名古屋城
なごやじょう

■所在地:名古屋市中区本丸一丁目 ■立地:平地 ■別称:蓬左城、楊柳城、柳ヶ城、亀尾城、鶴ヶ城、金城
■築城年:1610年 ■築城者:徳川家康 ■遺構等:本丸、二の丸、西の丸、石垣、堀、土塁、東南隅櫓、西南隅櫓、
西北隅櫓、表二の門、二の丸大手二の門、旧二の丸東二の門、二の丸庭園

本丸から見た大天守と小天守
巨大な天守は下から見上げると迫力満点 西から見る天守は石垣も高く、より巨大に見える
2005年の名古屋城博で金鯱の下ろされた天守 名古屋城博で磨かれたピカピカの金鯱
本丸南側の巨大な空堀 本丸南の表二の門
本丸西南隅櫓(坤櫓)と天守。人気の撮影ポイント 本丸東南隅櫓(巽櫓)
三層で巨大な通称・清須櫓(西北隅櫓・乾櫓) 本丸北の不明門(と私の息子)
正門(復元) 広大な二の丸

■歴史
 1600年の関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、なおも大坂に備えるために清須城(清洲町)の福島正則を転封し、四男の松平忠吉を城主とした。しかし忠吉が1607年に死去したため、まだ幼い九男義直を城主にした。ところが清須城は規模が小さく、軍備的にも万全でなかった。そこで、新たな築城の候補地として那古野城址があがった。1609年には家康自ら視察をし、翌年から着工した。
 普請は加藤清正、福島正則、池田輝政、黒田長政など20名の諸大名に命じた。これは諸大名の力を消耗させるとともに、家康への忠誠心を確認する意味があった。持ち場がそれぞれ決められており、工事の進み具合を比較できるようにしたために、わずか2年で天守が建ち、1614年にはほぼ完成した。その後、明治維新を迎えるまで徳川御三家の筆頭として栄えた。
 昭和5年に天守や本丸御殿、門、櫓などが国宝に指定されるが、昭和20年5月14日に空襲により大小天守、本丸御殿、東北隅櫓、門などが焼失した。その後、昭和34年に大小天守と正門が外観復興された。

●現状(2005年8月)

 現在の天守はコンクリート製だが、ほぼ正確に外観復興されており、金鯱とともに昔と変わらず名古屋の顔となっている。内部は展示室となっており、名古屋城に関する資料を見ることができる。
 正門と大小天守以外の建造物は全て戦災を免れた現存物で、ほとんどが重要文化財になっている。焼失した本丸御殿もいよいよ復元の計画が本格的になり楽しみである。私も行く度に募金箱にお札を入れたのが報われた気持ちで嬉しい。
 他にも広大な二の丸庭園が復元されており、御三家の居城にふさわしい見事なものである。
 名古屋城は巨城と呼ぶにふさわしい城で、天守の高さは大坂城に及ばないものの床面積は日本一という大きさである。また、豊臣家に備えて築かれただけに、実戦的な城郭としては最も完成度の高い縄張りといわれている。大天守は、西の丸から見るのが最も美しく巨大に見える。とにかく立派な城の一言につきる。できれば、半日ほどかけてゆっくりまわりたい。梅や桜など四季折々の木々も城にはよく似合う。
 2005年の愛知万博にあわせて開催された名古屋城博で金鯱が降ろされた。当時、たまたま名古屋城の近くで仕事していたので絶対に金鯱を触りに行こうと思っていたが仕事が忙しく、結局名古屋城へ行ったのは最終日の数日前であった。おかげで、金鯱ドームの行列は3時間待ち。子連れだったので断念して観覧だけのコースへ。間近で見た金鯱は感動的な美しさだった。21年前に見たときはもっと暗い照明で、まさに水族館の魚を見ているような雰囲気だった記憶が残っている。2ヶ月後に名古屋城を訪れたが、磨かれた直後だけあって、天守の金鯱の輝きは見慣れた金鯱とは別物のように輝いていた。


◆場所