棒の手紹介
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 秋祭りに「棒の手」が披露された。
 迫力迫る演技に、ここのところ参拝者達の期待している行事ともなっている。演技者の皆様は、皆、幼い頃からの顔見知りである。石楠:旧大楠
(おおぐす)村:の人々である。
 かつては10の流派が有ったそうであるが、現存するのは4つ。この流派は『起倒流』だ。
 現在、愛知県無形民俗文化財になっている。 
☆ 「棒の手」の起源を想像する ☆
 今、食べ物が豊富にある時代である。・・・が、それはここ数十年のことであった。
 人類の歴史を俯瞰すると、今・現在も、飢えている国が多い。
 我が国の歴史を見ても、食料が豊富に有るのは、ほんの数十年のことに過ぎない。
 食料がなくて飢えて,イネを刈り取った直後の白い根を掘って食用にした。更に、草の根を食したり、やがて、山に入り込んで山草の茎からデンプンを採って食べたりした。
 それまでしても、飢えの苦しみは癒されることはなかった。
 「壁に塗る赤い土を水に溶かして、しばらくすると、一番上にヌルヌルとした赤い泥の層が出来る。この泥を、松の樹皮を粉にしたものと混ぜ合わせ、これに藁の袴の柔らかい部分を粉にして混合し、長時間煮詰めると食べられる。」等と、空腹を忘れる為にあらゆる方策を行った。
(某地域の古文書より)

 更には、ここに書き記すことを避けたいような、地獄のような有様が、日本各地で行われた。

 当然、隣村の食料の在りそうな家を、或いは集団で襲って、胃袋を満足させようと、短絡的で身勝手な手段を、行うこともあったに違いない。(国を挙げてそれを行えば、”戦争"である。)在りうることだ。
 農民達は、思いがけない襲撃に備えて、防備を固めたに違いない。

 
「棒の手」には、そんな歴史の名残を臭わせる迫力がある。
 決して、幼児達の”チャンバラごっこ”等ではない。
 命がけの、防御であったはずである。
1 起源: ・・・・・以下、解説は「起倒流のあゆみ」 愛知県無形民俗文化財指定50周年記念誌:による
 「郷土祭事記録」:愛知県日進市、「猿投祭礼記」、:同、「猿投祭礼記(写)」日進市白山神社によると、1523年大永3年9月10日、白山神社においてはじめて馬の塔(献馬)、棒の手祭事を行った。
 また、1553年(天文22年)岩崎村・本郷村をはじめ愛知郡内の各村民達は祭礼馬、鉄砲、槍、長刀、鎌、太刀などを持って猿投祭りに参加した。
 「棒の手」は、徳川幕府の誕生とともに武芸から芸能へと移り変わった。農兵の武技として、時には戦闘にも利用された「棒の手」の技が、五穀豊穣祈願のための奉納演技と変わり、それぞれの地域の特色をもって活発になった。中でも文化、文政、天保、慶応にかけては庶民の郷土芸能として一般民衆に親しまれ、尾張、三河、美濃地方で盛んに行われた。
 「棒の手」は、明治初期に入っても盛んに行われた。
 しかし、文明の発達と社会情勢の変化で、明治末期になるとその勢いも次第に衰えていった。
 時代が大正、昭和になると、戦争という社会情勢によって「棒の手」の継承そのものが危うい時期となったが、昭和26年の文化財保護法によって、「棒の手」が無形民族文化財に位置付けされ、、再び活気を取り戻した。
 
