桑名城
くわなじょう

■所在地:三重県桑名市吉之丸 ■立地:平地 ■別称:旭城、扇城 ■築城年:1591年、1601年
■築城者:
一柳直盛、本多忠勝 ■遺構等:曲輪、堀、天守台、石垣、復興蟠龍櫓

桑名城址説明板 二の丸周囲の広大な水堀
本丸 鎮国守国神社にある天守台
当時の石垣が残る三の丸西側の堀 蟠龍櫓を模した水門統合管理事務所
本多忠勝像
■歴史
 この地に初めて城館を築いたのは鎌倉時代初期の桑名行綱といわれている。
 1591年に一柳直盛が現在の城の基礎となる城郭を築いた。
 現在のような本格的な近世城郭として大改修を行ったのが1601年に桑名城へ入った徳川四天王の一人、本多忠勝である。入城後約10年のうちに、櫓51基、多聞櫓46基、水門3基を持つ大城郭を完成させた。また、城下町を整え、七里の渡しという船着場を築き熱田と桑名を結ぶ海上交通を整えた。
 このような大規模な改修を行ったのは、大坂ではまだ豊臣家が健在であったからである。
 1615年に大坂の陣で豊臣家が滅んだが、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いでいた千姫は救出され、この七里の渡しで忠勝の孫の忠刻を見初め結婚している。
 本多氏は1617年に姫路城へ移り、その後、松平氏(久松氏)が入城した。1635年に城主となった定綱が4層の天守を築いたが、1701年に城下の火事によって焼失し、以後天守は再建されなかった。
 その後も松平氏、奥平氏、松平氏が城主として続き、最後の城主・松平定敬は1868年に明治政府軍との戊辰戦争で函館軍に加わり、そのため桑名城は激しい砲撃を浴びて大破し、火を放たれて灰燼に帰した。そして1871年に四日市港が整備された際に城の石垣はことごとく転用されてしまった。
 

●現状(2007年2月)

 現在、九華公園となっており、芝生広場や市民プール、グラウンド、菖蒲園などが城内にあります。有料駐車場もあります。駐車場のすぐ南には愛用の蜻蛉切を背にした本多忠勝像があります。蜻蛉切とは村正作の名槍で、槍先に止まったトンボが真っ二つになるということから蜻蛉切と名づけられたそうです。
 公園の北の方に七里の渡し跡があり、すぐ近くの蟠龍櫓のあったあたりに櫓を模した水門管理事務所が建っています。蟠龍櫓は七里の渡しを利用する旅人が必ず目にする桑名城の象徴でした。櫓の2階は展示室になっており自由に入れます。桑名城の絵図や城主肖像などが展示してあります。
 公園の西と南には水堀が残っています。特に公園西側の二重の堀のうち外堀には石垣が良く残っています。他の部分の石垣はほとんど残っていませんので必見です。また二の丸周囲の水堀は幅が30メートル以上もあり、壮観です。ただし、桑名城の絵図と比べると二の丸のあたりはずいぶん姿が変わっていますので、公園整備の際に広げられた部分もありそうです。
 本丸の北から東にかけての堀は埋められてしまってプールやグラウンドになっていますが、本丸にある神社の境内に天守台が残っています。その他の遺構としては本丸南側の櫓台が残っています。
 三重県は愛知県の城址と比べると規模の大きなものが多く残っているのでうらやましく思います。
 


◆場所