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■歴史 | ||
西郷氏は、当初、駿河の今川氏に属していたが、松平清康(徳川家康の祖父)が東三河に勢力を伸ばしてくると松平氏に属し、牧野氏の吉田城攻めに参加している。1535年に清康が守山城で殺されると今川氏が東三河へ進出し、西郷氏も再び今川氏の傘下に入った。 西郷正勝の代に今川義元が桶狭間で討ち死にすると東三河の諸勢力は松平元康(徳川家康)に属するようになり、正勝は五本松周辺の砦を強化し、月ヶ谷城(豊橋市)に嫡男・元正を入れ今川に備えた。 1562年に今川の武将、朝比奈泰長が月ヶ谷城を攻めた際、正勝は援軍に駆けつけたが城は落ち、正勝親子は討ち死にした。この時、次男の清員は元康の元におり、元康の働きで旧領を保つことができた。 清員は姪のお愛を養女とし、お愛は後に家康の側室となって二代将軍秀忠を生んでいる。 |
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●現状(2002年5月) | ||
正直言って、全く整備されていないために中へ入れなかった豊橋市の山城をいくつも廻ってうんざりしていたので、たいした遺構も残っていない五本松城はパスした。ちなみに、豊橋市の山城は、どんなに規模が大きかろうが市街地に近かろうが、ほとんど何の案内もない。これだけ沢山あるといちいち整備してられないとは思うし、実際、私有地が多いので難しいとは思うが、私の近所の豊田市は、大抵の山城は整備されている。状態が良いところなら縄張図の看板も立っている。 |
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◆場所 | ||
![]() 豊橋市石巻萩平町の西郷小学校の東の交差点から東へ向かうと、左手に医神社の鳥居と石段が見えてくる。ここは堂山城跡で、そこを通り過ぎてすぐ小川の橋を渡るので、渡ったところで右折して公民館を過ぎたあたりで城址碑が道端にあり、住宅街の後ろの山が山城のあるところ。 |
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