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愛知県豊田市を中心とした郷土史
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                          編集:本田哲康
                         <無断にての転用をお断りします>
西暦 天 皇 年号 改元 神社仏閣関連 社 会 の 状 況
1800 光格 寛政 12 京都愛宕山消亡。  寺部領内の矢作川堤、大水による破損のため尾張藩へ普請を願い出る(豊田市史)。   3/赤坂代官所、格下げされ、中泉代官所赤坂出張陣屋と改称。  7/野村立栄のもとに、 12月大阪四天王寺雷で焼失。富士山女人登山許可。伊能忠敬、蝦夷地を測量。十辺舎一九「東海道中膝栗毛」を著す。 幕府、高田屋嘉平衛に択捉航海の針路を試みさす。
1801 享和 1 九久平町の高徳寺山門左に地蔵菩薩  4/九久平町薬師ゲ嶽17の高徳寺山門左に地蔵菩薩(丸彫り立像)。   百姓町人にみだりに名字帯刀を許すことを禁ずる。 本居宣長、学問普及のために上京し、多大の成果を収めて帰る。9/18発病29日没。伊能忠敬に沿岸測量命ずる。
1802  享和 2 畿内名古屋地震(M6.5)。諸国洪水。  6/29矢作川洪水。民家浸水二階に及び田畑一面水腐、助船で翌日までに立ち退き(藩史)。 8/7矢作川洪水で挙母町大川通堤の切れたところから人家浸水。田畑水腐、籾50石を水害村に与える(藩史)。   名古屋城下と瀬戸、赤津、下品野に窯方御蔵会所をおく。 この頃より、西枇杷島祭り始まる。山車祭り。   2/幕府、蝦夷奉行を置く。江戸大火。連日風邪激しく火災多い。2〜4月諸国に風邪流行。6月江戸周辺長雨。箱根温泉流失。十辺者一九「東海道中膝栗毛」。伊能忠敬、陸奥、出羽、越後を測量。 「蝦夷地図式」(北海道大学蔵)では、現在とほぼ同じ形の地図となった。北海道には、先住民・アイヌの人々が暮らしていた。松前藩が彼らを支配。
  ナポレオン戦争1802-1815    封建的な専制君主制を倒すために行われたフランス革命の理念のもとにヨーロッパ統一を果たすべく、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン等の対仏同盟との戦いを続けたナポレオン。1815年、第二パリ条約の締結により戦争は終結し,ナポレオンは失脚。ナポレオン時代に整備された国民軍制度に、他国も倣い、軍隊の規模は拡大傾向に。(戦争開始年は諸説あり)
1803 享和 3 江戸降雨なく強風。10月伊豆大島噴火  8/16洪水、挙母村破堤(郡誌)。   熱田奉行津金文右衛門等により、熱田前新田が完成。伊能忠敬、尾張・三河を測量。尾張藩内の豪商農に商方会所・農方会所を作らす。  津軽新田の開拓始まる。麻疹で死者多し。伊能忠敬、東海、中山、北陸方面測量。 アメリカ船、長崎に来航、通商求むも、幕府応じず
1804  文化    甲  子  6月出羽大地震  8/28矢作川洪水(2丈余)。低地の家屋は1丈1尺余浸水。助船で高所に移し救粥を下された(藩史)。仁木・岩津・西蔵前野村で矢作堤防400間破堤(矢作川)。9/17満水、このとき矢作橋東方50間破堤(矢作川)。11/28風水災害で、8,073石損耗。損耗が5年分収納の3分以上の場合1万石につき3斗5升がは入り、籾10,000俵備蓄するように勘定奉行から御達(藩史)。   これ以降、知多の白木綿販路が拡大して行く。この年、本居大平、吉田(豊橋)で講義。慈雲没「十善法語」「梵学津梁」。   9/ロシア使節ニコライ・レザノフ、長崎に来航(1792年アダム・ラックスマンに次いで、二度目)。貿易要求。幕府は、二度ともこれを拒否する。ロシアは、実力行使をはじめる。  
  ナポレオン戴冠。  フォイエルバッハ(〜1872)生まれる。  
1805 文化 2 6〜7月江戸旱魃。  本居宣長の実子、和歌山の本居大平(おおひら)吉田(豊橋)で国学の講義。  5/百姓の武芸稽古を禁ずる。9/ロシア使節レザノフの要求を拒否。紀伊の医師、華岡青洲初めて麻酔剤による乳ガンの手術。
1806 文化 3 6月江戸と近国大雨。  花園・中根・吉原の3か村の用水を巡って、花園・中根間で論争起こる(花園区有文書)。  熱田では、旅籠に飯守女をおくことが公認される。(遊郭化の進行) 武士などは、役人の目を避けて熱田で遊ぶ者が多く、大須界隈から熱田にかけての地域は遊興を求める人々によって賑わう。  1/文化の撫恤(ぶじゅつ)令。沿岸諸藩に防備を命じる。3月江戸・芝の大火(丙寅の大火)。10/江戸町人らに御用金を課す。大阪町人に買い米命じる。1月歌麿没(54)。  ロシア使節ニコライ・レザノフの部下が、樺太のクシュンコタンに砲弾を撃ち込む。
1807 文化 4  7/25領分三州挙母町大風雨、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。  3/幡豆郡矢曽根村の松崎元栄(48)、妻と19才の息子元春らを伴って名古屋の野村立栄に入門。翌年9月まで。元春は、1846年西尾藩医となる。9/尾張藩の年貢米俵、江戸売り払いの便宜のため、四斗俵普及。 九州に渡り磁器焼製法を習得した加藤民吉、帰る。藩の染め付け御用達となる。尾張藩、木綿の直買を禁ず。刈谷領泉田村で騒動。  2/西蝦夷を直轄とする。4/ロシア船、樺太・択捉島に来航。5/ロシア船、利尻島に侵入、幕府船を焼く。  ロシア使節ニコライ・レザノフの部下が、エトロフ島を襲撃。食糧を奪い海賊行為を行う。
1808 文化 5 六所神社上宮南に、石灯籠。九久平町の吉祥院に地蔵菩薩     1/坂上町朝日山の六所神社上宮南に、石灯籠『奉献燈篭御神燈。伊勢神宮遙拝所』。  3/22九久平町寺前15の吉祥院山門左に地蔵菩薩(丸彫立像)『大源周明和尚』。7/25大風雨、、潰家26軒、半壊22軒、怪我人男女35人、内2人即死。矢作川破堤。水腐。(藩史)。 8/八幡祭で永代橋落ち500人死亡。
  4/間宮林蔵樺太探検。アイヌ人の助けを借りる。トナカイやオロッコ(現:ウィルタ人=魚の革・アザラシの皮を着用)・スメレンクル(現:ニブラ人)の報告。5/上方洪水。摂津・河内水害。  7/13間宮林蔵二度目の樺太測量。 8/フェートン号事件。江戸町人5人を町方御用達に登用。   
1809 文化 6 江戸近国50年来の大雪(2尺余り)  6月江戸近国長雨・洪水・米価高等。諸国強風。    5/間宮林蔵、アイヌの船を使って北上し、樺太が島であることを確認(間宮海峡)。最北端に数戸の民家を確認。6/26間宮アイヌの助けを得てロシア・デレンに赴く。サンタン人の集落あり。7/11間宮デレン(数百人の様々な民族による商取引・交易の街)に到着。
              進化論・チャールズ・ダーウイン(1809〜1882)生まれる。
1810 文化 7 江戸降雨なく烈風・8月風雨・冬大雪  豊田市羽明(はあす)、法恩寺再建。(「松平町誌」)
一宮地方で、綛(かせ)糸仲買設置反対運動。  2/相模・安房海岸に砲台築造。12/大阪富商14名に御用金を課す。 江戸烈風ふき火災。8月風雨のため死者多し。
1811 文化 8 伊能忠敬、九久平に泊<市郷土資料館だより>より  2/一宮地方で、綛糸(かせいと)仲買株設置反対運動。 3/測量家伊能忠敬一行、名古屋から飯田街道筋を通り四郷村から南下して挙母城下を訪れた。この時四郷村で泊。村々で、机や燭台を用意させ、村人に寝ずの番をさせるなど受入に気を配った。(菅原家文書「測量御用ニ付書物控」文化8年3月)。
 この時、九久平村家数89軒 内33軒本村、21軒柳郷字菅沼 ・11軒同山中 ・24軒同鵜ヶ瀬。
 その後、「中垣内五七衛門方御泊り、又、九久平村・伴蔵方御宿也、(中垣内で休息し、九久平で宿泊)」。九久平は、馬4疋、人足8人を出して協力。
 一行は、その後足助方面に向かう。
  5/28大雨洪水(岡崎市史)。
   6/幕府の役人は、千島列島を測量していたロシア艦長ゴローニンを、国後島で捕らえられる。 平田篤胤「古道大意」。式亭三馬「浮世床」。江戸大火。 佐久間象山(1811〜1864)生まれる。〈吉田松陰の師〉
1812 文化 9  5/28昼頃より大雨、満水。近年に無き高水なり(矢作川)。  8/ロシア船、国後島で高田屋嘉兵衛を捕らえる。 間宮林蔵、13巻の樺太測量の報告書を幕府に提出。樺太は半島ではなく大きな島であった。 
1813  文化  10    癸  酉   11/尾張の督乗丸、遠州灘で遭難。船頭重吉ら500日間漂流する。  5/ロシア船を高田屋嘉兵衛送還。9/ロシア艦長ゴローウニンと交換。 
   キェルケゴール(〜1855)生まれる。
1814 文化 11  寛永寺本坊焼ける。瀧沢馬琴、南総里見八犬伝なる。
1815 文化 12 5月阿蘇山噴火。  5/26洪水(水量1丈4尺余)。破堤288間・水門破損。人家浸水。田畑水腐(藩史)。6/7矢作川堤、新村から高落にかけて決壊(西尾市史)。
 杉田玄白「蘭学事始」成る。   この年、新城の田中春庵、京都の小森玄良塾(蘭学)に三河最初の門人として入門。
1816 文化 13  畿内・東海風雨・洪水  7/31〜8/4大雨・洪水。挙母村破堤(郡誌)。その他各所にて破堤(西尾市史)。  10/信州中馬が三河馬稼の駄賃荷制限を要求し、津具村などで紛争がおきる。11/吉田魚町魚問屋、領内の独占権得る。12/都築弥厚(弥四郎)明治用水開発に着手(明治用水百年史)。  2/武家屋敷内の賭博勝負禁止令の厳守命じる。4〜8月江戸疫病発生。
1817 文化 14 坂上町の観音堂念仏塔  坂上町丸塚60-1の観音堂に念仏塔(平石)右側に、徳本上人の名号石、『春彼岸寺正月念仏講中造之』。   9/イギリス船、浦賀に来航。 
1818  仁孝 文政    戊  寅  豊松町神明社に石灯籠  10/豊松町宮前神明社に石灯籠『奉納御寶前』。
  2/幕府、鎌倉で大砲試射。5/英人ゴルドン、浦賀に来航し貿易を要求。幕府これを拒否。伊能忠敬没(74)。『妙好人伝』(〜1852)。
 マルクス(〜1883)生まれる。
1819 文政 2 伊勢・美濃・近江地震(M7.3)  伊勢・美濃・近江地震(M7.3) 米価下落。一茶「おらが春」できる。
1820 文政 3 1/尾張藩、米切手の取扱を規定する。8/幕府評定所、信州中馬と三州馬稼ぎの争論に裁許を下す。
1821 文政 4 滝脇町西洞31の長松院に供養塔  8/7洪水、挙母村破堤(郡誌)。 10/16滝脇町西洞31の長松院に供養塔『玉雲全明大和尚』。
 2月江戸に風邪流行・御目見以下3.5万人に施薬。飢餓民30万人に銭を与える。9/伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」を完成。
1822 文政 5 林添町寺脇・晴暗寺に、供養塔  松平是心寺再建。 (「松平町誌」)
 
林添町寺脇・晴暗寺に、供養塔角柱。7/25洪水、挙母城下潰家25戸、死者2人怪我35人(郡誌)。  3/小田原藩主大久保忠真、二宮尊徳を登用。5/樋口好古「尾張徇行記」の編纂を完了。 この年、名古屋の書店永楽屋、本居宣長の「古事記伝」全巻の出版を完了。 江戸大火。西国でコレラ大流行。イギリス船、浦賀に来る。
1823  文政    癸  未  林添町寺脇12-1晴暗寺に六地蔵  8/17矢作川大水(岡崎市史)。 10/林添町寺脇12-1晴暗寺に六地蔵(舟型立像)『圓容心誉近善臣禮』。   4/新城、菅沼家家臣池田寛親、小栗重吉の漂流談「船長日記」を著す。勝海舟生まれる。   ドイツシーボルト来朝。 
  アルフレッド・ウォーレス生まれる(〜1913)。後に東南アジアの島々を航海して、生物の多様性に驚き、母国イギリスに送っていた。やがて、ダーウィンよりも先に”進化説”を直感する。
1824 文政 7 大内町三本松松平乗元の墓に石灯籠。信光寺に手洗石  2/古鼠の川舟業と小渡村との川下げ紛争和議(古井家文書)。6/矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 4/大内町三本松松平乗元の墓に、石灯籠。一対。信光寺に手洗石(角型)。 江戸女芸者を禁ず。
1825 文政 8  4/14矢作川堤防破堤。上青野村等で切れる。(西尾市史)青野・安藤・福桶・高畑・三ツ木在家の諸村浸水(矢作川)。 7/西浅井村羽佐坂で破堤(西尾市史)。  初代歌川豊国没(57)。雷電為右衛門没(59)。初代清元没(49) 2/異国船打払令発布。沿岸の警備を強化。  岩倉具視生まれる。
1826  文政    丙  戌   5/22矢作川洪水(岡崎市史)。 6/今村渡しの船建造。建造費の3分の1は藩から(今区有文書)。  1/尾張藩、瀬戸村に焼き物御蔵所をつくる。3/水谷豊文、宮宿にシーボルトを迎え植物標本の鑑定を願う。
 ベルンハルト・リーマン(1826〜1866)生まれる。素数に隠された意味をより強く印象づける人物が登場した。(ドイツ・ゲッティンゲン)
1827 文政 10 越後地震  5/21矢作川洪水(岡崎市史)。7/24矢作川洪水(岡崎市史)。 8/碧海郡和泉村の旗本代官都築弥厚、その子弥四郎の名で加茂・碧海両郡一体開拓のため、矢作分水を計画し、願い出る。この年、伊藤圭介(名古屋町医の子。蘭方医・植物学者)、長崎でシーボルトに医学・博物学を学ぶ。三河の羽田野敬雄(三河吉田田町神明、羽田村八幡両社の神主)・吉田熊野神社神主鈴木重野・舞木八幡宮(岡崎)神主竹尾正寛、平田篤胤門・平田大平に入門する。  頼山陽「日本外史」を著す。西郷隆盛(薩摩藩士)生まれる。槍ヶ岳(標高3180m)、播隆(1786年一向宗の家に生まれる。19才で出家。)長年の苦心の末、阿弥陀仏・観世音菩薩・文殊師利菩薩を安置する。小林一茶没(65)。ジョン万次郎生まれる(1827〜1898)。 薩摩藩、調所広郷(ずしょひろさと)が、藩政改革に乗り出す。
1828  文政  11    戊  子  全国的水害  5/9矢作川大洪水(岡崎市史)。6/1矢作川洪水(1丈8尺)破堤数カ所、水門破壊。人家浸水、田畑水腐(藩史)。7/1矢作橋30間落ち、青木・仁木・八町・上青野・矢作・天王上堤等切れる。矢作村では流家死人在り(矢作川)。  伊豆田方山崩れ・新山湧出。6月全国的水害(653万石)。8月九州大雨。
  9/9 レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ、生まれる(〜1910.11.9)。 
1829 文政 12 江戸強風。  12/中島郡苅安賀村で減免を求めて騒動。菅江真澄没。  江戸強風中大火(己丑きちゅうの大火)死者900人余。松平定信没(72)。
1830 天保 1 7月京都大地震。  お陰参り流行。板山の獅子芝居:半田市神代町・八幡神社。獅子頭はこの頃につくられた。県指定無形民俗文化財。   金沢不作。吉田松陰(長州藩士)生まれる(1830〜1857)。大久保利通(薩摩藩士)生まれる。シーボルト事件。  大塩平八郎38歳、与力(与力としては最高の地位:諸御用調役)を辞職し、養子の格之助に引き継ぐ。 葛飾北斎「富嶽三十六景」  一茶  蘭学・国学の興り。  千葉周作・剣術。
1831  天保    辛  卯   鹿児島凶作。百姓町人の過分な葬儀などを禁ずる。10/イギリス船、東蝦夷に来航。良寛(74)・十返舎一九(69)没。 
 アメリカ(1787)、フランス(1791)に次いで、ベルギー王国憲法制定。
 ビーグル号・ダーウィンを乗せて航海。ガラパゴス島のゾウガメの特徴を分析して、「全ての生き物は神によって作られた」のではなく、進化して生まれた説を唱えることとなる。
1832 天保 3 天保の飢餓始まる      大内町三本松の松平乗元墓に石灯籠一対。『大給主 松平石見守源乗利之立』。   5/幕府役人平岡彦兵衛、加茂・碧海両郡の新開拓見込み地を検分。9/18大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。12/設楽郡中設楽村などの商人仲間31人、柿、楮(こうぞ)、たばこなどの仕入れについて議定する。これより同郡月村など6カ村(振草七郷)と争論がはじまる。  天保の飢餓始まる。鼠小僧次郎吉死刑。頼山陽没(53)。
1833 天保 4 天保の大飢餓(長雨・冷害〜39)。美濃西・大垣(M6)、10月越後出羽地震  九久平陣屋、倹約と頼母子(たのもしこう))加入を領民に命令。(「松平町誌」)
 
