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■歴史 | ||||||||||||||||
もとは、今川氏配下の一色氏の居城とされ、徳一色城と呼ばれた。 1570年に駿河に侵攻した武田信玄によって攻め落とされ、徳川家康への備えとして重臣・山県昌景を入れ、城の改修を行った。このとき田中城に改名されたとされている。 1575年の長篠の合戦で武田勝頼が織田・徳川に敗れた後は、駿河に侵攻する徳川家康によって田中城は度々攻撃された。城は武田氏が築いた馬出しや湿地に囲まれた地の利を生かしてよく耐えたが、1582年に開城した。 以後は徳川配下の城となり、1601年に入城した酒井忠利が城の拡張を行った。しかし、周囲が湿地帯のため城下町は作られなかった。 1609年に忠利が川越へ移った後は、家康や将軍の休憩所である田中御殿として整備された。 以後も城主が次々と入れ替わりながら明治を迎え廃城となった。 1616年1月に家康が鷹狩のために田中城を訪れていた際に、鯛の天ぷらを食べ過ぎて体調を崩し、4月に亡くなったエピソードの舞台となった城である。 |
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●現状(2016年7月) | ||||||||||||||||
車で神奈川県へ行く用事があったときに、せっかく近くを通るのだからと寄り道しました。同心円状の縄張りがとても印象的な城なので、一度は行ってみたいと思っていました。 |
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◆場所 | ||||||||||||||||
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