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2 流派:
 かつては豊田市内には10派がしのぎを削って技の修練に明け暮れていたが、今では、「起倒流」をはじめ4派が技を今に伝えている。
3 「起倒流」のこと
 那古野(現名古屋市)の起倒次郎左右衛門が、天正時代(1573~1591)に創始したと言われている。次郎左右衛門の流技は、特に槍術を得意として、他に例がなかったため、学ぶ人が多くいた。
安政6年(1659年)から慶応2年(1866)にかけて、大楠(現石楠町)の岡田周六、岡野鉄平、岡野銀蔵、岡野新六の4人は、長久手の近藤芳左右衛門氏の門人となり、起倒流の技の習得にはげんだ。慶応2年(1866)2月、免許目録を許されると同時に三河地方の「起倒流」の宗家師長となった。
 免許皆伝を許された岡田氏ら四人は、郷里に帰ると直ちに「大楠棒手組」を結成し、住人に起倒流の奥義の伝承に努めた。
 毎年10月には、奥殿城主(岡崎市)の面前で演技を披露し、その報酬として賞詞、真槍一筋、薙刀などを受け取った。以来、100余年、石楠の棒の手は起倒流の宗家として多くの門人の指導にあたると同時に石野地区、足助地区、旭地区、北設楽郡名倉村(現設楽町)などの住人300余人に免許皆伝目録を交付している。
4 愛知県文化財保護審議会認定の無形文化財に指定
○            長久手棒の手が指定される。
○ 昭和31年6月    小文田(春日井市)、安良(江南市)、桜(名古屋市)
○ 昭和32年10月4日 「松平村棒の手」指定。 17番目に指定される。
○ 昭和33年3月 猿投、挙母 が、無形文化財に指定された。
5 起倒流の奥義は棒、鎌、薙刀を中心に40種ある。
太刀の部
◇所作 早足(はやあし)、替り(かわり)、柄留(つかどめ)、追込(おいこみ)、対じ(たいじ)
◇持ち方 大刀、目刀、勝刀、負刀、神通力
槍の部 ◇所作  突捨(つきすて)十文字、打柄(うちずか)、身留(みどめ)、拡散(ちらし)、突ハズシ(つきはずし)、折留(おりどめ)、脇突(わきつき)、打替(うちかわし)、胸留(むねどめ)
棒の部 ◇所作 蛛手(くもで)、腕落(うでおとし)、肘葉(ひじき)、鈥冠(はちかんむり)、稲妻(いなづま)、力留(ちからどめ)、棒落(ぼうおとし)、力妻(ちからづま)振出し(ふりだし)、切落(きりおとし)
鎌の部 ◇所作 振上(ふりあげ)、掛投(かけなげ)、引替(ひきかわり)、長柄(ながえ)、天狗倒(てんぐたおし)、授り(もじり)、刻墾(かじかけ)、脇投(わきなげ)、身替(みがえ)、打落(うちおとし)
薙刀の部 ◇所作 壱人詰(いちにんづめ)、弐人詰(ひたりづめ)、振腕(ふりうで)、振切(ふるきり)、真釼(つるぎ)、替り(かわり)、車倒(くるまたおし)、振詰(ふりつめ)、切ハッシ(きりはっし)、手飛返し(ておがえし)
6 起倒流の衣装
 ハチマキ、はっぴ、はらがけ、たすき、角帯、てご、ももひき、きゃはん、たび、わらじ。
7 起倒流の道具
 起倒流の使う道具は、槍術を得意とするところから、槍を中心に鎌、薙刀、棒、刀、太刀、十手、ムチなどを使う。
8 演技主要奉納地
 伊勢神宮、熱田神宮、石楠神明社、猿投神社、豊川神社、東浦不動教会、深溝福徳稲荷、足助神社、東宮口神社(六所神社本宮)、岡崎六所神社、瀬戸深川神社、名古屋豊国神社
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「起倒流のあゆみ」 愛知県無形民俗文化財指定50周年記念誌:による
9 豊田市に伝わる流派  「献馬大将」   豊田市教育委員会   H16.11.2  豊田市資料館 発行より
起倒流棒の手
 尾張那古野の起倒次郎左衛門が、天正年間(1573~1592)に始めたものといわれている。
 慶応2年(1866)に石楠の岡田周六らが免許皆伝を受け、三河起倒流の宗家師範となっている。
藤牧検藤流棒の手
 瀬戸今村の藤牧沙門が、検藤流を分派し、貞享3年(1686)にはじめたものといわれる。明治6年(1873)に篠原に伝えられ、この地域に広がった
鎌田流棒の手
 尾張岩崎城主丹羽勘助の家臣、鎌田兵太寛信が開祖といわれる。後に宮口村(現豊田市宮口町)の深田佐兵源満孫が、天明3年(1783)に免許皆伝を受け、三河鎌田流の開祖となった。
見当流棒の手
 織田信長の弟織田越中守信照の家臣、本田遊無が開祖といわれる。後に瀬戸品野の戸田源左衛門がこの地域に広めたといわれる。
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