2/東海道二川宿・白須賀宿の助郷村、負担軽減を求め道中奉行に訴える。12/27田原藩、格高制を実施し、藩士の俸禄を豊凶により増減させる。この年、加茂郡九久平村周辺23カ村薪問屋の割木買いたたきに抗議する。鈴木朖、尾張藩校明倫堂教授並となり初めて明倫堂で国学を講ず。設楽郡稲橋村で古橋暉児が中心となり、杉の植樹開始。  8月関東奥羽大風雨。10月越後出羽大地震。各地一揆。大阪に捨て子養育を命ず。天保の大飢餓(長雨・冷害〜39)。木戸孝允生まれる。
1834 天保 5 王滝町覚庵16の妙昌寺に地蔵菩薩 4/王滝町覚庵16の妙昌寺に地蔵菩薩(舟型立像)。  4/21田原藩、幕府による渥美郡海岸新田開発計画の中止を嘆願。9月に認められる。9/田原藩、大蔵永常を招き、藩産物取締役に任ず。  2月江戸大火。7月大阪堂島新地大火。冬米価下がる。3/水野忠邦、老中となる(〜43)。近藤勇(浪人)生まれる。福沢諭吉(中津藩士)生まれる。
1835 天保 6 6月関東奥羽大地震。  7/5大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。11/田原藩、報民倉(救荒備蓄倉庫)を設置。  3月金沢大火。6月地震以来各地に一揆。  名古屋の植松茂岳、尾張藩に仕官し、やがて明倫堂で鈴木朖の後の国学教育の中心となる。 井上馨(長州藩士)生まれる。坂本龍馬(土佐藩郷士)次男として生まれる。
 坂本龍馬の祖父・兼助は、土佐でも屈指の豪商であった家に生まれたが、郷士(ごうし)格を得たいと分家して、郷士の株を買い取った。
 本家から分家する際に相続した財産は、銀百貫目に付き三歩二三厘(1億6千万円・2010年現在)及び加治子米
(かじしまい)を40石/年(1,200万円・2010年現在)得ていた。
  <本家の相続人は八次。、銀百貫目に付き六歩四五厘及び加治子米
(かじしまい)を30石/年であった。>
 龍馬の屋敷は、およそ500坪(75m×21m)。茶室もあった。高知市丹中村に坂本家の墓所がある。
 <上士と郷士の間には、墓石の高さにも違いがあった。上士よりも高い墓石を立てることはできなかった。> 
 坂本家は、上士に金を貸す程裕福であった。
  岩倉具視(討幕の密勅・王政復古画策)没。
1836 天保 7 (かも)の騒動・大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石

諸国凶作で米価高騰。

伊豆地震(M5〜6)。

8月諸国洪水
 3/大内町三本松の松平乗元の墓に、手洗石(角型)『松平石見守乗利造立之』   1/寺津八幡宮神宮渡辺政香「参河志」を著す。  8/13暴風雨、三河一帯に被害。米価高騰、物価高騰米の買い占めによる生活困難。
  9/16鴨の騒動
  9/16九久平百姓のせがれ繁吉・仙吉が下河内村の辰蔵及び松平郷柳助と面談。辰蔵は、世間を「暖」ゆるやかにするために、六所山辺に結集し,お上に米相場引き下げの出願をし、米屋・酒屋など数軒の打ち壊しの流言を流そうといい、柳助と共に「棟梁」となった。<菅沼家文書>より 
 9/20石亀坂を越えた茅原
(ちわら)村地内にある辰蔵の作業小屋に20〜30人集合。主な顔ぶれは木挽き仲間の若者組に属する30歳前後の未婚の青年。要求項目を決める。(一両で6〜7斗くらいの米価。頼母子溝(たのもしこう)の二年休会。酒その他の価格引き下げ。要求は、事態の進行の中で、小売り米の値下げ。米の地域外持ち出し禁止。質の利率引き下げが加わった。そして、証文・帳簿の破棄による直接行動で貸借の帳消しが目指された。)。 
 9/21(夜)三河加茂郡一帯で百姓一揆(鴨の騒動)。滝脇村の石御堂に40〜50人が集結。笠をかぶり、めいめい鎌・斧・まさかり・鋸持ち、竹筒を吹き鳴らす。まず、滝脇の庄屋の家に行き村民参加を要求したが断られ、これを打ち壊す。滝脇
(たきわき)村から5〜6人参加。村々に参加を呼びかけたが言い継ぎの通りの制裁であった。
 9/22(朝)一揆勢は、2〜300人となる。造り酒屋・穀屋などを打ち壊し、その日の内に2000人にふくれあがる。その夜、奥殿
(おくとの)藩役人、旗本鈴木家代官、及び石川家代官の3人と一揆指導部との交渉。(年貢金納相場一両に8斗の要求に対し、領主側は6斗の回答。指導部これで承諾すると、一揆勢から不満。辰蔵の裏切りであると言うことになり、足助方面からの参加者が辰蔵の家打ち壊す。指導部交代。その日の内に鈴木家から米8斗の回答。)  
 9/23朝、奥殿藩領内の米屋と米会所打ち壊し藩に8斗を認めさせる。岡崎藩の軍勢が察知し、足助に向かう。午後4時頃足助の入り口に結集した勢力は約4000人。旗本本多家代官が数人の手代わり・同心と待ち受けたが「しゃらくさし」と、たちまち追い払われる。第1に攻撃目標は酒屋、鬨の声を揚げて四方を囲んで打ち壊す。結果、五軒の商家が壊されたが、他は酒食を提供して免れる。代官は、一揆勢の要求を認めた旨の高札を立てた。その夜の内に伊奈街道沿いと美濃国境までの村々に参加を呼びかけた(設楽郡御所貝津村:今の稲武)が村役人の説得で参加しなかった。足助近くの不参加の二か村の庄屋宅は見せしめに打ち壊された。一揆は拡大して挙母に向かう。
 9/24曉には矢作川左岸に一揆勢が次々到着。尾張藩家臣渡辺領寺部陣屋に用意させた船で対岸の挙母に渡る。2000人ほどが城下めがける。町の入り口で、町役人らが竹槍。その背後から藩兵が鉄砲を構える。遂に実弾を込めて水平撃ち。死傷者が出て、一揆勢は敗走。足助へ。
 9/25遅れて馳せ参じた奥地の一揆勢と足助で合流し、二度目の打ち壊しを開始。  247カ村11,457人が参加。

 天保9年幕府評定所で判決。獄門:辰蔵ともう一人(すでに獄死していた)。遠島は柳助・繁吉ら4人(江戸送りになる前に赤坂陣屋の牢屋で全員自殺。)他に55人が処罰。240か村・7町が過料銭を課される。 
  同じ頃幡豆郡地方でも打ち壊し等おこる(頭取:下河内村松平辰蔵)。  諸国凶作で米価高騰。一揆・打ち壊し。洪水後、全国各地で飢餓・死者多し(奥羽地方最も甚だしく死者50万人)。江戸辻斬り強盗横行。 薩摩藩、調所広郷(ずしょひろさと)の、藩政改革。藩には500万両という莫大な借金があったが、この年に「無利子で250年掛けて返済」と、貸し主に一方的に通告した。強引な形で、藩のふさいを解決。奄美諸島のサトウキビから作る砂糖の専売や琉球を通じての貿易などで大きな収益を上げた。
  国定忠治は、私財を投じて飢民救済したので、赤城山麓では一人の餓死者も出なかったと羽倉簡堂(忠治を取り締まる立場の者)が記録している。
1837 天保 8 家慶  10/尾張藩で給地の租税増大のため、給地百姓から蔵入百姓に転ずる者増加。  2/19大塩の乱(大塩平八郎・陽明学者:「洗心洞」塾長46才)。平八郎、蔵書をすべて売却してできた六百六十八両(現在の価値に換算して8千万ー一億三千万円を、一万人の人々に配布。建議書を発送して、翌日挙兵。門人と農民たちに加え檄文に反応した農民たちで300人ほど参加。大阪の腐敗政治を告発した文書を送ったが、江戸には届かなかった。(「民を救うということ」 藪田貫より)  6/生田万(よろず)の乱(越後:今の新潟県・柏崎)。<大塩の乱は、瞬く間に全国に広がった。>  浦賀に貿易交渉のために、アメリカ船モリソン号。日本は「異国船打払令」により打ち払い・退去する事件。 大阪米価・物価高騰して餓死者多数。 佐賀藩、鍋島直正は、農民に小作料を10年間猶予したり、町人の地主がもっていた土地を一端藩の所有とし、それを農業を行う農民や小作人に分け与えた。陶磁器・有田焼や蝋の専売で利益。また、長崎でオランダと事実上直接貿易を行う。   板垣退助(土佐藩士)生まれる。
1838 天保 9 坂上町茶臼下の神明宮に石灯籠一対  (「松平町誌」)坂上町茶臼下の神明宮に石灯籠一対『奉献御寶前』。  1/幡豆郡寺津村で助郷役免除を嘆願(平地山騒動)。6/13大風雨、矢作川大洪水(岡崎市史)。 4月江戸大火。5/江戸、奢侈禁止令。5月佐渡・三河・駿河・甲斐・越後で一揆。山県有朋(長州藩士)生まれる。大隈重信(肥前藩士)生まれる。長州藩、村田C風の元で藩政改革始まる。特産品の蝋の専売制をゆるめて農民の支持を得ながら、下関に一種の貿易会社を設けて、藩財政の立て直しを図り、庶民への教育にも力を入れた。
1839 天保 10  豊年踊り流行。5/14蛮社の獄、渡辺華山・高野長英投獄。渡辺華山2年後に自害。高杉晋作生まれる。10/奢侈禁止令。
1840  天保  11  庚  子  九久平横手の九久平小学校西に念仏塔(自然石)。徳本上人(注)の名号石  6/28菅生川出水、青木川切り込み(郡誌)。8/25大雨、大平橋流失(岡崎市史)。 9/九久平横手の九久平小学校西に念仏塔(自然石)。徳本上人(注)の名号石(現在、「徳本饅頭」なる菓子を商う老舗の店がある。昔在った場所から移転して営業)。    
注:徳本上人は宝暦8年(1758)6月22日、日高町志賀に生まれました。数えでわずか2歳の年、姉に抱かれながら、月に向かって「南無仏」と唱えたとか、4歳のころ、仲のよかった隣家の子どもの急死に無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったとかの逸話が残っており、幼いころからすでに強い出家の意思を抱いていたようだ。
 天明4年(1784)に出家した後は、草庵に住み、1日1合の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続けました。また、水行をしたり、藤の蔓につかまって崖をよじ登るなど、他に例のない過酷な修行をしたことも伝えられており、行場跡も多く残っている。
 寛政6年(1794)ころから始められたといわれる全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、驚くほど広い範囲に及んでいる。
 上人の足跡を物語る石碑(名号碑)は全国各地に千基以上あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けている。

【誕生院】
開山者として、徳本上人を祀る浄土宗の寺院。文政7年(1824)の開基で、上人の誕生地にあることから、紀州藩主・徳川治宝の許可を得て、後に誕生院と称するようになった。本堂は嘉永4年(1851)、徳川治宝の命により建立されたものです。上人ゆかりの遺品を多く所蔵し、寺の裏手には上人幼少期の行場跡や上人の舎利・遺髪を納めた名号塔があります。生家跡は「徳本上人誕生遺跡」として、県の史跡に指定されている。

          引用先:http://www.town.hidaka.wakayama.jp/rekishi/tazu.html(「和歌山県日高町」) 
 12/小牧代官支配の67カ村、木綿仲買株設置に反対する。  諸大名に質素倹約を命じる。渋沢栄一(豪農・幕臣)生まれる。黒田清隆(薩摩藩士)生まれる。
   中国、アヘン戦争(〜42)・・イギリスと清との間の戦争。これが中国へ列強が進出するきっかけとなる。インドをはじめ植民地化を広げ、綿製品のアジア進出をもくろんでいたイギリスだが、清が鎖国政策をとっていたため、貿易不均衡の解消を目的に、自国の製品をインドへ、インドからアヘンを密輸入、清から茶を輸入する三角貿易を進める。アヘンの輸入をめぐりイギリスと清は開戦。1842年、戦勝国イギリスは典型的な不均衡条約とも言える南京条約を締結。欧米列強によるアジア侵略の本格化を許すきっかけとなった戦争と言える。
1841 天保 12  天保の改革

 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。

 坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔
 9/坂上町丸塚61-1の観音堂に念仏塔(平石)。  加茂郡羽明村(豊松町)名主河合金右衛門、九久平・足助間の水路(巴川)開さくを幕府に出願。 8/吉木山(東宮口六所神社)、奥の院改築。

  伊藤博文(〜1909)生まれる。10/渡辺華山自刃・没(49)。5/水野忠邦による天保の改革はじまる(1841〜43)。
「天保の改革」の主な内容   厳しい改革は、僅か2年でゆきずまり撤回、

