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■歴史 | ||||||||||||
毛利氏の居城は山間部の吉田郡山城であったが、毛利元就は領国経営の適地として瀬戸内海に面し海運や交通の便の良い太田川河口近くに居城を移す構想を立てた。 元就の孫の輝元は、秀吉の大坂城や聚楽第を見て触発され、近世城郭の築城を決意したという。城は1589年頃から普請を始め1599年に完成した。三重の堀を巡らし、実戦的な縄張りの城であった。 1600年の関ケ原の合戦後、西軍の総大将であった輝元は減封されて防長へ移され、代わりに福島正則が城主となった。 正則は城の拡張を行い、毛利への備えとして三の丸の西側に造営した外郭には、平櫓が中心の三の丸に対して二重櫓を12棟並べるという徹底ぶりであった。 1617年に洪水によって城に被害が出たが、1615年に制定された武家諸法度により城の無断改修が禁止されていたため、正則は幕府に城の修築を願い出た。しかし許可が出る前に修築に手を付けたため、1619年に改易された。 同年に和歌山城主の浅野長晟が入城し、以降、明治まで浅野氏の居城となった。 明治以降、城は陸軍の施設となり、御殿や櫓などの建造物は解体や火災で徐々に失われた。天守は1931年に旧国宝に指定されるが、1945年8月6日に広島への原爆投下により倒壊した。 現在の天守は1958年に鉄筋コンクリートで外観復興されたものである。平成に入って二の丸表御門、太鼓櫓、多門櫓が木造復元されている。 |
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●現状(2019年11月) | ||||||||||||
職場の同僚との広島旅行の際に観光で立ち寄っただけで、十分に城の隅々まで見て回ることができませんでした。 |
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◆場所 | ||||||||||||
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