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■歴史 | |||||||||||||||
奥平貞俊は、はじめ川尻に城を築いたが、すぐに手狭になったために亀山城を築いて移った。二代・貞久の頃には勢力を拡大し、東三河山間部の一大勢力となった。 三代・貞昌の頃は今川氏親に属したが、1530年には東三河へ進出した松平清康に属した。しかし、清康が守山城で殺されると再び今川氏についた。 四代・貞勝は1560年に今川義元の上洛に従ったが、桶狭間の戦で敗退した。後に徳川家康についたが、1570年に武田信玄が三河へ侵攻し、武田氏に属することになった。子の貞能と孫の信昌は作手を出て家康に従ったので貞勝は甲斐へ出国し、武田勝頼の死後、帰国した。 六代・信昌は長篠城(鳳来町)の城将となり、1575年の長篠の合戦では武田軍の猛攻に絶え、織田・徳川連合軍の勝利に貢献した。信昌は家康の長女・亀姫を妻に迎え、新城城(新城市)を築いて移った。 信昌の四男・忠明は家康の養子となり、関ヶ原の戦後の1602年、奥平氏の本拠・亀山城主となったが、後に伊勢亀山五万石へ移り、亀山城は廃城となった。 |
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●現状(2003年2月) |
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作手村の国道301号沿い、つくで手作り村の少し北に案内看板が出ており、城址には大きな「亀山城址」という看板が設置されており国道からでも良く見える。 |
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◆場所 |
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