亀山城
かめやまじょう

■所在地:新城市作手清岳字仙房 ■立地:丘陵上 ■別称: ■築城年:1424年頃
■築城者:
奥平貞俊 ■遺構等:曲輪、土塁、堀、碑、看板

北から見た城址全景
城址碑 主郭
主郭南側の土塁 主郭東側の曲輪
主郭東側の虎口 土塁に一周囲まれている東曲輪
亀山城縄張図

■歴史
 奥平貞俊は、はじめ川尻に城を築いたが、すぐに手狭になったために亀山城を築いて移った。二代・貞久の頃には勢力を拡大し、東三河山間部の一大勢力となった。
 三代・貞昌の頃は今川氏親に属したが、1530年には東三河へ進出した松平清康に属した。しかし、清康が守山城で殺されると再び今川氏についた。
 四代・貞勝は1560年に今川義元の上洛に従ったが、桶狭間の戦で敗退した。後に徳川家康についたが、1570年に武田信玄が三河へ侵攻し、武田氏に属することになった。子の貞能と孫の信昌は作手を出て家康に従ったので貞勝は甲斐へ出国し、武田勝頼の死後、帰国した。
 六代・信昌は長篠城(鳳来町)の城将となり、1575年の長篠の合戦では武田軍の猛攻に絶え、織田・徳川連合軍の勝利に貢献した。信昌は家康の長女・亀姫を妻に迎え、新城城(新城市)を築いて移った。
 信昌の四男・忠明は家康の養子となり、関ヶ原の戦後の1602年、奥平氏の本拠・亀山城主となったが、後に伊勢亀山五万石へ移り、亀山城は廃城となった。

●現状(2003年2月)

 作手村の国道301号沿い、つくで手作り村の少し北に案内看板が出ており、城址には大きな「亀山城址」という看板が設置されており国道からでも良く見える。
 城内へは城址の北側の県道から入る道路があり、城址の東側に駐車場がある。隣接する武家屋敷跡(馬呂遺構)へも、そこから歩いて行ける。
 城址は良く整備されており、広い主郭を中心に曲輪や堀、土塁などが良く残っており、各遺構には標示が立っているのでわかりやすい。
 主郭は南北に長く、礎石が発掘されていることから建物があったことがわかっている。南側の虎口の外は馬出し状になっており、東に空堀が続く。この空堀の外側には腰曲輪の標示がされているが、形状的に掘り残しの土塁である。主郭の東には東曲輪と呼ばれる曲輪があり、切れ目のない土塁で囲まれている。用途は不明らしい。主郭の北には主郭に次ぐ曲輪があり、そちらが大手につながる方向だったらしい。亀山城から北西に向かって大手、城屋敷という地名が続いており、城屋敷には奥平氏の居館があった。
 当日、城内を歩いていると、突然大きな音を立てて杉の木が倒れるのが見えた。城の北側はほとんどの樹木が伐採されているが、南側は杉の植林である。林業の人が木を切っているのかと思ったけど、チェーンソーの音は聞こえない。城址の南西の竪堀を見に行こうと思ったら、伐採された木が並んでいて通れない。あきらめて東へ向かうと、木の根元に切り屑が積もっているのに気付いた。良く見るとチェーンソーで切った木が倒さずにそのままにしてある。切り屑がきれいなので、どうやら午前中に切ったらしい。倒れてきたら死んでしまうなあと思い、一見すると切ってあるのか切ってないのかわからないので注意深く歩いていると、切った木には黄色のテープが巻かれていることに気がついた。周囲を見回すと、いたる所に黄色いテープが巻かれてあった。さすがに恐ろしくなってその場を走り去った


◆場所