田峯城
だみねじょう

■所在地:設楽町田峯字城 ■立地:丘陵地 ■別称:蛇頭城、龍ノ城 ■築城年:1470年頃
■築城者:
菅沼定信 ■遺構等:曲輪、堀切、模擬御殿・厠・櫓・門、碑、看板

城址遠景
城址遠景 下から見た主郭
堀切
模擬御殿と模擬櫓(右奥)
城址碑 道善処刑地
田峯城縄張図

■歴史
 菅沼氏は、設楽郡作手村菅沼に興ったので菅沼氏と称し、菅沼定成の代に田峯へ移った。そして、子の定信が田峯城を築いたといわれている。定信の子・定忠は今川氏につき、以後、定広、定継と続いた。
 今川氏親が没すると、定継は安祥の松平清康に従ったが、やがて清康が守山で殺されると今度は織田氏が三河に侵攻し、定継は作手の奥平貞勝らと織田氏に通じた。しかし、一族の中にはなおも今川氏から離れない者もいたため、菅沼氏は内部分裂した。
 定継は、1556年に弟で布里城主(鳳来町)の定直を破ったが、すぐに今川義元の援軍に敗れて討ち死にした。その後、田峯城は一族の菅沼定勝に占拠されたが、後に定直の居城となり、定継の子・定忠を補佐した。
 1560年に桶狭間で今川義元が討たれると、三河の松平元康(家康)は織田氏と同盟し、定忠もこれに従った。しかし、1571年に作手の奥平氏、長篠の菅沼氏とともに武田信玄につき、信玄の三河侵攻に従って活躍した。
 やがて、長篠の戦で武田勝頼が敗れると、定忠は勝頼とともに田峯城へ退却した。ところが、留守をあずかる叔父の定直や重臣の今泉道善らの謀反にあって入城できず、武節城(稲武町)へ逃れ、勝頼は甲斐へ戻った。定忠は奥平氏に攻められて伊那(長野県)へ逃れ、復讐の機会をうかがった。
 1576年、定忠は田峯城を急襲して叔父・定直と今泉道善を討ち、その一族老若男女96人を討ち果たした。道善は生きたままノコギリで首を切られた。
 1582年に武田氏が滅亡した後、定忠は信濃国伊那郡知久平において牛久保城(豊川市)の牧野康成と戦って討ち死にした。そして、菅沼定直の子・定利が田峯城主となり、一族の争いは収まった。

●現状(2003年5月)

 城の場所は周囲を山に囲まれており、天然の要害である。城址は、良く整備されていて、一部の曲輪は墓地と茶畑になっているが、他は樹木も伐採されており、曲輪の形状も良くわかる。各曲輪には、曲輪名が標示されており、それぞれどのような機能を果たしていたかも説明が書かれている。
 主郭には、御殿、厩(うまや)、物見櫓、門などが建てられているが、これは中世の城郭や武家屋敷にあったものを集めて再現したもので、発掘調査などに基づいて復元したものではない。実際の田峯城がどんなものだったのかは知らないが、御殿などは本来は山城の主郭ではなく、ふもとの武家屋敷などにあるものなので、違和感がある。せっかくなので、足助の真弓山城のように主郭には天守閣にあたる高櫓ぐらいを建ててほしかったなあと思う。御殿内も、田峯城に関する資料館になっているわけでもなく、普通に御殿の内部が復元されているだけなので、特に見るべきものはない。しかし、近くで見ると立派過ぎて馴染まない御殿だが、遠くから見ると、なかなかいい感じである。ちなみに、主郭からは入城料が200円である。
 田峯城のすぐ西の丘には、長篠の戦の際に謀反を起こした今泉道善の処刑の地がある。
 また、田峯城には土塁がないという特徴があり、崩されたのではなく、どうやら初めからなかったようである。関係の深い作手や鳳来の城には立派な土塁があるものが多いだけに不思議である。


◆場所

 田峯城は設楽町の西南、作手村と鳳来町と接するあたりにあり、国道257号線の「田峯」交差点で曲がって田峯小学校の方へ向かうと、城址まで行くことができる。