長田屋敷
おさだやしき

■所在地:美浜町大字野間 ■立地:平地 ■別称: ■築城年:
■築城者:
■遺構等:看板

長田屋敷跡
源義朝の墓 義朝の首を洗ったという血ノ池
■歴史
 1160年、平治の乱において京都で平清盛に敗れた源義朝たちは、家臣鎌田政家(正清)の妻の父である長田忠致の荘園へ身を寄せた。しかし、忠致・景致父子の反逆に遭い、娘婿の政家も殺され、義朝も湯殿で裸・丸腰の隙を襲われて命を落とした。その時に「我に木刀の一本なりとあらば、おめおめ討たれはすまいに・・・・」 と絶句したという。長田忠致は源義朝を討った功績により、平清盛の推挙で三河高橋荘(豊田市)の荘司となり、1168年に赴任して館を構えた。
 義朝の子・頼朝が打倒平家の兵を挙げ平家が衰退すると、長田忠致は頼朝に仕えた。頼朝は天下統一が成れば軍功により美濃・尾張を与えると約束し、長田父子は数々の戦で軍功を上げたが、鎌倉幕府成立後に頼朝が父の墓前で法要を営んだ際に長田父子は松の木に逆さ磔にされたといわれている(美濃・尾張=身の終わり)。

●現状(2006年10月)

 美浜町野間にある大御堂寺、通称、野間大坊の近くに長田氏の屋敷があったとされる。野間大坊には源義朝の墓があり、木刀のエピソードにちなんで供養のために木刀を供えることで有名である。同じ境内には義朝の首を洗ったという血ノ池があり、以後、国家の大事の時には赤く染まるといわれている。
 長田屋敷は野間大坊のすこし東の梅林のあたりで、看板が立っているのみである。そのすぐ南には長田氏父子が磔にされた松の木がある。
 他にも、野間駅の近くの法山寺には義朝が殺された湯殿跡があり、歴史的な史跡が多く残っている。
 また、義朝の墓のそばには織田信長の三男・信孝の墓がある。信孝は信長の死後に羽柴秀吉と度々争ったがついに降伏し、野間大坊のすぐ南にある安養院で自害させられた。この時の辞世の句である「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(諸説あり)は強烈である。羽柴筑前はもちろん秀吉のことで、「昔、主を討った報いを受けた長田父子のように、主の織田家を討った秀吉め、報いをうけよ。」という、ここまでストレートに恨みつらみを述べた句も珍しい。


◆場所