長沢城
ながさわじょう

■所在地:音羽町長沢字古城 ■立地:丘陵端 ■別称:桜ヶ城 ■築城年:1458年
■築城者:
松平氏  ■遺構等:井戸、碑

長沢城付近 長沢城主郭付近(手前は国道1号、左端に井戸)
井戸 民家に建つ城址碑

■歴史
 1457年に松平信光が長沢の長沢四郎を攻めて城を奪い、子の親則に与えた。親則は長沢松平氏の祖となった。
 5代・親広と子の政忠は桶狭間の合戦の時に松平元康(徳川家康)に従い織田勢と戦ったが、政忠が討ち死にしたので親広の孫の康忠が6代目となった。
 7代・康直な1590年の小田原の陣に家康に従って軍功を立て、旧領の長沢の他に武蔵国深谷城1万石を領したが早く死に、子がいなかったので家康の子・松千代が康直の養子となって後を継いだ。しかし松千代も8歳で死んだため、松千代の弟・忠輝が跡を継いだ。忠輝の妻は伊達政宗の娘であり、忠輝自身も野心の持ち主で家康に対して反発することがあった。1615年の大坂夏の陣でも出陣を遅らせて家康の怒りを買い、お家断絶となって長沢松平氏は終わった。

●現状(2006年2月)

 長沢城は長沢保育園や国道1号を挟んで北側の高台にある住宅地一帯にあった。
 長沢保育園に長沢御殿の井戸が残っているということで保育園へ行ってみると、敷地の一番奥に井戸らしきものがあったが、安全対策のためか、コンクリートと金網で覆われており、また、フェンスで囲まれた敷地の奥にあったので中を覗くことができなかった。
 次に、国道1号の北側の主郭部分へ向かうために長沢小学校の南側の道路を東へ歩いていくと、小学校の南東隅に「長沢城跡」の説明看板があった。学校の東側の道路を北へ向かうと国道1号の下をくぐり抜けて北側へ出ることができる。城址の碑や井戸を探したが全くわからない。しばらく歩き回っていると家から出てきたおばあちゃんがいたので城址の碑がある場所を聞いてみると、「この向こうに広場があって、そこにあるよ。それと、すぐそこのトンネルの所にも小さい三角の石に赤い字で書いてあるやつがあるよ。」と教えてくれた。広場とは、おそらく住宅街の西にある戦没者慰霊碑のある広場である。そこは先ほど見たので確認すると、「城の石碑がある。」と言うので、先ほど行ったときに見落としたかなと思い再び探したが、やはり見つからなかった。仕方がないので、もう一度住宅街の中を歩き回ると、先ほどは逆方向に歩いていて見落としたのか、民家に立派な石碑が建っているのを発見した。このあたりにも井戸があるはずだと思ってさがしたが見つからなかった。さらに、おばあちゃんが教えてくれたもう一つの碑も、国道1号線をくぐるトンネルのあたりで探したが、ついに見つからなかった。これらを断念して車に戻ったが、主郭付近の写真を撮ろうと思って歩いて国道1号まで出ると、道路の向こう側に井戸が見えていた。たまたまこの日は一眼デジカメを使っていたので、望遠レンズでしっかり撮ることができた。


◆場所

もう一本、東の路地だったかもしれません。