緒川城
おがわじょう

■所在地:東浦町大字緒川 ■立地:丘陵端 ■別称: ■築城年:1475年
■築城者:
水野貞守 ■遺構等:土塁、碑

現存する土塁の一部
土塁上にある城址碑と看板 土塁南の公園にる於大出生地の碑

■歴史
 鎌倉時代の地頭、小川氏の末裔である水野貞守が緒川古城を築いた。水野忠政の娘は徳川家康の生母である於大の方である。忠政は東へ勢力を伸ばしていき、対岸に刈谷城を築いて本拠とし、緒川城は子の信元に守らせた。
 1582年、忠政は岡崎の松平広忠に於大を嫁がせ、翌年、家康が生まれた。忠政の死後、信元は織田氏についたので、怒った広忠は於大と離別した。
 1575年に信元は武田氏との内通が疑われて織田信長の怒りを買い、岡崎の大樹寺で切腹した。やがて信元の無実が明らかになると、信長は信元の弟・忠重を刈谷城主にし、同じく弟の忠守を緒川城主とした。忠守は同地に新城を築いた。

●現状(2006年10月)

 緒川城のあたりには、緒川古城、緒川新城、端城、高藪城、その他、屋敷が集まっており、どこがどこだか正確にわからない状態なので、ひとまとめに緒川城とする。
 東浦町役場の前の交差点に「緒川城址→300m」の小さな看板があるが、今ひとつどこを指しているのかわかならい。休日だったので東浦町役場に車を止め、看板が示す曖昧な方向に迷いながらも宅地の中の道を北へ向かうが、歩いても歩いてもそれらしきものは何もない。方向を変えてもう一本西の道へ出てから南へ戻ると、宅地の間から巨大な土塁の一部が見えてきた。
 土塁の南側は公園になっており「伝通院於大出生地」の碑があり、土塁を上ると、「緒川城址」の碑と看板がある。この土塁の他には目立った遺構は何もない。民家が密集しているので、形跡を探すこともできないが、城域の東側はかなりの高低差があるので切岸の形跡かもしれないし、土塁のある公園から南へ100メートルほど行くと低くなっている土地があり、丁度、堀のあった場所にあたる。
 土塁の上の松がどこからでも良く見え、目印になる。


◆場所

土塁、碑の場所