一色城
いっしきじょう

■所在地:豊川市牛久保町岸組 ■立地:段丘上 ■別称:■築城年:
■築城者:
一色時家 ■遺構等:土塁、看板

大聖寺 今川義元胴塚と土塁

■歴史
 1438年に鎌倉で上杉憲実が謀反を起こした時、一色直兼と甥の時家は憲実と戦って敗れ直兼は討ち死に、時家は逃れて三河へ落ち延びた。時家はこの地に館城を築き、その付近も一色村といわれるようになった。時家はこの地で勢力を伸ばしたが、1477年に家臣の波多野全慶に殺された。
 その後、一色氏の旧臣である牧野古白が全慶を討ち一色城に入った。古白が今橋城(現:吉田城)へ移ってからは子の成勝が城主となったが、牛久保城を築いたので城は使われなくなった。

●現状(1999年11月)

 豊川市の大聖寺付近が城址である。地理的には豊川の河岸段丘上にある。大聖寺周辺は古い住宅街で道が狭く、自動車で走るには苦労する。寺の駐車場へ入るのに、何度切り返しをしたことか。
 大聖寺には初代城主一色時家の墓と今川義元の墓がある。桶狭間の戦い後、家臣が義元の胴体だけを運んできたが、遺体が腐ってきたためにこの地に埋め、後年、改めて義元の子氏真がここで葬式を行った。義元の墓や首塚は桶狭間周辺にもあるが、この胴塚は説明書きを読む限り本物である。この胴塚付近に土塁が良く残っているが、墓所を守るための囲いかもしれない。


◆場所

 JR飯田線の牛久保駅から線路沿いに東に250メートルのところにある大聖寺付近が城址である。