水野忠邦は失脚する。    
社会統制 倹約令の徹底(ぜいたく品の取り締まり)
芸術思想の統制 
農村復興 人返しの法(出稼ぎ制限)
商業対策 株仲間解散(自由な営業を認めて物価上昇を緩和) 
その他 上知令(江戸・大阪周辺などを直轄地に) 
 7/異国船打ち払い令緩和。・・アヘン戦争で清にイギリスが勝利し、清は開国を許さざるを得なかった。日本はその動きを察知しての結果だった。
1842 天保 13 石楠町下林・公民館南西に地蔵菩薩  3/石楠町下林・公民館南西に地蔵菩薩(舟型立像)。   3/尾張藩、藩内株仲間を解散。木綿製品統制を目的に国産会所を設立。5/18挙母矢作川洪水、水量1丈尺、破堤し田畑損害(藩史)(郡誌)。  7/天保の薪水給与令(打ち払い令を緩和)。農民風俗倹約令を出す(〜1889年)。
1843 天保 14  2/尾張藩撰「尾張志」を完成する。4/尾張藩、藩切手を発行する。この年の代官所による余業調査の結果、四十数戸の稲橋村のなかで38人が山仕事従事者であった。内、杣そまこびき木挽き2人、炭焼き8人。その他、信州行き諸荷物運送者は2人。四十戸の川手村(稲武)では35人。内、杣職人2人、炭焼き稼ぎ15人、猪鹿猟稼ぎ5人であった。その他、仲馬追い稼ぎ4人がいた。農閑期の稼ぎとは言え山で働く人は多かった。9/4挙母矢作川洪水。堤防破壊(藩史)。  7/大阪町人に御用金を課す。12月江戸大火。
1844  仁孝・孝明 弘化  甲  辰   「荷ノ口論争」起こり、馬稼方出馬を取り止める。 (「松平町誌」) 2/「尾張名所図会」刊行される。4/9領分三州挙母矢作川洪水破堤(藩史)。  12月江戸城本丸大奥上棟式。3/フランス船「アルクメール号」、琉球に来航。琉球は、フランスの要求を断る。 7/オランダ国王、幕府に開国を勧告(翌年謝絶)。この年、尾張藩書物奉行深田正韶監修「尾張名所図会」刊行さる。藩に献納。佐賀藩、火術方(かじゅつかた)大規模な溶鉱炉・鍛冶屋設置により軍需改革に重きを置く。 1850年には金属を溶かす反射炉を建築。
   ニーチェ(〜1900)生まれる。
1845 弘化 2  2/加茂郡21か村の馬稼ぎと足助町問屋が通行料(荷口銭)徴収で争い、馬方ストライキをする。  江戸 青山・高輪・三田大火。
1846 弘化 3 九久平町石橋、小野田新八宅西・馬頭観音。6月諸国長雨江戸水害。7月京都水害  九久平町石橋、小野田新八宅西・馬頭観音(舟形立像)。元春は、西尾藩医となる。9/2上伊保村大井土橋完成(保見町細川家文書)。    1月江戸大火(町数290)。4/イギリス船、フランス船、琉球に来航。
  この年、宇田川榕庵(
ようあん178〜1846)没。Cellを細胞と訳した学者。
 薩摩藩は、「海外貿易は国禁だが、フランスの要求を拒み戦乱になれば、薩摩だけではなく日本にも災いが及ぶ。この際、琉球に限り通商を許すのが得策」と、時の老中に意見を述べる。老中は、「もとより、琉球は異国であり、その政策については薩摩藩に任せる。やむをえない場合には、フランスに限り交易を許してもよい」『大日本維新史料』より 
  5/アメリカ使ビットル、浦外来航、通商を要求。幕府拒絶。琉球にも立ち寄って交易を迫る。
1847 弘化 4 九久平町岩谷山・弘法堂に地蔵菩薩。信濃・越後大地震死者数万人  7/31九久平町岩谷山・弘法堂に地蔵菩薩丸彫り立像。 信濃・越後大地震死者数万人:別名・善光寺地震  
 浅草に一揆。天然痘流行。 中江兆民生まれる(〜1901)。
1848  孝明 嘉永    戊  申  東海畿内大雨矢作橋等損壊。
「安全寺」西辻馬頭観音
 等光寺、この年に現地に移築。4/坂上町天下峯「安全寺」西辻馬頭観音(舟形立像)。8/8〜9大風雨洪水(岡崎市史)。 この年、吉田藩、省略仕法開始。 幕府名古屋藩に5万両。江戸大名小路火災。
 プロイセン王国、立憲君主制の憲法制定。
1849 嘉永 2  8/17奥殿藩;領主・松平石見守 従五位源朝臣建立之乗利=松平 乗利18111854 のりとし):三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代・・・松平六所神社本宮・下宮に不動尊一宇寄進(同集落郷倉の棟札)。
 12/伊藤圭介、尾張で最初の牛痘種痘を実施。  佐賀藩楢林蘭法により種痘・領内に種痘奨励。
この頃の身分別人口 ・・・1849年秋田藩の例       ※百姓とは
・村に住んでいる   
・検地帳に田畑を登録されている
・領主に対して年貢を納める
        **************
 田畑をもたない百姓も居た。林業・漁業も
百姓と称されていた。
 身分  神官・僧侶 町人 百姓  武士  その他  合計 
 人口  7,256人 27,852  284,384   36,453  16,209 372,154  
  %  1.9%  7.5  76.4  9.8 4.4 
出典:関山直太郎「近世日本の人口構造」      
1850 嘉永 3
九久平宮ノ根15の神明宮に石灯籠
 桂野用水路起工。(「松平町誌」) 7/21夜、大風雨満水。細川・仁木・岩津・西蔵前・八丁被害。7/22小間村・浅井村・田貫村の堤防破壊。(西尾市史)。8/6領分三州挙母矢作川洪水。水量1丈尺、八幡渡場堤破損人家浸水(藩史)。8/7矢作川九分水となり天白堤200間切れ、その他13カ所破堤。(西尾市史)。8/8挙母城下浸水(陽竜寺文書)。9/2〜3大風雨。堤30間切れる(矢作川)。 8/九久平宮ノ根15の神明宮に石灯籠。『御寶前』ー境内の隅に片づけられている。    名古屋藩に1万両貸す。江戸大火。幕府松代藩士佐久間像山のオランダ語出版許さず。 12/21任侠をもって鳴る博徒国定忠治、脳溢血で倒れついに逮捕される。殺人と関所破り他の罪により上野国大戸の関所で磔となる(41才)。形状には500人を越す見物人。
 佐賀藩、この年、金属を溶かす最初の反射炉を建築。日本で初めて鉄でできた大砲を作る。後に、火薬製造、蒸気船など他の藩とは特色のある事業を行った。
1851  嘉永    辛  亥   ※村政運営
  :村請制:
領主
↓ 
村方三役 
名主(庄屋・肝煎)
・組頭
・百姓代 
 ↓
本百姓(高持)
年貢などの納入
 
 ↓   ↓
 水呑
(無高)
下人
など

  村絵図













「五拾壱加上」

平勝寺梅童
(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵)
 六ツ木、長慶寺創建。(「松平町誌」) 3/名古屋の株仲間ほぼ復興される。4/「五拾壱加上:五拾壱ケ条」平勝寺梅童(住職か?)により写書されて今も残る。(杉本時一氏蔵)  江戸に辻斬り多くその切り捨てを許す。ジョン万次郎上陸す。
助郷赦免の陳情文    六所神社蔵
 乍恐以書付奉願上候
一 当村之儀は東南に高山在之右山より出申候清水ノ以田方へ引申候間 実法悪敷其上猪鹿猿等出実
 法最中ヲあらし申候間取入間違難渋仕候
一 去ル戊年凶作処削申上候通り冷水引申候田地ニ付別而悪敷一向実法不申村相続之難出来ニ付甚だ
 難渋仕候
  前奉書申上候通り困窮村方之儀ニ付何卒御慈悲ヲ以助郷候儀御赦免被下置候様奉願上候以上
  嘉永四年辛亥五月
     松平岩見守領分
     三州加茂郡宮口村
        百姓代   藤吉    印
        組頭    又左エ門  印
        同     吉兵衛   印
        庄屋    庄兵衛   印
        
(注:庄兵衛は、2年後に没している。1853.10.17没 戒名 了覚 没年齢不詳・妻の年齢は35歳。次代の庄屋は浅吉
 福井柳右衛門 様
 桑原 金輔  様                               
(宇野鎮夫氏解読)
 助郷赦免の陳情文(要約)    三州加茂郡宮口村
 「恐れながら書き付けを以て願い上げ奉(たてまつ)ります
 一 当村
(宮口村)におきましては東南の高山が在り,この右の山(吉木山)から清水を
  田へ引いているのでありますが、稲の実りが悪い上に実りの最中の収穫前に猪鹿猿
  が出て田を荒らすので予定の収入が無く常に難渋しています。
 一 特に去年より凶作の報告をしましたとおり、山からの冷水を引いての水田は収入
  が急減し、一向に実らず村民の生活が成り立たないほどに甚だしいく困窮しており
  ます。
 前述の通り村方が皆困っておりますので、何卒お慈悲を以て助郷の勤めを免除して下さるようお願い申し上げ奉
(たてまつ)ります。」
                   豊田市坂上町 六所神社 郷倉蔵     管理人 意訳
          
  注:右の山(六所明神)の霊山からの水で米を作っていることをことさらに加えていることが、後世の村民として切実さが意味深く感じられる。宮口村の助郷免除の嘆願の2年後に庄屋は没している。その息子は16歳程で庄屋を命ぜられた。
 注:「一向実法不申村相続之難出来ニ付・・」・・一向に実らずと申し、村民が生活が出来ず相続も難かしくなった という訴えは、前後の社会の様子から推測し想像に難くない。このときの庄屋の年齢は不明であるが、妻は三十三歳前後。
  
(年齢は、後年、庄屋の孫・綱平が書き残した累代の記録から、母親の死亡時の年齢が判明したため、それらの記録から推計した。)
 15年前には「鴨の騒動」があった。「鴨の騒動」の2年後に、1月幡豆郡寺津村で助郷役免除を嘆願(平地山騒動)。
 相応の覚悟をして陳情に及んだと思われる。       ・・・管理人
  江戸時代に陸の主要通路として東海道・中山道・奥羽街道・日光街道の五街道が開かれ、その宿駅には特定の人馬が常備されて幕府の公用旅行者または特権旅行者の用に供された。しかし、この常備の人馬では不足する場合が多かったので政府は附近の村々から石高に応じて一定数の人馬を徴発してこれを援助させた。この援助をすること或いは援助を命ぜられた郷村を助郷といった。徴発される人馬に対しては御定賃金が支払われたが、それは助郷から宿場までの往復については何らの報酬もなく、宿場から次の宿場までの賃金に過ぎなかったし、はなはだしい時には無賃の場合さえあった。
         
 昔のことであるから旅行は季候のよい春秋が多かったであろう。然しそれは農民とっては最も重要な農繁期である。人馬が出なければその代わりに金を出した助郷に支払われる公定賃金は非常に安いのでその差額は村で負担しなければならなかった。而も次代が下るにともなって街道の交通ははげしくなったので、助郷人足の数もうなぎ上りに上昇した。従って農民の迷惑は想像以上であり、江戸時代の街道近くの村財政に於いて助郷の費用は非常に大きな部分を占めていたと思われる。
        「松平広報 ・・文化財めぐり」 昭和44年12月以降  宇野鎮夫氏 より
  アンリ・ポアンカレ(1851〜1912)生まれる。 ・・・・物理学や哲学などあらゆる学問をマスターし、レオナルド・ダ・ヴィンチやニュートンに並ぶ「知の巨人」と称えられた人物 
1852  嘉永    壬  子  九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠     7月京都暴風雨諸国被害多し。開国・尊皇攘夷運動・討幕  6/九久平簗場の松生島弁財天に石灯籠(一部新しい)。7/21翌日にかけて大風雨。8/16大雨。8/22大風(矢作川)。8/8碧海郡天白地内矢作堤破壊。幡豆郡高落地内でも決壊。(矢作川)。  2/武蔵大森の大砲演習場完成。 5月江戸城西丸全焼。明治天皇誕生。8/蘭商館長、米国船来航計画を告げ、鎖国の危険を説く。
  トルストイ(24歳)、『幼年時代』が雑誌『現代人』発表され、新進作家として注目を集める。 
1853  嘉永 6 家祥 日本開国の序曲
 黒船来航

関東地震。
 桂野用水路完工。(「松平町誌」) 
 
江戸髪結いの転業を教諭。6/ペリー、艦隊を率いて浦賀に来航。 江戸幕府は、国書を受領しただけ。 7/ロシア使節プチャーチン、日本との条約締結の特命を受けて長崎に来航。琉球王府をも訪問。    幕府ジョン万次郎を登用。   このころ幕府への不信が高まっていた。幕府には、日本を任せられないとの二大勢力があった。=長州藩・薩摩藩。時代を握る主導権争いから対立していた。 幕末危機。  歌川広重  武芸・江戸町道場。
クリミア戦争1853-1856      18世紀以降衰退の一途を辿るオスマン帝国の状況に乗じて、長年、悲願だった不凍港を得るためにロシアが南下政策を決断1853年にクリミア戦争を開始。オスマン帝国側をイギリス、フランスが支援し、劣勢になったロシアは平和交渉の末、1856年パリ条約を締結。クリミア戦争、後の露土戦争と、二度にわたりロシアと戦ったオスマン帝国は退潮。勢力図が大きく変わり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる火種がバルカン半島に生まれた。
1854 安政 1 家定 安政東海地震(M7.3)伊賀・伊勢・大和。滝脇町西洞31の長松院古井戸の前に井水神。九久平町粟の谷下の、水道中継所北東に、馬頭観音。大内町宮脇の大内神社に石灯籠     

日章旗を日本国総船印に制定
 滝脇町西洞31の長松院古井戸の前に井水神(自然石)。九久平町粟の谷下の、水道中継所北東に、馬頭観音(舟型立像)。8/大内町宮脇の大内神社に石灯籠『奉献 八○大明神』。  11/4、5地震による津波、吉田をはじめ被害甚大。矢作川堤防裂ける。  11/本居宣長の実子(大平)の養子、本居内遠、江戸の紀州藩邸での国学講話の途中、名古屋の植松茂岳邸に立ち寄り、二人で「吾が党の人」について論じる。この中に「大和魂」という言葉が出る。  1/ペリー、再び来航。 3/日米和親条約(神奈川条約)。その帰り道、ペリーは琉球に立ち寄り、琉・米修好条約締結・7月・・・その後、琉球王国は、フランス、オランダとも同様な条約を締結)
  「日米和親条約」での取り決め・・(伊豆下田松前地・箱館港開港)
 ○アメリカ領事の駐在  ○アメリカに燃料食糧などの供給(「薪・水・食料・石炭の欠乏・・云々」)
 ○難破したアメリカ船員の救助 など、アメリカに対し一方的な最恵国待遇を求めた。(不平等条約)
                           ********************
  第九ケ条 
 一 日本政府、外国人え、
    当節亜墨利加
(アメリカ)人え差免(さしゆる)さす候廉(かど)  相免(あいゆる)し候節は、亜墨利加人えも
    同様差免
(どうよう さしゆる)し可申(もうすべく)
    右に付談判猶予不致候事。
(みぎにつき だんぱんゆうよいたさずそうろうこと)
 @ 領事裁判権の規定・・・日本で罪を犯した外国人を日本側が裁けない。
 A 関税自主権の欠如・・・関税率を日本の意志で上げられない。
 B 一方的な最恵国待遇・・・日本が相手国に与えるだけの条約。
   当時、東北地方の三陸沖を含めた当時の北大平洋は鯨の宝庫であった。年間300隻を超えるアメリカの捕鯨船が活動していた。そこで、アメリカは日本を補給基地に求めたかったのであった。
                 ****************************
 3/吉田松陰、下田で米艦に密航を求める。・・が拒絶される。 
 6/福井地震。7/日英親和条約。7/幕府、日章旗を日本国総船印に制定。11月諸国地震被害多大。 12/日露和親条約締結。条約の内容は、千島列島については、ウルップ島とエトロフ島のあいだに国境を引く。樺太については特に国境を定めないことにした。その後、ロシアとのあいだに、国境を巡って紛争が多発する。幕府には、「もはや樺太は放棄しようではないか」と言う声も出てきた。幕府は、これに対して榎本武揚(たけあき)を全権大使に任命。ロシアに派遣。
 上野
(こうずけ)・陸中等で打ち壊し・強訴多発。
1855 安政 2 安政南海地震(M7)。
10/2江戸大地震。
 林添町寺脇・晴暗寺西に馬頭観音(舟形立像)。  2/尾張藩、米穂の他所積み出し禁ず。7/26この日より二日間大雨。細川堤切れる(矢作川)。7/29矢作川洪水(1丈8尺)、堤8カ所、その他各所に破堤。田畑水腐。救助のために粥を下す。家屋4軒流失、本漬19戸半漬3軒、その他66軒浸水(郡誌)。8/20村々大風雨。漬家5軒、半漬12軒。矢作川堤防8カ所決壊。倒木66本(藩史)。これにより高潮で伊勢湾沿岸の干拓新田堤防91か所破壊される。10/2江戸大地震。激しい揺れと火災で、死者およそ7,000人。11/尾張藩、他所米の移入を禁ず。  12/日蘭親和条約。幕府、洋学所を設置。
1856 安政 3 8月東海東山諸国暴風雨。  4/26大風雨。矢作川大洪水(岡崎市史)。4/松平東照宮に石灯籠『奉献 市杵島神社前(弁財天)』   外人に牛肉を許す。足軽の飯島良平母の仇を討つ・幕府士籍に列す。7/総領事ハリス、下田に着任。幕府に対して「日米修好通商条約」の締結を求める(58年に条約に調印)。 吉田松陰、松下村塾を開く。二宮尊徳没。
1857 安政 4 駿河静岡地震(M6.3)。  松平町大西・長福寺墓地に念仏塔(角柱)『岡崎宿伝馬町 大阪屋藤吉』  6/13名古屋城下の八百屋商人、下小田井青物問屋 を押さえフゴ荷商人を支配する。9/2田原藩建造の洋式船順応丸進水。以後、江戸・田原間を往復。11/13下小田井青物問屋、再興を許可される。 この年、田原藩の様式船順応丸完成し、江戸ー田原間を往復する。  江戸風邪流行。4/幕府、軍艦教授所設立。5/ハリスと下田条約。10/ハリス、通商開始を要求。 幕府は、ロシアと通商条約を結ぶ。しかし、アイヌの反発が強かった松前藩には、蝦夷が、ロシアに靡くことを恐れて、これを任せることが出来なかった。幕府は、アイヌに対して和風化政策を行って、丁髷を結わせたり、アイヌ特有の髭をそり落とさせたりする。
1858 安政 5 家茂 東海その他地震。





