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■歴史 | |||||||||||||
田原城を本拠に渥美半島を支配した戸田宗光は、1493年に田原を嫡男の憲光に譲って二連木城を築いて今川氏の船形山城を攻略したが、反撃を受けて討ち死にした。宗光の死後、戸田氏は今川氏の傘下に入った。 1506年に今橋城(吉田城)の牧野古白が今川氏親・戸田憲光に攻められ(松平長親という説あり)古白が討ち死にすると、戸田憲光の次男・宣成が城に入った。しかし、1519年に古白の遺児成三・信成が今川の援軍により今橋城を攻め、宣成は田原へ落ち延びた。宣成は今橋城に備えて大崎城を築いた。 大崎には既に伊庭氏の居城があったが、宣成が中世城郭として拡張したものと考えられている。その後、戸田氏と牧野氏は今橋城の攻防を繰り返したが、1546年に今川義元がこれを収めて今橋城を占拠し、吉田城と改めた。 1547年に岡崎の松平広忠が嫡男・竹千代(徳川家康)を駿河(静岡)の今川義元へ人質として送ることになったが、戸田氏四代の宗光が途中で竹千代を奪い、尾張の織田信秀に渡すという事件が起こった。これにより怒った義元によって田原は攻められ戸田氏は滅んでしまった。 その後、城はしばらく荒廃していたが、1601年に中島重好が入封し、幕末まで陣屋として存続した。 |
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●現状(2002年5月) |
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豊橋市船渡町の竜源院という寺の横が城址で寺の入口に城址の碑が建っているが、城址への入口はない。碑があるからには、何か他にも案内があるだろうと探し回ったが見つからない。お寺の北の竹やぶに近づいてみると堀らしい地形が見えるが、竹の密度が高くほとんど何も見えない。 |
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●現状(2021年2月) | |||||||||||||
近くを通ることがあったので、再度訪問。ただし家族が一緒で時間が取れなかったので、行きやすい幸稲荷のある曲輪から堀などを見ました。主郭周囲の堀はかなりの規模の大きさで、主郭側の斜面は、土塁と合わせて5mほどの高さがありました。主郭入口の土橋を見なかったことが心残りでした。 | |||||||||||||
◆場所 |
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![]() 豊橋市の三河湾に近い船渡町の竜源院から北側一帯が城址。 |
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