増田長盛邸
ましたながもりてい

■所在地:稲沢市増田南町 ■立地:段丘上 ■別称: ■築城年:
■築城者:
■遺構等:曲輪

八幡社 増田長盛邸址の碑

■歴史
 増田長盛は1545年にこの地に生まれ、豊臣秀吉に仕えて五奉行の一人となった。長盛は秀吉の期待厚く、奉行職としては破格の大和郡山20万石の待遇を受けていた。
 1598年に秀吉が亡くなると徳川家康と石田三成の対立が表面化し、長盛も三成とともに家康弾劾の謀議に加わったが、三成に大谷吉継らと挙兵の計画を打ち明けられると、さすがに事の重大さに恐れを抱いたのか、また、力勝負では家康に勝てないと思ったのか、家康に密告した。その後も家康に有利な情報を流したものの、家康からは何の見返りもなく、関ヶ原の戦後は高野山へ追放され、さらに、武蔵の岩槻へ流された。大阪の陣では再び家康にスパイ役を命じられるが、断ったために切腹させられた。

●現状(2002年10月)

 稲沢市増田南町の八幡社の境内に「増田長盛邸址」の碑が建っている。
 増田長盛がこの地の出身というだけであって、本当にこのあたりに屋敷をかまえて住んでいたのかどうかはわからないが、とりあえず、このあたりが屋敷跡とされている。


◆場所