安政の五カ国条約
 9/松平兵部少輔源朝臣乗謨(三河奥殿藩の第8代藩主のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代。)、六所神社の本宮(上宮)に・吉木宮御本社一宇寄進(同集落郷倉の棟札)
 4/井伊直弼、大老となる。6/19日米修好通商条約調印。
○ 日米修好通称条約 の主な内容 ○  ・・・ 不平等な条約
 1  神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪開市  後に、神奈川は横浜に、兵庫は長崎に変更
 2  自由貿易の開始  幕府が関与しないで、商人が自由に取引
 3  開港場に居留地を設け、外国人の内地旅行
を制限
 両国間のトラブルを配慮して幕府側が強く要求
 領事裁判権の規定  日本在住のアメリカ人については、アメリカ領事が裁く
5   関税自主権の欠如 関税率は通常日本の幕府が定めることができるものであるが、関税を取り決めるに当たって、アメリカ領事と協議をしなければならない。
 しかし、輸入関税は平均20% 。アヘンの輸入は禁止などを取り決めた。
 ☆条約のために直前に設置された外国奉行・・・ 井上清直・堀利熙(としひろ)・岩瀬忠震(ただなり)  水野忠徳・永井尚志(ながゆき)
  
井上清直・岩瀬忠震が、ハリスとの交渉に臨んだ。外交・経済のスペシャリストであったが、国際法を理解してはいなかった。
 ハリスに促された格好で、調印を急ぎ、天皇の承認を得ないままに執り行われた。尾張藩の藩論を二分した。これを不可とする尾張藩主徳川慶勝、大老井伊直弼等により謹慎。安政の大獄(〜59)。 7/蘭・露・英と調印。9/仏と調印。・・「安政の五カ国条約」 8〜9月江戸コレラ大流行(2.8万人死亡)。11月江戸大火。福沢諭吉、蘭学塾を開く。 大原幽学没。  薩摩藩に海軍所。
  チャールズ・ダーウィン「進化論」を学会に発表。
チャールズ・ダーウィンの焦り
 彼には、アルフレッド・ウォーレスから来たダーウィン宛の手紙に、先を越されそうな危機感があった。アルフレッド・ウォーレス(1823〜1912)、動物採集家の発見と進化論の直感が記載された手紙であった。
 彼は、ウォーレスに無断で「自然選択説」を取り入れた。発表者は、ダーウィンとウォーレス。
 自分の名前を先に記した。
 インド、ムガル帝国を滅ぼされて、イギリスの植民地となる。最後の皇帝は、バハードゥル・シャー二世(1775〜1862)ムガル帝国第17代皇帝。
1859  安政    坂上町的場・豊栄神社南東に馬頭観音  宮口(豊田市坂上町)・郷倉の竃(現在、五平餅作りに使用)この年に作成・鋳造。 9/20坂上町的場・豊栄神社南東(県道沿い)に馬頭観音(舟形立像)。江戸大火。オランダ船品川に初めて来航。5/神奈川・長崎・箱舘の3港で貿易を開始。7月コレラ流行、米価高騰。10/吉田松陰(松下村塾、荘孟の思想)29才で刑死。  佐藤一斎(1772〜1859)没。門下には、佐久間象山、安積(あさか)艮斎(ごんさい)、大橋訥庵(とつあん)、横井小楠、中村正直などがある。(象山の門下から勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰、小林虎三郎などの志士が輩出した。また、吉田松陰の門下からは高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)などが輩出して、輝かしい明治維新を形成することとなる。) 
 ダーウインの「種の起源」出版。
 ドイツの天才数学者・リーマン予想(1859年)。・・「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるはずだ。」・・これが証明されると、不規則に存在する素数に、理想的で完全な調和が存在することを証明することを意味する。   注:その後、1972年、このゼロ点とゼロ点の間隔が、原子核のエネルギーの間隔との間に緊密な共通性があることが解った。バラバラにしか見えない素数の並びに隠された大いなる意味は、万物の理論・いわば想像主による宇宙の設計図かも知れない。
1860 万延  討幕運動


 桜田門外変

尊皇攘夷運動
 5/洪水。小栗新田では堤防流失し一面海となる(挙母市資料)。5/12大風雨。矢作川洪水(1丈9尺)市中浸水(高9尺・低1尺6分)救船で立ち退き。漬家109軒、倒木138本、家屋浸水243軒(藩史)。5/17大風雨。矢作川洪水。挙母村浸水(郡誌)。 11/設楽郡川合村で米商人排斥運動おこる。 6/日米修好通商条約に基づき、横浜(輸出額の8割、輸入額の5割以上が取引される、もともと人口四百人に満たない小さな村であったが、国内用・国際用の二つの桟橋が新たに増設。外国の商館も次々と立てられた。10年後には、人口2万を超えた。)・長崎・箱館が開港。
     ☆ 五品江戸回送令(1860)  
 雑穀、水油,ロウ、呉服、糸の五品目は必ず江戸の問屋を経由
(江戸問屋の保護と価格高騰の抑制)
 諸外国からの圧力と地方商人の反発により不徹底。
また、日本から大量の金が、小判の形で流出した。
・・・次第に国内での品薄と物価高騰に依る経済混乱が起こることになる。 
 関東地方の浮浪人取り締まりをず。高知山藩に一揆(1.8万)。 3/24桜田門外の変。井伊直弼、森五六郎の所持した鉄砲と、一団に襲われる。拳銃は7年前に日本を訪れたペリーが持ってきた物(20丁)のコピーであった。水戸藩が製造させた物。井伊直弼は開国を急ぐ。1858年には日米修好通商条約を独断で調印。尊皇攘夷を主張する徳川斉昭(なりあき)とは意見が異なっていた。森五六郎、獄中で句を遺す。「いたずらに 散る桜とや 言ひなまし 花の心を 人は知らずて」。 最後まで、誰も指示者の名前を明かさなかった。   武術・江戸町道場から、講武所に変わる。
1861  文久 1 鍋田町ヒカゲの旧曲がり神明社跡に地蔵菩薩  8/21大雨洪水。(岡崎市史)。10/5・6大平川満水。仮橋流失(岡崎市史)。 鍋田町ヒカゲの旧曲がり神明社跡に地蔵菩薩(舟型座像)。   4/第一次東禅寺事件。5月水戸浪士イギリス公使館を襲う。10月種痘所を西洋医学所と改称。12/遣欧使節出発。福沢諭吉、遣欧使節に随行。
アメリカ南北戦争
1861-1865     
  商工業を中心に保護貿易政策をとるアメリカ北部と、綿花栽培の大規模農場を中心に自由貿易政策をとる南部の戦い。1861年に奴隷制の廃止を唱える共和党のリンカーンが大統領に就任すると、奴隷制無しでは産業が成り立たない南部の諸州はアメリカ合衆国から離脱。アメリカ連合国を結成し、1861年北部連邦政府と南部連合は全面戦争へと突入。1863年リンカーンは戦争目的を「奴隷解放」と明文化。北軍は「民主主義」の名の下に、前線の敵のみならず、南部の鉄道網、工場、商店、農地など戦闘を支える銃後の産業や生活も破壊し尽くした。死者は,両軍で62万人。従来、戦争においても,民間人への攻撃は騎士道精神に反すること、また戦後の平和的和解の妨げに繋がるため避けられてきたが、第一次大戦での無制限潜水艦攻撃や第二次大戦の原爆投下など、南北戦争以降、顕著に観られる。
1862  文久    壬  戌  3/坂本龍馬脱藩。故郷をでる龍馬「日本を今一度せんたくいたしもうし候」と手紙。  7/26大雨、屋敷一円浸水。菅生川は格段に水多し(矢作川)。8/六所神社本宮・上宮に鳥居寄進:奥殿城主第8代松平乗謨(のりかた:松平乗利の長男)・(同集落郷倉の棟札)。 天白・高落西浅井破堤(西尾市史)。
 1月江戸火災多し。1/坂下門外の変。3/24坂本龍馬脱藩。故郷をでる。
 龍馬28歳「日本を今一度せんたくいたしもうし候」と手紙。江戸に向かう。勝海舟(「天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり ・・・云々」龍馬、翌年、姉宛に手紙に書く。末尾には「エヘン エヘン」と、得意げに書いている。)とであう。 勝海舟の計らいで、脱藩を許される。
 神戸市南部、現在の神戸港のすぐ近くに、海軍操練所を作った。欧米に遜色ない海軍の創設を考えた。幕府の家臣・旗本だけではなく、脱藩した浪人も含め広く諸藩から訓練生を募った。訓練生はおよそ150人。そのような勝海舟に対して、龍馬は益々心酔した。
 当時の施設規模は明かである。敷地は1万7千坪以上。<当時の海軍操練所の絵図は、神戸市立博物館蔵>
 4/伏見寺田屋事件。4月以降麻疹流行。4/第二次東禅寺事件。8/生麦事件(幕府に幕政改革を行わせた津島久光一行は江戸からの帰途、神奈川の近郊生麦村(横浜市鶴見区)で、騎馬の英人と出会った際薩摩藩士が行列に対し無礼があったとして商人リチャードソンを殺害、他の2人に重傷を負わせる。英は薩摩藩に謝罪と犯人処罰・償金支払いを求め、幕府は10万ポンド払ったが、薩摩藩は拒否。翌年、薩英戦争後薩摩謝罪。罰金を支払ったが結局、犯人を処罰しなかった。)。12/英国公使館焼き討ち。 京都無頼の輩横行。江戸市中浪人徘徊し辻斬り、豪商を略奪。

 トルストイ(34歳)18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定める。夫婦の間には9男3女が生まれた。
 ルイ・パスツール(1822〜1895):生命の自然発生の否定。 

1863 文久 3 龍馬:幕臣・勝海舟の塾で蒸気船の航海術・語学を学ぶ。  9/15大和天誅組の乱。旧刈谷藩士松本奎堂、大和天誅組の中心人物として死す。奥殿藩主松平乗謨、信濃国佐久郡田野口村に居城を移す(竜岡藩)。奥殿藩廃す。  6月江戸大火。二の丸焼失。6/長州藩、高杉晋作ら騎兵隊編成。7/薩英戦争。8/8月18日の政変。七卿長州へ。8/天誅組の変。10/生野の変。大阪大火。
1864  元治      甲  子  坂上町小坂23-3日箇出神社に石灯籠


  8月関東暴風雨水害多い。
 6/坂上町小坂23-3日箇出神社に石灯籠『秋葉山』 
 3/天狗党の乱。6/池田屋事件。7/禁門の変(薩摩藩と長州藩京都で激突)。これに勝海舟の海軍塾の塾生も関与したとされて、塾閉鎖さる。坂本龍馬行き場を失う。この龍馬に、薩摩藩の西郷隆盛が目を付ける。龍馬は、薩・長が手を結べば強力な勢力となるに違いないと判断する。しかし、禁門の変によって龍馬が想像する以上に、両藩は険悪な関係となっていた。龍馬、隆盛に懇願し長州の桂小五郎との会談を約束させる、が、隆盛は来ず、薩・長の溝はますます深まる。  第一次長州征討命令。
公武合体 天皇・公家(朝廷)の伝統的権威と武家(幕府又は雄藩)を結びつけて崩れゆく幕藩体制の立て直しを図ろうとする考え方 ・・・薩摩藩(島津家)  幕府と対立 ・薩長同盟・

66年に合体し

開国・倒幕路線 
尊皇攘夷 天皇を尊び、天皇の許可を得ず通商条約に調印した幕府の国内専制および対外政策(開国)を批判し、外国を排除する考え方 ・・・長州藩(毛利家) 攘夷は不可能であることを認識 
 8/四国(英・仏・米・蘭)連合艦隊、下関を砲撃。 8月江戸辻斬り止み静穏。佐久間象山暗殺さる。10/長州藩下関を占拠され謝罪。10/徳川慶勝、幕府の長州討伐軍総督に任ぜられる(第1次)。本多忠寛、旗本より天狗党追い打ちの功により西端藩1.5万石を領す。江戸と周辺、貿易商に対する略奪・殺傷・放火・脅迫多し。11/三河諸藩、水戸天狗党の南下に備え、大阪の陣以来250年ぶりに将軍の命により警備体勢(臨戦態勢)を取る。これにより、岡崎、挙母、刈谷、西尾、西大平、田原の各藩が出兵。       12/高杉晋作ら挙兵。  新島襄、米国に向けて脱国。
    トルストイ、世界文学史上に残る傑作『戦争と平和』(1864-69)と『アンナ・カレーニナ』(1873-77)である。
 前者はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物がリアリズムの手法によってみな鮮やかに描き出されている。
 後者は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、前者に比べより調和に富み、構成も緊密である。
 一方『アンナ・カレーニナ』の執筆とほぼ並行して、初等教育の教科書作成にも力を注いでいる。 
1865 孝明・明治  慶応 1  2/額田郡細川、仁木の両村碧海郡配津村との渡船停止を求め、9月和睦(岡崎市史)。4/奥殿藩・松平兵部少輔源朝臣乗謨のとき、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5/17岡崎洪水(矢作川)。 9/幕府、横須賀製鉄所起工式。10/紅葉屋事件。  坂本龍馬:長崎に行き貿易商から武器を購入し薩摩藩に渡し、その代わりに薩摩から長州に米を購入しようとする。(幕府に目を付けられていた薩摩藩は、長崎で武器購入が困難であった)  長崎、大浦天主堂完成。  リンカーン暗殺。
1866 慶応 2 慶喜 風水害で、諸国凶作、米価高騰。  5/7/8/霜害・風水害重なる。(「松平町誌」) 7/1岡崎、大風雨にてにわかに増水し床下へ3寸程入水(矢作川)。8/6昨夜より雨。床上浸水。前代未聞の洪水(矢作川)。8/7矢作川洪水、挙母城内各所破損。田畑に被害。(梅坪村組合7カ村年中御用留)。  11/2岡崎藩の碧海郡用悪水路計画に福島・刈谷藩領民の反対が激化、碧海郡神楽山で一揆。実地検分中の幕府役人を襲撃する。  凶作による米価高騰により外米輸入を自由とする。各地に一揆・打ち壊し多発(この年、江戸時代最多を記録)。外国との貿易が増えて国内の経済が混乱。
 1/8坂本龍馬の斡旋により、桂小五郎・西郷隆盛会談の場を持つが、両者面子に拘って同盟の話を持ち出せない。先に話を出した方が不利になると判断する。それを知った龍馬は、桂に問いただす。次いで、西郷のもとに行って、「幕府軍に追いつめられた長州に、高圧的な態度ででれば対等な和解など出来るものではない。」と促す。 1/21西郷は、薩摩側から桂に同盟を申し出る。幕府が長州を攻めたときに、薩摩が長州を援護する旨の薩・長同盟成立。 
  ※ 薩長同盟の内容は、桂小五郎宛に坂本龍馬から送られた ※
 「戦局がいかなる場合も薩摩は長州の援護をする。薩長は力を合わせ天皇の権威回復に尽力する。
 幕府や会津藩が強硬な姿勢をとる際は決戦に及ぶ 云々 」

 手紙の裏に坂本龍馬は朱書きをして、次のように書いて署名(坂本龍)をした。
 「西(西郷)老兄(桂)龍等も御同席にて談論せし所にて、毛(すこし)も相違無之候 云々」
         ********************
 (西郷・桂と同席して話し合った内容であり、少しも相違ない。 云々)
  この同盟は、幕府にとっては由々しき事態であった。京都守護職は、坂本龍馬の不穏な動きを察知していた。1/6寺田屋に居る龍馬(32才)を、伏見奉行所は包囲する。
 AM2:00襲撃。龍馬は高杉晋作から渡されたピストルを五発撃って、逃げ延びる。近くの材木小屋に隠れる。近くの薩摩藩に救出された。
 最後の琉球王国・尚泰の冊封。中国から客を招いて盛大に行った。
1867  慶応    丁  卯  大久保利通・・文明開化・明治維新    


