竪堀はくっきりと残っていて、越えることができなかった。
 城址は全体的に保存状態が良く、規模も大きくて歩きやすくてお薦めの城である。


◆場所

 国道1号線の山中小北交差点を幸田町方面に曲ると、右手に見えている山が山中城のある山である。特に目印はないが、山沿いの道を通れば看板が立っている。