福島正則邸
ふくしままさのりてい

■所在地:美和町大字二ツ寺字屋敷 ■立地:平地 ■別称:福島宰相邸 ■築城年:
■築城者:
■遺構等:碑、看板

菊泉院と福島正則公菩提寺の碑
背後の田んぼ、宅地のあたりが屋敷のあった場所と
いわれている
城址碑

■歴史
 福島正則は1561年にこの地で生まれた。幼名を市松といい、12歳のときに誤って人を殺し、駿河の福島氏にかくまわれて福島姓を名乗ることになった。
 その後、羽柴秀吉に仕えて中国地方攻略、山崎の合戦、賎ヶ岳の合戦、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵と主要な戦で活躍しており、秀吉配下では加藤清正と並ぶ武勇の持ち主であった。1595年には清須24万石の城主として故郷に錦を飾った。
 秀吉の死後は、文治派の石田三成と対立し、1600年の関ヶ原の戦では徳川家康について東軍の主力として活躍した。その功により安芸・備後49万石を与えられ、広島城主として20年間にわたりその地を治めたが、やがて家康による旧豊臣方の大名潰しが始まると、正則も罪をきせられて信州川中島へ流され、5年後の1624年に64歳の生涯を閉じた。
 正則といえば、同僚の清正と同じタイプで性格は実直で勇猛果敢、少々荒っぽい面があり、NHKの大河ドラマで登場するときはこのイメージばかり強調され、戦では大活躍するけれど家康にいいように利用される損な役回りだが、実際は神仏への信仰に厚く、非常に部下思いで、領民を大切にする立派な人物であったという。

●現状(2002年10月)

 美和町二ッ寺に菊泉院という立派なお寺があるが、これは福島正則の菩提寺で位牌や肖像画がある。その100メートルほど南、消防の防火水槽のとなりに「福島正則生誕地」の看板と碑が建っている。この西のあたりが屋敷のあった場所といわれているが、正則の屋敷というよりは生家というべきか。今は田んぼと宅地になっていて、屋敷の跡は全く残っていない。
 正則は郷土の英雄で、学校も正則小学校と正則の名がついている。


◆場所