林添町下清水の戸井田橋南に、馬頭観音。

松平町稲葉下の稲荷社に旗立石
 林添町下清水の戸井田橋南に、馬頭観音(舟型立像)。松平町稲葉下の稲荷社に旗立石(角柱)、現在拝殿前の石段として利用。
  7/14・15吉田藩内、渥美郡牟呂村で、近在の御鍬祭りが流行り、この村も準備している所に三枚の御礼が降り騒ぎがおこる。
 2弥日間に限って正月のようにお祭りをすることに宮司と庄屋が決定。しかし、祭り騒ぎはそれだけでは収まらなかった。村中そろって踊り狂い口々に「三百年は大豊年」と、昔の歌を歌い途中で餅や饅頭を投げ、我を忘れた手踊り、手ぬぐいふんどし姿の子供連の手踊り。
 こうして「ええじゃないか騒動」は始まった。
 続いて、吉田宿のお札降り、7/24藤川、8/4御油宿、8/26岡崎城下投
(なぐり)町、9/3〜12/本宿村、9/13〜12/20頃挙母・飯野村(西加茂郡藤岡村)乙ケ林村(小原村)、9/15から刈谷で2〜3ヶ月間、10/10〜坂崎村(額田郡幸田町) 10/26〜荻原村へと・・・・。 翌年にかけて各地に広がり「ええじゃないか」騒ぎ。東海道・中山道をに沿って東西に広がり、翌年三月頃まで。 
  6/幕府は長州藩を攻める。長州藩は薩摩藩名義で購入した武器で迎え撃つ。薩摩藩は、幕府からの出兵の要請を断り、同盟を守った。やがて幕府軍は長州軍に惨敗。地方の一つの藩に敗れた幕府の権威は大きく失墜。
  12/大政奉還・王政復古の大号令。
 西郷隆盛(薩摩藩)、岩倉具視(公卿)、木戸孝允(長州藩)の、朝廷への働きかけであった。
 ○幕府等の廃絶し、十五代将軍・徳川慶喜
(1837〜1913)に官位辞退と領地返上を命じる厳しい要求。
 △既に、朝廷に政権を返上することを申し出ていた徳川慶喜は、これに反発。
  伊勢亀山一揆。坂本竜馬、中岡京都で暗殺さる。樺太へ移民開拓許可。高杉晋作(松下村塾出身)29才没。
 10/14徳川慶喜、大政奉還。11/坂本龍馬(大政奉還進言、薩長同盟仲介)33才暗殺。12/京都に有力諸藩と朝廷が合体した新政府が誕生。大久保利通(薩摩藩):天皇を中心とした近代化を主張。天皇が直接国政を行う西洋式君主国家を主張した。
 しかし、このとき明治天皇は17歳。御所を一歩も出ることなく育てられていた。天皇の側近たちは、幕府から実権を奪ったことに満足し、天皇が直接政治を行う意見には消極的であった。大久保達は、大阪に遷都をして天皇を公家から引き離すことを考えた。公家達は激怒して「薩摩の陰謀」と、反対した。 そこで、治安が悪化して乱れている大阪に行幸する案を、新しい考えを持つ公家の岩倉具視を通じて持ち出した。この行幸案には保守派の公家達も反対する理由は見つからなかった。
   
 マルクス「資本論」第1巻
1868 明治 明治 1 大政奉還(政治の役割を幕府から朝廷に戻す)、明治維新。

 廃藩置県

神仏分離令発布

神戸事件
 4/三河国裁判所が豊橋問屋町の吉田宿・悟真寺内に設置される。6/裁判所廃止。三河県を置き県庁を赤坂に置く。8/伊那県が設置(〜1871.12.31))され、加茂郡の大部分をその管轄下に入れる。(「松平町誌」) 
 
1/20青松葉事件おきる。尾張藩の重臣で佐幕派の渡辺新左衛門等3人、朝命によって斬首、他14人処刑される。東海道・東山道諸国に勤王誘引の使者を派遣。1/24成瀬正肥、犬山藩3.5万石、竹腰正旧、美濃今尾藩3万石が成立。2/8刈谷藩勤王派が家老津田新重郎等を斬り、藩論を統一する。3/五箇条の誓文4/政体書(太政官制発足)。4/3安部信発、武蔵岡部より半原藩2万石を領す。4/29吉田に行政官庁三河裁判所が設置され、三河・駿河・遠江の旧幕僚を管理する。5/13長雨で矢作川増水。5/17入鹿池堤決壊する。死者941人、浸水11,709戸、被害町村133カ所、流没田畑8,480町歩あまりに及ぶ。6/9宝飯郡赤坂に三河県庁設置、三河裁判所は廃止。7/江戸を東京と改称。8/2信州伊那県は足助支庁を置き、三河の一部を管轄下に置く。8/24矢作川増水で城下 七町の田畑冠水。本町庄屋岡田庄三郎より藩役所に提出(竹生町若子家文書)。9/4徳川亀之助、三河の旧幕領・旗本領11万6.000余石を含む76万石を与えられる。9/5矢作川大水。挙母城下四町被害。被害届出される(竹生町若子家文書)。    一揆:丸亀・薩州、岩村田松江、新発田。4月阿片の喫煙を禁止。12月三河幡豆に一揆。
  1/昨年の大政奉還・王政復古の号令に対して反発した徳川慶喜は、大阪城から京都に進軍:鳥羽伏見の戦い。ここで薩摩長州を中心とする新政府軍に敗れる。新政府軍は江戸に向かった。
 1/11外国人の目から見ると、日本は無政府状態に見えた。日本各地で戦いが起き、外国人達は神戸に避難し、艦船も神戸に来ていた。ここを備前藩治めた。。この備前藩の行列を、フランス兵士が横切ろうとした。これを槍で威嚇したら、フランス兵士は驚いてピストルを構える。武家社会の慣例ではフランス兵の行動は無礼であった。外国人達は、これを攘夷行為とみて激怒し、神戸事件の発端となった。列強は、この日の内に神戸の中心部を占領した。事件該当者の身柄引き渡しを要求。京都の新政府は非常な危機感を覚えた。1/15 瀬戸際の外交交渉。イギリス(パークス)、フランス、アメリカ等6カ国の公使と日本は、イギリス・フランスでおよそ1年間、法制度や経済を学んだ寺島宗則(薩摩藩)と、イギリスで学んだ伊藤博文(長州)を含めた留学経験者だった。共通ルールとして、「万国公法」に基づいた。2/2備前藩は、責任者の処罰を受け入れる。一週間後に責任者を切腹させた。
 3/21明治天皇大阪行幸。
 輿に乗って民衆の中にでる。海の広さは今までの天皇の見たことのない景色であった。 
 4/9大久保利通、明治天皇に召し出される。一介の武士が天皇に直接面会するのは異例のことであった。4/11江戸城無血開城。
 これによって新政府は東日本も(全国)統治する必要性に迫られる。再度、今度は江戸への遷都論が浮上する。江戸は近代化への条件がそろっていた。
 周囲の反発をかわすために、大久保達は”江戸への行幸”であることを強調する。 
 9/20「明治」と変わった直後、明治天皇は総勢3300人の大行列を従えて、京都を出発。稲刈り、地引き網を展覧。菊の紋章のついた饅頭を配布。 10/13江戸城を皇居と定める。・・都は、事実上京都から東京へ移った。「江戸」は「東京」と改められる。
 大久保はこう書き記す。「千載一時の成典歓喜言うべからず」  
  明治新政府、「五榜の掲示」:全国に「切支丹・キリスト教は邪宗門である」という太政官の定め書き(これは諸外国から強い抗議を受け、1873年に撤去)。 長崎、浦上でキリシタンを弾圧。  神仏分離令発布。
   明治政府が維新早々に打ち出した宗教政策は、「廃仏毀釈令」ではなく、「神仏分離令」だった”寺破壊して仏教を捨てよ」”との命令ではなかった。革命政権である維新の明治政府は天皇を支柱とする国民国家を目指した。その支柱たる天皇の絶対に侵されるべきでない存在意義を、皇室の宗廟たる伊勢神宮を最高にした神道に求めた。そのため、明治維新政府は国教をそれまでの仏教より神道に変えることにした。
 江戸時代まで仏教と神道は神仏習合・神仏混淆
(しんぶつこんこう)で、どちらが上かといえば仏教(寺)だった。神社の中にお寺が存在した。革命政権である維新の明治政府は天皇を支柱とする国民国家を目指し、その支柱たる天皇絶対に侵されるべきではない存在意義を皇室の宗廟たる伊勢神宮を最高にした神道に求めた。
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 仏教伝来以来、神道
(しんとう)は1000年余にわたって徐々に仏教と習合し、長らく神仏習合(神仏混淆(こんこう)の時代が続いた。近世になると儒学や国学の排仏思想によって、神道から仏教色を排除する動きが出現し、水戸藩(茨城県)や岡山藩、会津藩(福島県)で地域的な神仏分離が行われた。この排仏意識は幕末に至っていっそう強まり、水戸藩や薩摩(さつま)藩(鹿児島県)では過激な寺院整理が行われた。また石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)藩でも最後の藩主亀井茲監(これみ)によって独自の神社・寺院改革が行われ、維新政府の宗教政策の青写真となった。
 維新政府は神祇官
(じんぎかん)を再興して祭政一致の制度を実現しようと、この津和野藩藩主亀井茲監や福羽美静(ふくばびせい)、大国隆正(おおくにたかまさ)を登用し、最初の宗教政策ともいえる神仏分離を全国的に展開させた。まず1868年(慶応4)3月17日、神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形(そうぎょう)の別当(べっとう)・社僧に復飾(還俗(げんぞく))を命じ、ついで28日太政官(だじょうかん)は神仏分離令(神仏判然令)を発して、 (1)権現(ごんげん)などの仏語を神号とする神社の調査、 (2)仏像を神体とすることの禁止、を全国に布告した。これ以後全国の神仏混淆神社から仏教色がすべて排除されるが、近江(おうみ)(滋賀県)日吉(ひえ)山王社のように過激な神仏分離が多発したので、太政官は同年4月10日には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じた。しかし、政府の威令がいまだ行き届かず、苗木(なえぎ)藩(岐阜県)や富山藩などの各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏棄釈(きしゃく)とよばれる事態が1874年(明治7)ごろまで続いた。[阪本是丸]
『安丸良夫著『神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)  日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より

 近藤勇刑死(34才)。「宮さん宮さん・・・・」の旋律、「トコトンヤレ節」として流行。
1869 明治 2 人力車創案(1870年営業)・尾張藩を名古屋藩と改称  渋沢栄一  飯田他に一揆。1/板倉氏重原藩主となり、加茂31か村を管轄する。 6/17尾張藩を名古屋藩と改称し、藩知事を置く。6/24三河県廃止、伊那県足助支庁の管轄へ。7/12矢作川大水。工事中の渡場・堤防筋破損(挙母内藤文書)。9/藩校設立:岡崎・允文館、半原藩:学聚館、重原藩:養正館、西端藩校。12/20中島郡稲葉宿で農民決起し、村総代を襲い、中島郡・海東郡一体へ拡大。畑村藩、野村藩となる。諸道の関所廃止。
   1/版籍奉還の申し出
 新政府が、薩摩、長州、土佐、肥前の藩主(倒幕の中心勢力)に対して、「すべての土地・人民は天皇のものであり、私有するべき物ではない・・云々」と通告。しかし、「与うべきは与え・・」の一文に対して、実質的な領土所有権は守られると理解して有力藩主は申し出た。有力藩のこうした動きに、他の260あまりの藩もなだれ的に奉還を申し出た。
 その後、各藩の知藩事にはそれまでの藩主が任命された。藩収入の1割は知藩事に与えられた。これによって・・・
 ○旧来の藩主(大名)と家臣の主従関係を解消   ○知藩事(藩主)の地位は非世襲の地方行政官
 ○藩主の領主権は否定、藩領は府県と同じ「管轄地」  ○知藩事の家禄は藩庁の経費と分離など
 上記の版籍奉還の意義があったとされる。 
 2/造幣局設置。東京都、風俗矯正布達。全国に世直し騒動。 乗合馬車開始。 5/函館・五稜郭陥落。・・戊辰戦争の終結。
 江戸城が皇居と定められて、旧幕府の海軍副総裁だった、榎本武揚(たけあき)等が、幕府艦隊を率いて蝦夷地に向かい、函館の五稜郭を占領。、独自の政権を樹立しようとした。しかし、新政府の圧倒的な軍事力の前に屈した。戊辰戦争の終結。・・・新政府ができていたのにもかかわらず、幕府側の勢力は1年半も抵抗していたことになる。 
 7/ 外務省を置く。8/蝦夷地を北海道と改称。 渋沢栄一日本初の銀行設立計画に参加する。「国立銀行条例」起草。いつでも金と交換できるものとし、紙幣の信用を高めようとした。
 それ以前は、北海道は「蝦夷が島」と呼ばれていた。アイヌモシリと呼ばれ、蝦夷地は文字通りアイヌの人々の生活の舞台であった。
 以来、本州の人々が、北海道に開拓に入った(「北海道開拓使」本庁舎建設。毎年10万円の予算が10年間投入。)欧米から、技術者や知識人が集められた。この頃、札幌農学校の初代教頭を務めたウィリアム・スミス・クラーク(1826〜1886)は有名。 アイヌの人々は、藩の同化政策によって、アイヌの独自性を奪われていった。アイヌの人々は、元々、北海道・樺太・千島列島に居住し、固有の言語を持っていた。江戸幕府から見ると、蝦夷地は「異域」と呼ばれて、外国と見なされていた。
 松前藩は、北海道南西部(今の函館)を拠点としていた。
  公卿・諸侯を華族、藩士・幕臣を士族・卒、町人・農民を平民に改称。 新潟・仙台に一揆。 人力車創案(1870年営業)。  
 マハトマ・ガンディー、地方の政治家の家に誕生する。後に、ガンディー、幼児婚という習慣で、13才で結婚する。 スエズ運河開通。
1870  明治 3 巴川に港橋架設。

   
大教宣布「神道国教化の詔」
 4/「名古屋」と名称を統一。6/名古屋藩洋裁学校が開校。11/伊那県足助支庁管下の三河新城を中心に、年貢減免を求めて一揆(簑着騒動)。
 四、五年来の遺作続きに村々が名古屋藩清洲邑宰所(ゆうさいしょ)に救米願書を提出し却下されたことから始まる。
 12/20稲葉宿禅源寺の鐘がうち鳴らされると、村々で鐘・太鼓が鳴り、蓑をまとい5〜6尺ほどの竹を手に持ち、たいまつ代わりに大根切り干しのスダレを巻いて火をつけ、鬨の声を揚げ稲葉宿に集まった。その数3.5万〜4.5万人。現在の稲沢市を中心に、一宮市・尾西市・津島市・清洲市・甚目寺町・美和町・大治町・佐織町などを24日までに移動し放火・打ち壊しは7〜80軒に及んだ。 はじめは邑宰所
(ゆうさいしょ)役人が出て説諭にあたったがさんざんに打擲された。22日名古屋・犬山・今尾の藩兵も投入。実弾射撃により即死者8〜9人、怪我人3〜40人を出し、体勢は崩れた。 
 新政府や藩の租税徴収に対する農民の不満::高松・浜田・仙台・松代、宇和島・新潟・柏崎・名古屋。若松・伊那。彦根・小諸。長野三郡に一揆。 この年、重原藩によって巴川の橋梁が九久平村字荒井の架設される。 市民に名字の使用許可される。区戸長制設けられる。挙母(七州)城取り壊し。(「松平町誌」)
 大阪・神戸観に電信開始。木造自転車輸入。 5/衆議院開院。8/散髪廃刀許可。「えた」「ひにん」などの称を廃止。9/平民の名字使用認める。10/兵制。海軍は英式。陸軍は、仏式。12/平民の帯刀禁止。大教宣布「神道国教化の詔」。 鈴木大拙(1870〜1966)、金沢市下本多町に生まれる。
普仏戦争
1870-1871    
  プロイセン対フランスの戦争。この戦争に勝利したことにより、ドイツにプロイセンを中心とした統一国家がはじめて誕生した。戦勝国ドイツはフランスとの境界にある鉱産資源豊かなアルザス・ロレーヌ地方を占領し、フランスと禍根を残す。また、ドイツの強国化を恐れたイギリス、バルカン半島をめぐって対立したロシアなど、第一次世界大戦の萌芽はこの戦争にあったと見て良い。
1871  明治   
 廃藩置県

 3府72県
 新政府から新たに知事や県令が派遣された。



 1/1郵便規則制定。 3/8碧海郡鷲塚・大浜村で僧侶・農人門徒ら、神仏分離反対の一揆(鷲塚騒動)。7/14廃藩置県により、3府302県政立。尾張は名古屋・犬山の2県、三河は豊橋・西尾・岡崎(額田)・重原・刈谷・挙母・田原・西端・西大原・半原の10県となる。(これまで、伊那県だった地域は、額田県に編入さる=県庁岡崎。=新政府は、旧幕府から没収した所領の内東京・京都・大阪などの大きな場所を府とし、その他を県と定めた。一方、藩はこれまで通り藩として残し、三治制を行った。だがこれは中央政権下の為には妨げになった。こうした状況を打開する為に、薩摩藩・長州藩・土佐藩・備前藩の4人の藩主に、「すべての土地・人民は天皇のものである。」とした、版籍(領地と領民)奉還の書状を提出させた。それら有力藩に習い、およそ260の藩主達がなだれを打ってそれに追随した。これによって、藩主達は知藩事という地方行政官になった。)







