おおぬまじょう |
■所在地:豊田市大沼町八沢 ■立地:尾根端 ■別称:− ■築城年:−
■築城者:木村安信 ■遺構等:曲輪、堀切、土塁 |
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中央の堀切の西側曲輪群の主郭 |
東側の最頂部の曲輪の様子 |
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主郭南の曲輪と土塁 |
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堀切 |
居館跡とみられる場所 |
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■歴史 |
大沼城は足助七城の一つで、木村東見入道安信が築いたといわれている。
1571年、子の信基のときに、武田信玄の軍が足助城を落とし、その後4年間で足助七城を攻略した。大沼城は、1574年に武田勝頼によって攻め落とされ、木村氏は滅亡した。しかし、武田氏の支配は受けなかったらしく、信基の養子で大給城(豊田市)の松平乗正の次男・近清が大沼城主となった。
近清の子・近正は1584年の小牧長久手の戦のときに、徳川家康の命で蟹江城(蟹江町)攻めて功をあげた。翌年、家康の家臣、石川数正が秀吉のもとへ去るときに近正を誘ったが、近正はこれに応じず、家康に子を人質に出して忠誠を誓った。やがて家康が関東移封になると上野三ノ倉5千石を領し、大沼城は廃城となった。 |
●現状(2003年5月) |
城内へ登っていくと中は竹やぶで、ほとんど道はない。一応は、腰曲輪状の平坦地があるので、それを通路代わりに上へ向かって進むと、わりと広い曲輪がある。さらに登っていくと主郭のすぐ西のやや広い腰曲輪に出る。その曲輪の一番北に土塁があり、そこをスロープ代わりにして主郭へ登る。
それまで、竹やぶだったので結構歩きやすかったが、主郭は雑草・雑木が茂っており、通路以外へはまったく踏み込めない。しかたないのでそのまま進んでいくと、堀切があり、いったん降る。そしてやや東に向かって登っていくと、また曲輪が続き、最頂部の曲輪へ出る。
帰りは、そこから南方向へ降りていく通路があり、城内を戻るよりも降りやすい。こちらから登って城内を降るという手もあるが、道がないので方向がわからなくなって、どこへ降りていくのかわからなくなる可能性が高い。登りは道がなくても方向がわからなくても、とりあえず高いところを目指していけばいいので、なんとかなるのである。
大沼城は他にも、城址のやや北に桶沢という取水場の跡があり、さらに東の曲輪から尾根伝いに北東へ登っていくと山の山頂へ出るが(道があるかどうかは不明)、そこも若干の削平地があり、なんらかの施設があったと考えられている。
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◆場所 |

豊田市役所支所(旧下山村役場)の少し北に洞樹院という寺があり、その前の道路を挟んで東隣の小高い山が大沼城である。道路沿いに案内看板があるのですぐわかる。そこを東へ入ると、すぐに城内への入口があり、看板も立っている。 |
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