たはらじょう |
■所在地:田原市田原町巴江 ■立地:丘陵端 ■別称:巴江城、今宮城 ■築城年:1480年
■築城者:戸田宗光 ■遺構等:曲輪、堀、土塁、復元桜門 |
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本丸跡(巴江神社) |
三の丸跡(護国神社) |
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復元桜門 |
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模擬二の丸櫓 |
三の丸前の堀 |
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■歴史 |
田原城を本拠に渥美半島を支配した戸田宗光は、1493年に田原を嫡男の憲光に譲って二連木城を築いて今川氏の船形山城を攻略したが、反撃を受けて討ち死にした。宗光の死後、戸田氏は今川氏の傘下に入った。
1506年に今橋城(吉田城)の牧野古白が今川氏親・戸田憲光に攻められ(松平長親という説あり)古白が討ち死にすると、戸田憲光の次男・宣成が城に入った。しかし、1519年に古白の遺児成三・信成が今川の援軍により今橋城を攻め、宣成は田原へ落ち延びた。宣成は今橋城に備えて大崎城を築いた。
大崎には既に伊庭氏の居城があったが、宣成が中世城郭として拡張したものと考えられている。
その後、戸田氏と牧野氏は今橋城の攻防を繰り返したが、1546年に今川義元がこれを収めて今橋城を占拠し、吉田城と改めた。
1547年に岡崎の松平広忠が嫡男・竹千代(徳川家康)を駿河(静岡)の今川義元へ人質として送ることになったが、戸田氏四代の宗光が途中で竹千代を奪い、尾張の織田信秀に渡すという事件が起こった。これにより怒った義元によって田原は攻められ戸田氏は滅んでしまった。後に竹千代は、信秀が義元に敗れた際に信秀配下の武将との人質交換で義元に引き渡された。
今川義元が桶狭間で織田信長に敗れると家康は岡崎で独立して三河で勢力を伸ばし、田原も家康の勢力下に入った。1590年に家康が関東移封となると吉田城主の池田輝政に属し、城代の伊木清兵衛によりほぼ現在の縄張が築かれた。1664年に挙母(豊田市)から三宅康勝が移り城の改修を行い、以後幕末まで続いた。明治5年に城は取り壊された。 |
●現状(2002年5月) |
田原の蔵王山から続く丘陵地にあり、田原中学校に隣接している。正面には復興の桜門があり左右には土塀と水堀が続き、なかなか立派なものである。門をくぐると右手には三の丸、左手に二の丸、正面に本丸となっている。本丸は巴江神社となっており、もともと天守閣はない。三の丸は護国神社、二の丸は御殿風の田原町博物館、腰曲輪には崋山会館が建っている。
ただ、残念なことに、かなり観光施設化されており、東と西の堀は道路や駐車場となり、空堀も庭園化されている。博物館なども城址に似つかわしい外観で建てられているが、城の規模には不釣合いな立派なものである。
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◆場所 |

田原市の田原中学校、田原中部小学校に隣接している田原市博物館や巴江神社が城址である。 |
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