 
 これまで、江戸幕府は、「領地領民の支配権」をもっていた。幕府が交代する度に、藩の領地を一端返上させ、再交付させる流れになっていた。従って、新政府が要求した『藩籍奉還』の要求の、「与えるべきものはこれを与える」にあった。そこで、藩主達は今度は幕府に代わって天皇が領地を与えるものと解釈した。税の徴収権や軍事力は各藩が保持したままであった。これが7月の『廃藩置県』を行ったのだ。
 地方の藩が無くなり、政府が全国を治めるようになった。政府が集める税は、お金ではなくお米のままであった。
 ○薩長土の兵士を親平として集め、新政府の直属軍としてこの軍事力を背景に断行した。
 ○天皇が知藩事を皇居に呼び、一方的に宣言する形で、事前に他の藩には知らせなかった。
  ※これは、非薩長系の藩に対する、薩長藩の一種のクーデターとも見受けられる※
     ・・・・ 公家・薩摩・長州・土佐・肥前の若手の実力者によって、新政府の役割は構成された ・・・・
  △全国の藩を廃止  △旧藩兵は解散、武器・城郭は接収  △旧大名の知藩事は罷免され東京居住とされる
  △府、県に府知事、県令を地方行政に当たらせるために派遣 ・・租税の権限を一手に握った。
 藩主と領民との身分関係が変化せざるを得なくなる。@藩主との主従関係を解消させ、身分制の廃止。A廃刀令(1876.3)B徴兵令(1873)・・士族・平民の区別なく3年間は兵役に服した。
 これまでの一般武士は「士族」に、公家・大名は「華族」となった。 ・・・政府は、これらの人々に対して、額は減ったが従来のような家禄を与えた(秩禄)。 また、明治維新の功労者には、褒美として賞典禄を与えた。これらの禄の支出額は、国の予算のおよそ30% を占めた。→ 1873年秩禄
(家禄・賞典禄)奉還の法を定めた。後に、士族の秩禄を奉還させる。
 平民に苗字を名のり、結婚・住居・職業の制限を廃止した。これにより士族は身分上の特権を失う事になった。徴兵令には、一時、士族達は非難・反対した。平民達も非難し、暴動を起こした。江戸時代まはでなかった制度だったからだ。徐々に、「国民皆兵」を推し進める事につながった。
 8/エタ・非人の呼称廃止。11/15全国を3府72県に統合。三河10県を廃し、額田郡を設置、伊那県に属す三河地方を額田県に編入す(県庁は岡崎)。11/22名古屋・犬山県を廃し、名古屋県をおく。名古屋鉄砲町に郵便役所設置。名古屋県、英語学校開校。12/岡谷惣助、愛知七宝会社を発足。東京横浜間で郵便開始。挙母・足助に郵便取扱所設置。
 士族の散髪・廃刀許可(廃刀令)。華族・士族・平民間の結婚を許可。 職業の自由。
 7/日清修好条規を天津で調印。11/12岩倉具視を特命全権大使とする使節団派遣(〜1873)。横浜港。
 ☆ 使節団派遣の目的とその様子 ☆ 使節団派遣の目的は、不平等条約の改正にあった。
明治政府の重鎮達が、欧米14カ国を10か月余りで回り、各国に友好関係を求める天皇の国書を渡すとともに、欧米の文明や司法教育などの制度の実態を視察することであった。使節団は総勢46人。岩倉具視を団長に、伊藤博文、大久保利通、山口尚芳、木戸孝允(たかよし)等の若き官僚が支えていた。日本近代化の道を探る為であった。 12/6、最初の訪問国・アメリカのサンフランシスコに到着。ワシントンに向かう間、行く先々で連日のように晩餐会に招かれた。 
 「小さな部屋に閉じこめられると、あっと思う間にドキンと動き、釣り上げられた。」:エレベーター(使節団一員の回顧録より 「顔を洗うに水盤ありて、機をゆるむれば、清水ほとばしり出ず・・」:水道(『米欧回覧実記』より)
 12/台湾南部に漂着の琉球船乗組員54人が殺害される。3年後(1874年)、日本政府はこの事件の報復の出兵。   明治政府の北海道「開拓使」からアイヌへの告諭は、次のようなものであった。@開墾希望者には住居と農具を支給。 A女子の入れ墨、男子の耳輪とを禁止。 B日本語の習得を徹底。 琉球は、鹿児島県に組み入れられる。
 この年、ドイツ帝国成立  
1872 明治






















5






















六所神社外宮の舞台建立  名古屋県を愛知県と改称



浜田地震(石見・出雲)M7.1



宿駅制度・助郷制度廃止
 六所神社外宮の舞台建立。二重仕掛けの古式を留めている。茅葺き屋根を支持する為、合掌の用材の中間に梁を組む。愛知県誕生。挙母、平井、東広瀬、足助、小渡などに郷学校設立。  1/全国で初の戸籍調査実施。2/田畑永代売買の禁を解く。 東京の博覧会で、出品された名古屋場天守閣の金シャチが人気を呼ぶ。4/2名古屋県を愛知県と改称。5/愛知県、「学問のさとし」刊行。8/学制発布。9/新橋ー横浜間で、鉄道開通。11/徴兵告諭。11/27額田県を廃し、愛知県に合併。
 一揆:岡山・豊岡・山梨・宮崎・大分。  1/全国戸籍調査(壬申戸籍)・身分族称、皇族・華族・士族・平民とする 裁判上の扱いも四民平等。 2/陸・海軍省設置。2/田畑永代売買解禁。8/学制公布・・全国に53,760校設置目標(人口600人に1校)→1878年に26,584校・・1907年に27,125校。  宿駅制度・助郷制度廃止。
(「松平町誌」)
 この年、学制公布。「学問は立身出世のための財本・・・云々」 目標:53,760校設置・・ 1878年:26,584校  1907年:27,125校
学制の
理念 
 目 的  教育の四民平等 実利的な学問観  受益者負担
個人の立身出世   国民皆学 日常生活に必須な基礎学力 教育費・学校設立・維持費
 9/琉球藩設置。琉球の管轄は明治政府に移された。11/28徴兵告諭・・20才男児は全国すべて、兵籍に編入し戦争や内乱に備える。
 「我朝上古(わがちょうじょうこ)の制、海内(かいだい)(あげ)て兵ならざるはなし。・・・太政維新・・・ 四民漸(ようや)く自由の権を得せしめんとす。
 ・・・ 均
(ひと)しく皇国一般の民(たみ)にして、国に報ずるの道も、固(もと)より其(そ)の別(べつ)なかるべし。・・・
 古昔の軍制を補い、海陸二軍を備え、全国四民男児二十歳に至る者は,尽
(ことごと)く兵籍に編入し、以て緩急(かんきゅう)の用に備うべし。」
 「則
(すなわ)ち人たるもの固(もと)より心力(しんりょく)を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之(これ)を称して血税と云う。其の生血を以て国に報ずるの謂(いい)なり。」   「徴兵告諭」 1872年11月28日    (カタカナ文字は、ひらがなに直す:管理人)
  意訳:「古来我が国では全員が兵であった。維新より市民は自由の権利を得た。皆で国家のために尽くすべきである。 ・・・。」「人たる者は当然、心も体も献げて国に報いるべきである。西洋人はこれを血税と云う。云々」
(江戸時代農民には兵役の義務はなかった。しかし、これによって、武士が家禄を受け取って特権的に行うものではなく、戸民の義務としてになうものへと代わった)
○ 農民:血税一揆(生き血を取られると誤解) 全国的に起こる・1873〜74   ○士族:今までの特権が失われるとして反対し、士族が担う士族兵制論を  ○政府内では:「兵制復旧」左大臣:島津久光、「義勇兵制」板垣退助
 上記のように反対があったが、実施された。しかし以下のような免除規定があった。
 @国家を運営する官吏とその候補者の学生 A国家の基礎である「家」を維持する一家の主人と後継者 B代人料270円を納入したもの ・・など  
 ☆兵役免除率☆  (実際には兵役に就いたのは、農家の次男以下がほとんどであった。) 様々な徴兵逃れ
 年度  1874  ’75  ’76  ’77  ’78
兵役免除率 %  81.1  84.4  82.0  82.9  92.3
 12/国立銀行条例公布。太陽暦採用。 ランプ普及。文明開化風潮。僧侶の肉食妻帯を許す。福沢諭吉「学問のすすめ」。 修験道廃止令発布。
 「北海道土地売貸規則・地所規則」が定められる。
 アイヌには、元々、土地所有の観念がなかった。この規則が適用されるのは、他府県から移住してきた人々に適用されるのみであった。移住者には、10万坪/人が、払い下げられた。
 その土地の中には、アイヌ人達の狩猟の場所も含まれていた。 
 以後、30年間に189万人の移住者が北海道に入っていった。 
 1/21岩倉具視等の明治政府の重鎮達、ワシントンに到着。使節団は、大統領グラントと謁見し天皇の国書を渡す。一行のアメリカでの目的は果たしたのであるが、ここで、アメリカ側の歓迎ぶりに自信を持った伊藤博文は、「今こそ日本の重大な外交問題『不平等条約』の改正をしよう。」と、大胆な提案をした。一行の首脳陣の中では最年少であったが、欧米に一年あまりの滞在経験があり、外国の事情通として信頼されていた。そこで、一同も彼の提案に同意した。
☆ 不平等条約とは ☆ ・・・ かつて江戸幕府が西洋諸国と結んだ日本側に不利な条約
○ 日本国内で、外国人が犯罪を犯した場合、裁く権利を持つのは外国の領事であった。=「領事裁判権」
○ 外国からの輸入品に関して、日本側が関税を決められない:関税自主権が認められていなかった。
 2/3 条約改正を申し入れた。しかし、「受け取った国書には、あなた方が条約に調印する権限を持っているとは書かれては居ません。」と、反論された。彼らは、外交ルールを知らなかったことに気づいた。 伊藤と大久保は直ちに日本に戻り天皇からの全権委任状を取り付けることにした。その間に、残った岩倉と木戸がアメリカと条約改正の交渉をすることとなった。しかしここにも落とし穴があった。
 不平等条約の二項目の改正を提案したが、アメリカ側は日本の要求項目を無視して、貿易などでアメリカの利益となる項目を並べ立て要求した。友好ムードに歓迎され、「勝算あり」とみた一行は青ざめた。交渉は難航し平行線が3ヶ月以上も続き、更に長引くことが予想された。
 5/今度は、イギリスの外交官が一行のもとに抗議に訪れた。「あなた方の態度は、大英帝国に対して礼を失している。」と言うモノであった。アメリカ滞在を延長し、ヨーロッパ訪問が遅れることで、ヨーロッパの国々に不愉快な印象を与えていると言うことであった。
 「再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。実に余等の一罪なり」(「木戸孝允日記」より)と、後悔した。
 6/17伊藤と大久保が、明治天皇の全権委任状を携えてワシントンに到着した。しかし、交渉のめどが立たないまま、当にこの日に交渉は打ち切られた。「五千里の海上、三千里の山陸を往来せしこともみな水泡に属せり」(「木戸孝允日記」より) 外交交渉の意識の差を使節団は感じた。木戸孝允は、後悔しながら西洋のシステムやルールの論理を勉強しなければいけないと思った。そこで、合衆国憲法を勉強し翻訳する間に、若い留学生達と議論を交わした。 
 旅の予定は10ヶ月で14カ国。しかし、最初の一国で既に半年を費やしていた。彼ら一行の旅は、これより更に一年二ヶ月続くのであった。
 7/3使節団はアメリカを発ち大西洋を渡る。7/14 一行は英国・ロンドンに到着。
 イギリスは、大規模な工業化で「世界の工場」と呼ばれるほどに発展していた。日本と同じ小さな島国の英国が、何故、これほどまでに発展したのか? 一行は目を奪われた。造船所・製鉄所・紙漉・紡績工場・・蒸気機関によって様々な製品を作り出す工場が、至る所にあることに驚いた。更に驚くのは、工場だけではないことがわかった。貿易であった。英国は世界各地から安い価格で原料を購入し、それを国内で加工し世界各地に高品質な製品として輸出していた。
 ここでは、一行は銀行関係者と名乗る者に、「所持金の一部を預けないか?」と勧められて、銀行のシステムを説明されて驚いた。一行の多くはその人の説明を信じ総額二万五千ポンド(現在・2009年の5億円)の所持金を銀行に託した。ところが思わぬ報告を受けた。お金を預けた銀行が資金繰りの悪化で破綻したというのであった。あわてて銀行の事務所に向かうと、そこには簡単な張り紙があった。「預かり金の引き出しは出来ません We are insolvent. No deposit withdrawal.」だった。所持金のほとんどを失う者も居た。利益とリスクが表裏一体になっている金融経済の恐ろしさを一行は身をもって知った。
 「イギリスでは、どこに行っても資源と呼べるものはほとんどない。ただ石炭と鉄があるくらいだ。製作品はみな他国より輸入してこれを他国へ輸出している。イギリスの豊かな冨の理由がよく分かった。」 (大久保利通の手紙より)
 11/12 イギリス滞在も終わろうとする頃、大久保と木戸はロンドンの下町イーストエンドを視察した。夜八時、昼間の華やかなイギリスと浜逆な光景が目に映った。そこには大勢の浮浪者が溢れていた。経済発展の冨は一部の資本家に集中し、人口の四分の三を占める労働者階級の多くは低賃金で働いていた。盗みは横行しアヘンが蔓延して、イギリス社会の治安は悪化の一途をたどっていた。当に、世界最先端の資本主義が抱える矛盾であった。「自分は、江戸幕府を倒して天皇の政治になそうと考えその事業もほぼ成った。しかし、あとはどうも困る。こうして西洋を歩いてみると我々はこんな進歩の世には適しない文明社会にはまったく辟易する。」(大久保利通の言葉より) 羨望の的であったイギリスが、経済発展の歪みに苦しんでいた。近代化の持つ光と陰に一行は困惑する。次に一行は、フランス〜ベルギーへ。その9ヶ月後に一行は帰国する。
 ベルギーは日本の九州よりも小さな国。オーストリアやフランスなど強大な国によって何度も支配下に置かれながら、その都度独立を勝ち取ってきた。「日本よりも小さな国でありながら、何故大国の狭間で生き抜くことが出来たのか?」一行は関心を持った。「我に感触を与うること、反って三大国(米・英・仏)より切なるものあるべし」(「米欧回覧実記」より)。
 その頃のベルギーは、工業化の進むまっただ中であった。しかし他の工業国とは異なる強みがあった。それはヨーロッパ最高級と讃えられるレース織りやガラス製品など伝統的な手作りの工芸品に見られる高い技術力であった。
 「これまた尋常にあらず。」(「木戸孝允日記」より)
 こうした工芸品の数々は、ヨーロッパに輸出され、多大な利益をもたらしていた。かつて大国に支配されていた頃から、ベルギーの高級工芸品はヨーロッパの貴族達のあこがれの的であった。
 工芸品で得た富の力で、ベルギーの人々は支配者である大国から政治や裁判の権利を獲得してきたのであった。自由と独立を得る為に、職人の一人一人が己の生業に全力を尽くす。その姿に、使節団は感銘を受けた。
 「これは、平和の中の戦争である。国民の自主を基本とした経済力においては、大国とても恐れることはなく小国とても侮ってはならない。」(「米欧回覧実記」より)
1873 明治 6 吉木山六所明神を六所神社と改称。   

