清須城
きよすじょう

■所在地:清須市清洲 ■立地:平城 ■別称: ■築城年:1405年頃
■築城者:
斯波義重 ■遺構等:模擬天守等

清須城 模擬天守閣
清洲古城跡の碑 天守台址とされる場所
五条川の向こうが本来の城址 清洲公園に建つ織田信長像

■歴史
 室町幕府の尾張守護斯波義重は下津城(稲沢市)を守護所としていたが、1405年ごろに別城として清須城を築き、守護代の織田敏定を城主とした。ここは鎌倉街道と伊勢街道の合流地点で、中山道にも連絡する交通の要衝であった。1476年に下津城が戦乱で焼かれると守護所は清須城に移り、清須が尾張の中心として栄えた。
 やがて、斯波氏に代わり守護代であった織田氏が勢力を伸ばし、「下の織田」として尾張の下四郡を支配した。
 1555年に織田信長が那古野城から移り、城は次第に拡張された。本能寺の変後は信長の次男・信雄が城主となるが、信長の後継決めで羽柴秀吉と対立し、秀吉に備えて城を拡張して天守閣などを築き、堀も3重となった。当時は、城郭も東西2000メートル、南北2500メートル、城下町の人口は6万人に達するという大都市であった。
 その後、城主は豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直と続いたが、1610年に名古屋城の築城が始まり、城下町ごと名古屋城へ移された。これが有名な「清須越し」で、「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と唄われたとおり、清須城は城下ごと姿を消し、跡は田畑となった。
 1898年に清洲城址保存会によって本丸跡が公園として整備され、今は城址と五条川を挟んだ対岸に模擬天守と書院が建てられている。

●現状(2002年10月)

 清洲町役場の東500メートル、五条川と東海道新幹線が交わる地点に城址があり、本丸付近とされるところが公園として残されている。線路の南側には歴史の教科書などに登場する織田信長像が建っており、線路の北側には天守台とされる少し高くなった場所があり、そこに「右大臣織田信長公古城址」の碑が建つ。隣には信長を祭った廟があり、掃除を終えたおじさんが長い時間お参りをしていた。公園の前にも「清洲古城址」の碑が建っている。
 五条川を挟んだ対岸に、模擬天守が建っている。内部は資料館となっていて、最上階からの展望は400年前と同じ視線で周囲を見ることができる。模擬天守の外観はかつての清須城を復元したものではないが、戦国時代後期の一般的な天守閣を参考に作られているだけになかなか良くできていると思うが、屋根の上に輝く金鯱が、いかにもバブル期の築城ブームの産物という強烈な光を放っているのが残念である。
 現在の名古屋城にある清洲櫓は、かつての清須城の小天守を移築したものといわれている(実際、そうでもないらしい。)。


◆場所