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■歴史 | ||||||||||||||
平安末期には小早川氏の居館があったといわれる。15世紀には駿河の大森氏が進出し築城したとされている。 1495年頃に北条早雲が入城し城を改築、子の氏綱の代には北条氏(後北条氏)の拠点となった。以後、氏康、氏政、氏直と北条氏5代の居城となった。 城郭は関東支配の拠点として整備され、16世紀後半には上杉謙信や武田信玄との攻防を契機に大改修が始まり、三の丸が整備された。豊臣秀吉との対立が迫ると全周9kmに及ぶ土塁や空堀で守られた総構が城下を取り囲み、当時、全国屈指の規模の城郭となった。しかし1590年に秀吉が圧倒的な兵力で小田原侵攻を開始すると、3カ月に及ぶ籠城の末に氏直は降伏した。 その後、関東移封となった徳川家康配下の大久保忠世、忠隣が城主となり、城郭の規模を縮小した。1614年に家康の腹心、本多正信・正純父子との対立によって忠隣が改易されると城の一部は取り壊されたが、阿部正次が入城し、1632年に稲葉正勝が入城すると本格的に近世城郭としての整備が始まった。こうして完成した小田原城が現在の城址の姿である。 1686年に大久保忠朝が入城して再び大久保氏の居城として幕末まで続き、1870年に廃城となった。 城は度重なる大地震の被害に遭っており、1703年の元禄の大地震では城下もろとも焼失した。その後再建されるも度々の大地震で大きな被害を受けた。そして1923年の関東大震災で石垣のほとんどが崩れ、唯一の現存建築であった二の丸平櫓も倒壊した。 1960年に天守は外観復興され、平成の時代にその他の建造物も復元されている。 |
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●現状(2013年5月) | ||||||||||||||
5月のGWに箱根の大涌谷に向かったところ、大渋滞でとても近づくことができず、そのまま箱根の山を越えて小田原城を訪問することになりました。ここもかなりの賑わいで駐車場を探すのに苦労しました。 城址公園はとても広く堀や復興建築物、石垣など大変見応えがあります。天守は3層ですが実質4層で、巨大な天守台と合わせてずいぶんと大きな印象です。 復元された銅門や常盤木門と比べると、二の丸の平櫓がずいぶんとバランスの悪い小ささですが、関東大震災で倒壊した後の復興で、かなり小さい規模にされてしまったそうです。 現在の城址は17世紀以降に整備された姿ですが、発掘調査によると北条氏の小田原城はかなり異なった縄張りであることがわかったそうです。 この時は家族で訪れたので総構の遺構や、秀吉が築いた石垣山一夜城址を訪れることができなかったので、再訪したものです。 |
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◆場所 | ||||||||||||||
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