高月院に詣でる
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 高月院に詣でました。 ご紹介させていただきます!            
 19年ぶりに、昔の教え子が連絡をくれた。
 そして、家にやってきたので高月院と松平東照宮に案内した。
 とても懐かしく、そして楽しい時を過ごした。本当に、これもご縁であった。
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寺に向かう こんな処に 可憐な花が その前に喫茶店があった。入ると・・ 入り口に、風変わりな井戸・・。
屋根に苔。苔にも、春が来ていた。 その日は、雨がそぼ降る日であった。 春、春であった。 喫茶店の上手に 菖蒲園。八つ橋。
そこの山裾には、クマザサ。 昔は、ここが氷池であった。ふっと目を ・・転ずると、さぁて、高月院の門。 霧に霞んだ山里。 門が間近になった。
白壁に囲まれた寺だ。 門の前に 至る。
門をくぐると、 寺院がみえる。 ツバキが、雨に濡れている。 その奥に地蔵様。 階段前に
左には・・ 階段を上ると 門をくぐる
門の右手に垂れ桜 参拝をする 葵のご紋が 輝いている。
詣でて、振り返れば 垂れ桜が美しい 左手には、おくりがある。 地蔵さまの立造を希望される参拝者が現地に立っていた。
ここは最初の門 白壁に囲まれて 佇まいが気に入った。 白壁塀 その対面には・・
おや?! 椿が・・・ この里山を”竹千代”は、 駆け回って遊んだという 先の喫茶店が遙か向こうにみえる その前に車を置いたっけ。水仙も濡れていた。
☆ 高月院の歴史のあらまし ☆
1367 貞治6 高月院、足助次郎重宗の子、重政(寛立上人)が松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立。
1377 永和3 社伝「朝野襃藁(ほうこう)」による。「寂静寺」親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから高月院と改め松平氏の菩提寺となる。 
1437 永享9 高月院墓石:9/20高月院松平氏墓所宝篋印塔・二代泰親。
1523 大永3 松平清康、安祥城から岡崎城に移る。松平長親、高月院に土地を寄進する。
1542 天文11 12/26徳川家康、岡崎城に松平広忠の子として生まれる。
1547 天文16 松平竹千代(家康)、駿府今川氏に送られる途中奪われ、織田信秀の人質
1549 天文18 11/9今川義元方大原雪斉、安祥城に織田信弘を攻め落とし、松平竹千代と交換する。11松平竹千代(8才)、今川氏人質として駿府へゆく。
1558 永禄元 家康、岡崎城の城主となる(〜1569)。この間に、岡崎城に近い高宮村(現在の明大寺町)の六所神社に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)の御祭神六柱のうち三柱の神が勧請遷座(「松平家文書」に、六所神社は永禄年中に高宮村の六所神社へ衣冠束帯の神像三体、地蔵尊三体を遷御した。・・、とある。) 
1601 慶長6 高月院、家康により寺領100石が与えられ明治維新までときの将軍からあつい保護を受けた。
1602 慶長7 家康は、高月院の祖廟参詣の節に、吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に20石の初穂料を献じる。家康、妙昌寺に梁山・曲り村内20石を寄付。 
1641 寛永18 高月院、山門や本堂、徳川家光により建立。
Link → この頃の歴史年表