自由民権運動
 吉木山六所明神を六所神社と改称、社格を「郷社」に列す。12/仁王村(豊田市坂上町)安全寺に仁王学校開設。(「松平町誌」)
  五新学校・国谷学校・三好学校など、各地区に小学校できる。
酒呑学校:酒呑村・祐源寺   滝脇学校:滝脇村・専光寺 九久平学校:九久平村・吉祥院  茅原学校:茅原村(豊松町)・成瀬家 
 1/9第3軍管名古屋鎮台設置。7/名古屋で、日刊紙「愛知新聞」発行。ウィーン万博に金シャチ出品。12/12愛知県養成学校開校。 渋沢栄一、政府主導の産業振興に拘る政府と意見が合わず、役人を辞め、民間産業の発展に身を投じる。7/20渋沢栄一、日本最初の銀行、「第一国立銀行」開業。しかし、人々は半信半疑で、金を預けたり貸したりする人は殆どいなかった。  仇討ち禁止。外人との結婚許可。1/徴兵令発布。7/地租改正条例公布。8/閣議の結果、西郷隆盛の朝鮮派遣を決定。9/岩倉使節団の帰国。10/岩倉の意見を入れ、天皇は征韓無期延期命令。10/征韓論争の結果、西郷隆盛・副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤晋平辞職・下野する。 11/大久保利通帰国後三ヶ月・内務省設置(勧業寮:主に生糸産業・警保寮・戸籍寮・駅逓寮:産業製品の流通や政府所有の蒸気船を民間に払い下げて新航路を開発させ販路の拡張・土木寮:土地開発と製品の輸出に必要な港湾や道路の拡張・地理寮:開発工事に必要な木材を生産)・・・予算が思いの外かかった。  12/嘉禄奉還許可。 地租軽減一揆:鳥取・福岡・秋田・岩手など。キリシタン禁制撤廃・キリスト教解禁。 森有礼ら、明六社設立。 
 3/7 岩倉具視等の使節団一行は、ベルギーからオランダを経てドイツに到着する。ドイツは小さな国々が集まっていて、農業を中心とした国家であった。統一国家が成立して二年目という、日本と似た境遇であった。
 「その国是を立るはかえってわが日本に甚だ類するところあり」(「米欧回覧実記」より)
 その上ドイツは、フランスなど大国との戦争に勝利し小国の地位から正に大国へと躍り出ようとしていた。使節団の一行は、一人の人物に眼を向けた。それは、ドイツ宰相のオットー・フォン・ビスマルクであった。彼はドイツ皇帝の補佐役として活躍した宰相である。理想より現実を重んじ戦争等の強硬手段をも厭わぬ姿勢から”鉄血宰相”と呼ばれていた。
 3/15使節団は首都ベルリンでビスマルク主催の歓迎会に招かれた。そこで、一行は彼の考える国際政治の本質と、小さな国が生きる術を説かれた。
 「大国は、自分に利益がある場合は国際法に従うが、ひとたび不利と見れば、たちまち軍事力にものをいわせてくる。そうした国際社会にあって、小国が主権を守るためには、軍事力に頼ることも必要である。なぜならそれぞれの国が対等の力を持つことではじめてお互いが侵略せずに主権を守りあう公明正大な国際社会が実現するからだ。」と、・・・・。
 国際法を重視することこそ重要だと考えていた一行は、ビスマルク流の現実に徹した外交術に刮目
(かつもく)する。
 「甚だ意味あるものにて、玩味
(がんみ)すべき言と謂(い)いつべし。」(「米欧回覧実記」より)
 この後、ビスマルクはよく似た国ドイツを見習うならば人材を派遣しようか?と提案した。
 木戸孝允はこの誘いを断った上で次のように言った。「私たち日本は、長年国を鎖していたので、国際情勢に暗いところがあり、まだ世界の中でどう生きていくか研究する余裕さえ在りません。今の日本は国際的に残念な状況です。しかし、願わくばそこから自分自身の手で努力を重ね、速やかにしかるべき地位へと進みたいと考えています。」(「木戸孝允日記」より)
 その後、政府からの帰国命令によって、訪問できなかったスペインとポルトガルを除き、ロシア、イタリアなど六カ国を回り帰国の途についた。
 9/13欧米12カ国・一年十ヶ月の旅を終えた岩倉使節団は横浜に帰着した。この旅によって、政治家だけではなく若手・中堅の日本を担う人材が旅の経験を共有し沢山の選択肢を手に入れることができた。この旅の間、使節団(43人の留学生も一緒だった)は、過去・現在・未来を見通しながら多くのものを学んだのだった。
大久保利通 経済の自立にこそ近代国家の基礎が・・・と、国内産業の育成を推し進めた。
木戸孝允 教育改革に尽力。「国は、人より成り立ち候」これが帰国後の彼の信念であった。
伊藤博文 岩倉具視の後ろ盾を得て、16年後、「大日本帝国憲法」を公布。(ビスマルクのドイツを手本とした。)
津田梅子 女子教育の先駆者。(1864―1929) 女子教育者、津田塾大学の創立者。
中江兆民 自由民権運動の担い手
久米邦武 「米欧回覧実記」の著者。 後に、帝国大学教授となる。「どの国にしても、その発達の根源から見ていくならば、急に勃興したものなど無い。先に知識を得たものが、これを後世の人に伝え、次第に進むものだ。それを名付けて進歩というのである。」
 その他、若き留学生達の貢献も、近代日本建設に大きく貢献した。
 日本政府は、法学者:ギュスターブ・ボアソナードをフランス(パリ大学教授・ナポレオン法典の研究者)から招いた。
   ボアソナードは、フランスの法典を模範に、日本の司法制度を近代化すること。人権を重んじる司法制度の確立であった。
 しかし、彼は日本の裁判制度の驚くべき実情を目の当たりにした。それは拷問による自白を重視していることであった。
 「およそ罪を断ずるには、口供結案による 云々」・・・つまり、自白がないと裁くことが出来なかった。そして、自白を得るための方法として、拷問は正式な手段として認められていた。
 この年から刑法として適用されていたのは、「改訂律例」だった。これは1,000年以上前の律令の流れをくむものであった。
 彼は、後に陪審員制の導入を訴える。国民が裁判に参加する制度の実現であった。
 注:この法典では、フランスの革命で勝ち取った市民一人一人の権利が保障されていた。 
 この年に、秩禄(家禄・賞典禄)奉還の法。ここで浮いた費用を内務省の経営に充てた。やがて、士族達の不満をつのらせた。→西南戦争。
  ※ 士族の就職先  (1881年42万戸のうち) ※ 
1 軍人・巡査・府県の吏員・・ 約5万人
2 郡区町村吏・・ 約1.5万人
3 教師・・ 約3万人  
 △ 士族の1/4が公務員
 △ 官員の約7割、教師の約4割が士族 
 秩禄を奉還すると、6年分の金額を現金と8%の利息付の公債証書で支給される。注:1871年に秩禄制
1874 明治 7 政府に提出
民撰議員設立白書
板垣退助等
 名古屋鎮台の第1回徴兵検査、岡崎で実施。  郵便所:挙母・大阪(小原)・足助・大津(豊田)・大沼。5/1東本願寺名古屋別院で、名古屋博覧会、金シャチを展示。
  1/板垣退助等、民撰議院設立建白書提出。
 「臣等伏(しんらふ)して方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、上(かみ)帝室(ていしつ)に在らず、下(しも)人民に在らず、而(しか)して独り有司に帰す。 ・・・                →官僚専制政治を批判
 人民、政府に対して租税を払うの義務ある者は、乃
(すなわ)ち其(その)政府の事を与知(よち)可否するの権利を有す。
       →租税を納める者は参政権がある
 今民撰議院を立るの議を拒む者曰
(いわく)、我民(わがたみ)不学無知、未だ開明の域に進まず、・・・云々   」
    →この考えに反対する者は、我が国民は無学無知で判断する事はできないと・・
                                             (
管理人:送りがなをひらがなに直す)  
 一部これを批判する意見「今民民撰議院を立るの議を拒む者曰く、我民不学無知、未だ開明の域に進まず 云々」
 政府が薩摩長州など一部の出身者に限られていることを批判。人民の声を政治に反映するために国会開設を求める。新聞「日新真事誌」に掲載されて大きな反響を呼ぶ。→特権を奪われた士族の、政府への反感を基盤に全国に広まることとなる。 ・・・・自由民権運動の始まり
 1/東京警視庁設置。2/佐賀の乱。
 4/台湾出兵。
 1871年、琉球の漂流船が台湾に漂着した際に乗組員54名全員が惨殺されたことが理由。日本に属する人々を守るための出兵と主張。 日本は清国がそれを認めたと見なす。 翌年から,日本は琉球を日本の領土と見なして「琉球処分」を始めることになる。
 日本軍は台湾南部に駐留。これを知った中国は快く思わず、両国の関係は悪化した。 板垣等立志社結成。9/大久保利通、全権として北京到着。清国と交渉。交渉は難航・あわや日清戦争かと思わせる雰囲気であった。 10/イギリス駐清公使、台湾問題調停案を大久保利通全権に提示。中国は、「日本国民である琉球の住民を守るための正当な行動であった」と認めた。日本政府は、中国が琉球を日本の一部と認めたと判断する。「日清互換条款:○日本の台湾出兵は日本国民保護の義挙 ○清国は、遭難者に10万テール支払い」 5/板垣退助等立志社創立。 10/台湾問題につき、日清互換条款を北京で調印。11/「地租改正ニ付心得書」布達。12/日本軍、台湾から撤兵開始。 
 諸県で、地租改正反対の農民騒擾。  前年度、秩禄奉還の法・・この年、氏族を北海道開拓に当たらせるために、屯田兵制度を設ける。これに、青森・秋田などから、最初1,000人が移住した。彼ら屯田兵には、国境の警備も任されたので、厳しい軍事訓練が課された。道路や水路の開設なども行い、その生活はきわめて厳しいものであった。
1875 明治 8 板垣等、初めての政治的結社・「愛国社」を大阪で作る。















 2/岩倉学校、岩倉村平古の宇野吉平宅に開設。(「松平町誌」) 8/10西三河中心に暴風雨。被害多し(妙昌寺過去帳)。9/11挙母町大雨水冠(鈴村家文書)。11/矢作川渡船の賃銭を定める(1人2厘、牛馬6厘)。/郵便役所を郵便局と改称。  巴川の橋、九久平字簗場に架け替えられ「港橋」と呼称さる。(「松平町誌」)
 愛知県豊田市の篠平村(坂上町)を南篠平村、宮口村を東宮口村と各改称。
(「松平町誌」)
  2/大阪会議。板垣退助等、全国的な政治結社「愛国社」を大阪で結成。2/三菱商会、横浜・上海航路開始。4/元老院・大審院・地方官会議設立。漸次立憲政体樹立の詔を出す。5/樺太千島交換条約を締結。5/軍艦雲揚釜山に入港し威嚇。8/琉球藩の清国への使節派遣廃止を命じる。
8/13 当時の司法省の中心人物・井上 毅は「拷訊廃止意見案」で、司法に於ける拷問は、近代国家にあるまじき野蛮な制度だと主張した。「国家として海外列島に認められるためには、拷問を廃止することこそが急務である。”不平等条約”の改正を求めるためには、このことこそが重要である。」
 9/江華島事件(軍艦雲揚、江華島守備兵と交戦、大砲占領)。12/黒田清隆を特命全権弁理大使として朝鮮へ派遣。福沢諭吉「文明論之概略」。東京気象台設置。新島襄、同志社英学校設立。「第一国立銀行」:渋沢栄一:の危機。インフレをおそれる、人々は次々に金に交換する人が増加した。
 このまま行けば、銀行は破綻することは明白であった。そこで、銀行条例を改めることを決意。このころ政府は職を失った氏族に「秩禄ちつろく」=年金を支払っていた。これが国家予算の3割を超えるようになり、政府は一定額の債権を氏族に発行し利子を支払うことにし、現金支給を停止しようとしていた。
 これでは氏族の生活が立ちゆかなくなるので、これをうまく生かす方策を工夫した。これで氏族は使い道のない債権を現金のように扱うことが可能となる案を思い立ったのだった。
 支給する債権を銀行の設立資金に投資させる条項を作成。
   樺太・千島交換条約。日本政府は、樺太を放棄する。千島列島はすべて日本領土とする。
  ☆ 樺太・千島交換条約付録 アイヌの人々のこと     三年間の猶予
 雑居地(樺太)     ロシア領
 ロシア国籍を希望  ロシア国籍を取得
 日本国籍を希望  日本へ移住
 樺太に住んでいたアイヌの人々は、3年以内に、ロシアまたは日本の国籍を選択しなければならなかった。樺太にいた約2400人のアイヌ人が、日本国籍を選択すれば、樺太から出て日本のどこかに移住しなければならなかった。南部に住んでいた841人のアイヌ人は日本国籍を選択。
 政府は、彼らを宗谷に移住させた。その後、彼らを開拓の労務に就かせるために、ツイシカリ(対雁)に強制移住させる。結局、彼らは農業に向かなかったので、10年後に石狩に移住させて漁業に専念させることになる。この間に、約半数が病死。(後の、日露戦争に勝利した日本は、1905年ポーツマス条約で樺太の半分を手に入れたので、やがて、再び、彼らは南樺太に帰ることになる。
      また、サンフランシスコ平和条約1951年に、日本は南樺太・千島列島を放棄した。) 
 但し、日本政府は放棄した千島列島には、国後や択捉は含まれないと言う見解である。(2011)
  琉球を、県に組み入れるべく、「琉球処分官」松田道之等一行は琉球に赴く。清国との関係を絶つことを命令する。琉球王国は、今までのように日本と中国と両方との国交を継続すべく、強く懇願する。日本の「琉球処分官」は、これを認めず。琉球王国は、中国に向かって使者を送って救済を求める。 明治政府は、説得が困難だと見て、琉球王を逮捕する事を織り込んだ武力を背景とした処分案を決定した。
 この年、新聞紙条例。
   ☆ 新聞紙条例(1875) ・・・翌年、一部改正
○新聞雑誌の発行は許可制
○政府の変壊・国家の転覆を論じる記事、人を教唆・扇動刷る記事の掲載を禁止
  △ 翌年の主な改正点
 国家妨害などの記事を掲載した新聞・雑誌を内務省が発刊停止・禁止できる。
 
1876 明治 9  1/名古屋大須観音付近に旭遊郭できる。6/足助街道、県道となる。11/春日井郡和良村中心に43カ村で地租改正反対運動。12/21三重県下で地租改正反対運動(伊勢騒動)が、海東・海西郡に波及し、名古屋鎮台より出兵・鎮圧さる。 郵便局で内国為替取り扱い開始。各地に郵便局開設。
  2/日朝修好条規締結=日本、朝鮮を開国させる。一方では、清国も朝鮮への介入を強化。 朝鮮国内では、中国支持派と日本支持派が対立。やがて1884朝鮮でクーデター 3/廃刀令公布。7/三井銀行開業。8/1渋沢栄一、国立銀行条例改正。10/小笠原島領有。神風連の乱(旧熊本藩士等が廃刀令に反対し挙兵)、秋月の乱(旧秋月藩らが征韓・国権拡張を主張して神風連の乱に呼応して福岡県庁を襲撃。)、萩の乱(前参議等の不平士族が、呼応して挙兵)。10/政府、各国大使に小笠原諸島領有通知。 「改定律例」が改正される。
:「法令全書」←ここでは、自白以外の証拠も罪を裁く上での根拠として認めた。それまでは、拷問が認められ、自白にのみたよっていた。弁護官がつけられるようになった。このことが、後の明治12年の「拷問廃止」につながっていく。 
 諸府県で、農民騒動激化。仏教各宗派の独立運動起こる。札幌農学校開校。日本各地で銀行が設立。設立順に名前が付けられた。153社。  札幌農学校(1876年開校)のクラーク博士は、北海道開拓にために招かれた人材の一人であった。
1877 明治 10 西南戦争起こる


 近代化

船来航


 学生徴兵

警察に銃剣術
 2/16愛知県中学校開校。2/19西南の役に名古屋鎮台から出兵。3/豊橋に第8国立銀行設立。4/名古屋に第11国立銀行設立。7/1公立愛知病院医学所、堀川端に新設。12/宮島清蔵、水車利用の紡績を始める。矢作川の水車紡績はじまる。(三河ガラボウ)。 12/20「郡・区・町村編成法」「府県会規則」「地方税規則」の三新法公布。(「松平町誌」) この年、旧豊橋藩士、横浜で三河花火を打ち、名を高める。  この年地租改正。地価取調帳作成。(「松平町誌」)
  2/西南戦争起こる(〜9月)・・鹿児島の士族が西郷隆盛を指導者として反乱。しかし、政府軍の圧倒的な力に屈する(内務から6,700人の警察官とその中から精鋭を集め抜刀隊を編成)。この後、士族は武力での反抗はできないと考えるようになり、反政府運動の主流は言論による「自由民権運動」に代わった。
 ♪ 民権自由の数え歌 ♪
 三つとせ ♪ 民権自由の世の中に ♪まだ目のさめない人がある このあわれさよ ♪
 6/立志社、国会開設建白。木戸孝允(松下村塾出身、討幕派:明治維新政権の基本方針を作る。)35才没。
 政府は、西南戦争の中心的な人物をとらえて、司法手続きを経ずして処刑した。そうした政府のやり方に批判の声が上がる。福沢諭吉は、西南戦争のさなか、政府へ「即刻休戦し、各府県の士民を陪審官とし、公平な裁判を行い戦争原因を明らかにすべきである。」(「西郷隆盛の処分に関する建白書」)・・国民を裁判に参加させることで、政府の権力乱用を押さえようとした。陪審制導入論は、民衆の中からもわき起こった。→「自由民権運動」

