小折城
こおりじょう

■所在地:江南市小折町 ■立地:平地 ■別称:生駒屋敷 ■築城年:室町末期
■築城者:
生駒家広 ■遺構等:碑、説明板

生駒氏邸の碑 城址碑と布袋東保育園

■歴史
 生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和の生駒郷に住み姓を生駒としたが、応仁の乱で戦乱が続いたので、家広の代にここ小折村に移り住んだ。
 四代・家長の妹・吉乃は織田信長の側室となり、信忠、信雄、五徳の二男一女を産んだ。そのために生駒氏は織田氏に厚遇されることとなった。吉乃が29歳の若さで亡くなったときの信長の悲しみようは大変なもので、小牧山城から吉乃の墓の方を眺めては涙を流していたという。
 本能寺の変後に尾張領主となった信雄も伯父である家長を重用した。信雄は小折城を改修し城の規模は大きくなった。小牧・長久手の戦のときには徳川家康も訪れているという。
 信雄失脚後は家長の子・利豊が豊臣・徳川に使え、以後も子孫は尾張藩で重用された。

●現状(2006年3月)

 江南市の布袋東保育園の一角に、生駒邸の碑と城の歴史や古絵図が記された看板がある。古絵図を見ると、生駒邸は複数の屋敷地からなる結構な規模の館である。古絵図と現在の地図を見てみると、保育園は城の二の丸のあたりである。遺構は何も残っていないようで、航空写真を見ても特に形跡は見られない。しかし、ここに信長や秀吉たちが訪れていたのかと思うと感慨深いものがある。


◆場所

碑のあたりです。