志賀城
しがじょう

■所在地:名古屋市北区平手町 ■立地:平地 ■別称:平手政秀邸 ■築城年:
■築城者:
■遺構等:碑、看板

志賀城址
平手政秀邸址の碑 志賀公園

■歴史
 織田信秀の家臣、平手政秀が信秀からこの地を拝領した。真面目で責任感の強い政秀は信長が生まれると教育係を任ぜられた。しかし、青年期の信長は日ごろから奇行が多く、政秀は日頃からこれを諫めていたが信長は全く改めようとしなかった。
 信長は父信秀の葬儀の席でも乱行におよび、教育係の務めを果たせなかったことに責任を感じた政秀は、1553年正月13日、ついに信長宛ての諫言を残し自邸で自害した。信長20歳、政秀62歳だった。信長はこれを悼み、政秀を弔うために寺を建て政秀寺とした。

●現状(2004年12月)

 名古屋城の北1キロメートルほどのところにある志賀公園が城址である。遺構は全く残っていないがグラウンドの北に城址碑が立っている。
 平手政秀が信長を諫めるために自害した話は、織田信長にまつわるエピソードとして必ず登場するが、そんな有名な出来事の舞台がここかと思うと感慨深いものがある。信長の奇行は尾張の覇権を争う同族を油断させるためや、尾張統一まで周囲の戦国大名の警戒を解くための演技であったことはご存知のとおりで、政秀の諫死が効いて態度を改めたというわけではないが、政秀の死に報いるためにも立派な天下人になろうという気持ちはあったに違いない。
 


◆場所