長田氏館
おさだしやかた

■所在地:豊田市司町六丁目 ■立地:平地 ■別称: ■築城年:1168年頃
■築城者:
長田忠致 ■遺構等:曲輪、堀、土塁

横に並んでいる民家のあたりが館跡

■歴史
 長田忠致は尾張野間内海荘の荘司であったが、平治の乱で平家に京都で敗れて関東に落ち延びる途中の源義朝を討った功績により、平清盛の推挙で三河高橋荘の荘司となり、1168年に赴任して館を構えた。
 義朝の子・頼朝が打倒平家の兵を挙げ平家が衰退すると、長田忠致は頼朝に仕えたが、鎌倉幕府成立後に頼朝が父の墓前で法要を営んだ際に長田父子は松の木に逆さ磔にされたといわれている。
 ちなみに、平治の乱に敗れた義朝たちは、家臣鎌田政家(正清)の妻の父である長田忠致の荘園へ身を寄せたが、忠致・景致父子の反逆に遭い、娘婿の政家も殺され、義朝も湯殿で裸・丸腰の隙を襲われて命を落とした。その時に「我に木刀の一本なりとあらば、おめおめ討たれはすまいに・・・・」 と絶句したという話は有名で、その無念を晴らすために墓(美浜町の大御堂寺、通称野間大坊)を訪れる人が木刀を供えるために墓が木刀の山で埋まっているというのはご存知の方も多いと思う。
●現状(2004年1月)

 愛知環状線の新上挙母駅から線路沿いに南に500メートルの「司町」交差点を東へ200メートルほど進むと、右手の田畑の東端に民家が南北に数件連なっている。この小さな集落が、かつての長田館である。この集落の敷地と長田館の敷地は一致しており、目立った遺構はないが雰囲気は良く残っている。かつては周囲を堀と土塁で囲っていたが、今でも所々痕跡が残っている。

◆場所