きしわだじょう |
■所在地:大阪府岸和田市岸城町9−1 ■立地:平地 ■別称:千亀利城、猪伏山城 ■築城年:−
■築城者:− ■遺構等:石垣、堀、模擬天守 |
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美しい形の模擬天守 |
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■歴史 |
南北朝の頃、楠木正成の一族の和田氏が岸という地に城を築き「岸の和田氏」と呼ばれ、岸和田という地名となったといわれている。この岸和田城は現在の岸和田城の東500メートルほどの地にあったといわれている。14世紀の末頃に和田氏の一族である信濃氏が現在の地に城を築いたとも16世紀後半に岸和田城主であった松浦氏ともいわれている。この頃は現在の二の丸が主郭であったと思われる。
1583年に豊臣秀吉が岸和田城を中村一氏を入れ、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの攻略の基地としたが1584年の小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆の連合軍3万に攻められ、城兵8000兵で対抗した。豊臣秀吉軍は根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、1585年に岸和田城に入城し紀州征伐を行った。
その後、秀吉は小出秀政を岸和田城の城主とした。秀政は大規模な改修をおこない、1598年頃には五層の天守が完成した。
1619年に松平康重が城主となると破却された伏見城から櫓や門を移築したといわれている。
1640年に岡部宣勝が入城し明治まで続いた。天守は1827年に落雷で焼失した。 |
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●現状(2009年8月) |
だんじり祭りで有名な岸和田市の中心にある城は、本丸とその周囲の水堀が良好な状態で残っています。本丸には三層の白亜の天守がありますが、史実とは違う模擬天守です。しかし、大きな破風が美しい形の城で、広い水堀や石垣ととても調和がとれています。むしろ、この規模の本丸に五層の天守じゃあ立派すぎるかなとさえ思えます。とはいっても、やはり将来的には往時の姿での再建を期待したいものです。
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◆場所 |

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