野田城
のだじょう

■所在地:新城市豊島字本城 ■立地:丘陵端 ■別称:■築城年:1516年
■築城者:
菅沼定則 ■遺構等:曲輪、堀、土塁、井戸、碑、看板

野田城址碑 主郭
井戸 主郭と二の曲輪の間の土橋
野田城縄張図

■歴史
 菅沼一族「山家三人衆」の一人、田峯菅沼氏の祖田峯定信から数えて3代目である定則は、兄の定広が家督を継いだので野田へ移った。そして、当時東三河まで勢力を伸ばしていた今川氏に属した。やがて、定則の孫定盈の代に今川義元が桶狭間で討たれると、松平氏(徳川家康)の配下に入ったが、宗家の田峯菅沼氏や長篠菅沼氏は武田氏に属した。
 1573年、上洛をねらう武田信玄が2万を超す大軍を率いて三河へ侵入し、城兵数百名の野田城を取り囲んだ。同族の田峯菅沼氏も長篠菅沼氏も武田氏に属しており孤立無援の状態であった。しかし、野田城は堅固な備えで長期戦となった。そこで信玄は、甲斐の金山掘りの人夫を動員して城外から掘り進め、ついに城内の井戸に穴を開け水を抜いてしまったという。この戦いの際に、城兵の村松芳林が吹く笛の音に聞き惚れた信玄が城に近づき、これに気づいた城兵の鳥居三左衛門に鉄砲で撃たれ、これがもとで信玄が死んだという伝説は有名である。ともあれ、最終的には山家三人衆の仲介で定盈は開城し、1ヶ月にわたる攻城戦は終わった。

●現状(2000年2月)

 看板のある主郭の入り口から城内に入り、右手方向へ少し進むと城址碑があり、さらにその少し奥に井戸がある。井戸は柵があるが、結構深くて広い。城址は主郭、二の曲輪、三の曲輪が残り、主郭と二の曲輪の間の堀と土橋、三の曲輪の土塁などが確認できる。主郭以外は結構荒れていて、歩きにくい。
 各曲輪には高低差がなく横一直線に並んでいる。そのために城兵の移動が容易であり、少数の兵で大軍を相手に良く持ちこたえることができたといわれている。
 周囲は道路や住宅などがあり、野田城を囲む武田軍を想像するのは難しい。


◆場所

 東名高速道路の豊川インターを降りて国道151号線を北上し、新城市に入ると右手に野田城址の案内看板が見えてくる。「豊島」交差点で右折し、城址である森を左手に見ながら進むと、やがて野田城址の説明看板があり、主郭入口がある。