 「明治政府は、いわば革命によって出来た政府。国民の権利・自由より政府自体の権力強化がより重要であった。」
                         :東京大学名誉教授・三谷太一郎氏
 8/第一回内国勧業博覧会・入場者3ヶ月で45万人。(西南戦争の最中ではあったが、大久保は敢えて実施させた。出品費用の融資・運賃の割引。優秀な物産はフランスのパリ万博への出品を約束。) 9/西郷隆盛(武力討幕派、江戸無血開城)51才で自刃。  山岡鉄舟。 
1878 明治 11  挙母村に西加茂郡役所、足助村に東加茂郡役所設置。(加茂郡が分離) この年、遊平(あそびだいら)村と西大沼村が合併し、長沢村となる。(「松平町誌」)  1/士族婦女子授産のため愛知物産組を創業し、木綿織物を製造する。3/9春日井郡の農民代表上京し、地租改正事務局に嘆願書提出。7/旧名古屋藩士ら、北海道八雲村に入植移住。10/春日井郡の農民ら、行幸中の天皇へ地租改正反対の直訴を企てる。12/20尾張部に名古屋区他8郡、三河部に10郡設置。 この頃矢作川下流の幡豆郡周辺で、舟紡績が行われる。愛知春日井村で地租改正反対の一揆。挙母村に西加茂郡役所、足助村に東加茂郡役所。
  富山の漁村婦人の米騒動。4/板垣退助等愛国社再興を図る。
(9月再興大会) 5/大久保利通(岩倉と王政復古画策)48才にて、恨みを抱く士族によって暗殺される。 6/東京株式取引所開設。7/郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則(三新法)制定。9/愛国社再興大会。この頃から、民権運動は士族だけではなく地主や商工業者など全国に広まる。 12/参謀本部置く。
1879  明治  12  明治用水工事はじまる。東加茂で、秋蚕の飼育始まる。5/3最初の愛知県議会議員選挙(19選挙区、定員50人)。7/17東三河の女子13人が、富岡製糸工場に伝習生として派遣される。10/小渕志ち、二川に製糸工場開設。 12/16九久平郵便局発足。この年九久平で人力車の営業始まる。幸海小学校、東加茂郡最初の校舎学校として建築。 仁王小学校・大田小学校建築。(「松平町誌」)
 山梨県初めて葡萄酒156石造る。新聞の街頭販売禁止。 3/琉球藩主王尚泰に、廃藩置県を達し、家族として東京居住を命じる。4/琉球処分。琉球藩を廃し、沖縄県とする。1372年以来、500年余り続いた琉球王国は滅亡した。清国は意義を申し出た。 5/清国公使、沖縄県を不承認と抗議。    司法に於ける拷問廃止。 朝日新聞創刊。教育令制定。
 アインシュタイン(1879〜1955)  生まれる。   
1880 明治 13 東京大風雨死者120余人


この年、日本国憲按できる。
 郡界川ガラ紡始まる。3/名古屋で愛国交親社結成。4/8明治用水竣工。4/「区町村会法」公布され、村会が設置される。 7/最初の名古屋区会議員選挙。9/額田郡大平村に官営愛知紡績所が設立。  この年、足助街道(巴川西岸)が現在地に改修され、車の通行可能となる。桂野の宮本六太郎、ガラ紡業始める。(「松平町誌」)
 1/交詢(
じゅん)社結成。愛国社第4回大会→(左の二日後に)国会期成同盟結成→(結成から1ヶ月後)国会開設の嘆願書提出・・太政官・元老院却下 4/集会条例制定。
  ☆ 「集会条例」のあらまし
 政治的な演説会は、事前に警察に届け出・許可が必要。演題も許可が必要。
 警察官は集会の会場に臨席し、監視。内容次第では中止・解散を命じる。
 軍人・警察官・学校の教員及び生徒は、政治集会に参加できず、結社加入もできない。
 政治結社相互の連絡や通信、政治的な宣伝は禁止。
 屋外での政治集会は禁止。
 7/刑法・治罪法公布。
これは、刑事裁判の手続きを定めたもの。これには福沢諭吉やフランスの法学者:ギュスターブ・ボアソナードの唱えた陪審員制度はもり込められなかった。
 11/地方税規則改正。天長節に「君が代」。新潟で大火(5,500戸)。大阪大火(二度)。 沖縄に、方言を禁止し日本語の使用を進めた。
1881 明治 14 明治14年の政変
国会開設の勅諭
 小渡・則定・上仁木郵便局開局。6/愛知自由党創立。名古屋茶屋町に伊藤銀行。11/一宮町に一宮銀行設立。この年、打ち瀬網を巡る騒動。3/28名古屋商法会議所発会式。6/19名古屋自由党創立。 
  6/〜7/法政官僚の井上毅
(こわし)、ドイツの法律顧問・ロエスレルに指導を受け憲法に関する綱領を作成し、岩倉具視に提出。
 井上毅の憲法綱領 ・・ 6月〜7月にかけて作成 しかし、

実現ならず
欽定憲法=天皇が憲法を定めた  とする。
 2 プロイセン=ドイツ流の斬新主義(急激な改革はせずに徐々に進む) 
 3 陸海軍の統率、宣戦講和、外国との条約などは天皇の大権 
 4 元老院と、国民の選挙で選ばれる民撰議員=二院制 
 10/明治十四年の政変。 
 ☆ 当時の国会内の対立関係 ☆ 
 大隈重信は、伊藤博文と財政・憲法制定・議会開設などを巡って対立していた。1881年3月に大隈重信は、イギリス型の政党政治を前提に早期の憲法制定と国会開設を求める意見書を提出。 そこで、伊藤博文(ドイツ型)や右大臣の岩倉具視殿対立は決定的なものとなった。その後、「開拓使官有物払い下げ事件」をきっかけに、大隈重信は追放される。
 注:イギリス流の立憲体制の実態は、「主権はもっぱら議員にあり、国王には実験が伴わず、名ばかりの地位」である。
 日本にこれを採用したら、幕府時代の政治に逆戻りしてしまうと、伊藤博文は考えていた。
 1872年から10年計画で進められた、北海道開拓事業が終わるに当たって、国が所有していた栃屋工場や官舎などを企業に払い下げる事が決まっていた。北海道開拓使長官の黒田清隆がおよそ2,000万円投じたものを、自分と同じ薩摩藩商社に、39万円余りで払い下げようとした(30年間無利子で分割払いを許す)もの。
 この事件は、薩摩・長州藩の政治支配を批判した自由民権派の取り上げた動きであったが、そのどちらでもない大隈重信が陰で糸を引いていたのではないかと疑われて責任を負わせたと思われる。この事件を契機に、薩摩と長州は一層結びつきを強固にした。
 国会開設の勅諭。自由党結成。松方財政始まる。
 ☆ 松方財政の特徴 ☆       :地租は定額
歳入の増大  酒造税、たばこ税の増税、醤油税、菓子税などの新設 流通する紙幣を
減らす  
 物価下落(デフレ)

農家の米収入減少 
軍事部門以外の官営工場や鉱山を民間に払い下げ 
行政費の節減 
 11/日本鉄道会社設立。開拓官有物払い下げ問題批判の新聞・雑誌、停刊処分相次ぐ。 秋田事件(秋田立志社関係者が資金調達のため強盗)。
1882  明治  15    巴川洪水  東加茂郡脇立病院開院。足助で仔馬のセリ市。1/軍人勅諭発布。3/三河に三陽自由党結成。5/平戸橋架設。7/23名古屋銀行開業。10/1洪水。被害は碧海郡・幡豆郡・額田郡。浸水家屋2,000軒流失30軒余、溺死37名(矢作川)。巴川洪水(宇野善康家文書)。12/愛知立憲改進党結成。 
 1/軍人勅諭。3/伊藤博文等、憲法調査のため渡欧。立憲改進党・立憲帝政党・結成。4/板垣退助、岐阜で遭難。7/壬午事変。10/日本銀行開業。郵便料金を全国統一。10/立憲改進党創立。
 ☆ 主な政党 ☆
  自由党1881 立憲改進党1882 立憲帝政党1882
 党 首  板垣退助  大隈重信(84年に脱退)  福地源一郎(東京日々新聞社長)
 主な党員  中島信行(副)後藤象二郎、片岡健吉、河野広中 犬養毅、尾崎行雄   丸山作楽、水野寅次郎
 支持基盤  政府専制に不満を持つ士族、地主、、農民  都市の知識人や実業家  神官、僧侶、吏員
政策   フランス流の政治制度、一院制、主権在民、普通選挙  イギリスの穏健な立憲君主制、立憲君主制、君民同治、貴族と平民の二院制、選挙権を財産で制限する制限選挙  主権在民、欽定憲法、二院制、制限選挙
 11/福島事件(〜12月=県令三島の道路開削工事費負担に反発した農民が蜂起)。東京専門学校(後の早稲田大学)創立。   
 この年、天皇は伊藤博文をヨーロッパに派遣。ドイツ・オーストリア・イギリスなどを1年あまりにわたって視察。天皇の政治的位置付けと自由民権運動で求められた国会をどう規定するかが課題であった。ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz van Stein)から近代国家憲法の講義を受けた。後に天皇の侍従藤波言忠(ことただ)をシュタインの元に送って学習させ天皇に33回にわたって詳細に報告させた。明治天皇は憲法の必要性を認めた。 4/17チャールズ・ダーウイン没(73才)   
1883 明治 16  枝下用水工事開始。東加茂郡教育会が発足。10/瀬戸に陶器館がつくられる。   3/高田事件。4/新聞条例改正(言論取締)。5/国立銀行条例改正。6/板垣退助帰国。7/岩倉具視、没。鹿鳴館開館完成。12/徴兵令改正。
1884  明治  17   自由民権運動の衰退   6/西枝下・越戸間の水路工事着手(前年より)するも、洪水のために破壊さる(挙母市資料)。 岩倉東・柿田:御嶽山、このころ御岳大神他10柱を祭祀。毎年火祭りが行われ、火の中を渡る神事が行われた。同、柿田の「弘法さん」、西国の八十八ケ所にちなんで、88体の弘法さんを安置し、信仰した。松平地区には九久平(菅沼)・岩倉(柿田)・加茂川(川向)・松平(松平)・石楠(所石)の五カ所に祭祀。   至西加茂郡教育研究会発足。枝下と四郷開墾。4/林市兵衛、時計製造に成功、名古屋に製造所を設立。この年、巴川の東岸、下国谷村〜九久平村の里道改修(郡費)人馬通行便利となる。(「松平町誌」)
 8/12平田橋事件。12/村松愛蔵らを中心に飯田事件発覚する。この頃自由党過激派らによる強盗事件続発。名古屋事件発覚。
 加波山事件起こる(福島・茨城・栃木の自由党員が政府高官暗殺を計画、発覚して茨城県の加波山で蜂起)。 5/群馬事件。7/華族令制定(後の上院:貴族院の土台)。9/加波山事件。10/31秩父事件(三人の自由党員を指導者とする秩父困民党が蜂起)。10/自由党解党。12/甲申事変(朝鮮の日本支持派が、クーデター)。12/名古屋事件・飯田事件。東京商業学校(後の一橋大学)創立。     
   12/甲申事変(朝鮮の日本支持派が、日本の協力を得て朝鮮国内を改革しようとする金玉均(キムオクキュン)等のクーデター)   これに対し、清国が朝鮮に軍隊を送り鎮圧。
1885  明治  18   築平・市平間の渡船開始。3/31名古屋紡績会社操業開始。4/22吉田城後に名古屋鎮台豊橋分営設置。半田の中埜又左衛門、初めてビール製造する。7/矢作川等諸河川氾濫。多くの被害出る。 
 4/天津条約。11/大阪事件。12/太政官制を廃し、内閣制度を採用・創設。=天皇の下、総理大臣・国務大臣が内閣を組織するもの。伊藤博文、初代総理大臣となる。 「縮刷大蔵経」成る。尾崎紅葉等硯友社結成。
   4/天津条約・・伊藤博文が清に赴く。日本・清国共に朝鮮から軍を撤兵。 今後朝鮮に重大な事件が起きて出兵する場合にはお互いに通知。   
1886 明治 19 信越国境地震(M5.3)  東加茂郡に蚕糸組合。東加茂郡炭業組合。3/1武豊ー熱田間に鉄道開通(武豊線)。5/1熱田ー一宮間鉄道開通。国立銀行(第8、第134)合併。11/愛知紡績所、民間に払い下げられる。 
  1/北海道庁を置く。6/静岡事件・甲府雨宮製糸工場女工、スト(日本最初のスト)。9/伊藤博文、秘密裏に憲法起草開始。
  夏島(伊藤の別荘地地名))草案
  伊藤博文の夏島の別荘で日本国憲法の起草が開始された。これには、:伊藤巳代治・井上毅・金子堅太郎らが加わった。「夏島草案」と言われている。
 これに修正が加えられ、最終草案として天皇に提出され、枢密院で審議された。議長は伊藤博文。 
 10/ノルマントン号事件。 東京大学と工部大学を併合、帝国大学創立。帝国大学令。師範学校令。小学校令。中学校令交付。国際赤十字条約加入。
1887 明治 20  3/5熱田に尾張紡績会社設立。3/26愛知教育会設立。4/25木曽川鉄橋開設。東海道木曽川ー加納間開通。5/22「扶桑新聞」創刊。 オランダ人デレーケ木曽・長良・揖斐川の分流工事着工。9/名古屋電灯の設立認可される。 この年、九久平駐在所開設。(「松平町誌」) 
 1/東京電灯会社初めて点灯。3/所得税法公布。 7/不平等友好条約改正の五カ国合同会議による交渉の無期延期 9/井上馨、外務大臣辞任:しばらくの間、首相の伊藤博文が兼任。 10/後藤象二郎、大同団結運動推進。12/二府17県有志、言論集会の自由・条約改正中止・地租軽減の三大事件建白書提出、保安条例公布。 徳富蘇峰、民友社結成。博愛社、日本赤十字と改称。二葉亭四迷「浮雲」。神奈川県夏島で伊藤博文は伊藤毅
(こわし)と共に明治憲法の草案造りに取りかかった。
 ガンディー(18才)、妻を残して単身インドを支配するイギリスに留学。楽しい青年期を送り、弁護士の資格を取る。
1888 明治 21 立憲政治の展開  市制・町村制公布。駐在所:寺部・中金・上伊保・上国谷・西細田・飯野などに設置。4/愛知県馬耕伝習所を、県下4郡に設ける。5/14名古屋鎮台廃止。第三師団設置。5/熱田に愛知セメント会社設立。9/大府ー浜松間鉄道開始。 
 2/大隈重信、外務大臣に任命される。 4/市町村制公布。枢密院設置。 6/枢密院、憲法草案審議開始
(明治天皇も出席・議長:伊藤博文)。6/高島炭鉱事件。11/大隈重信の条約改正交渉開始(合同会議ではなく国別に)。メキシコとの通商条約の調印。 三宅雪嶺等、反欧化主義団体政教社結成。東京天文台設置。
1889  明治  22  大日本帝国憲法発布


 殖産興業


 伝統見直し



尾張・三河に台風による大風水害


熊本市付近地震M6.3
 県下各地で町村合併。7/矢作川堤防決壊。挙母浸水家屋365軒(浦野家文書)。7/東海道鉄道が全通する。9/11尾張・三河に台風による大風水害(県下で死傷者955人。家屋倒壊流失14,323戸)この時の松平地区の溺死者2名。(「松平町誌」) 10/松平地域の村々、市町村制の実施により、五カ所(小川・松平・豊栄・穂積・志賀)に合併される。(「松平町誌」)  名古屋に初めて電灯がつく(灯数400余)。名古屋区は、名古屋市となり、人口157,000人。 
 2/大隈外務大臣アメリカと新条約調印。その後、ドイツ・ロシアとも合意。
 2/11大日本帝国憲法発布。この日に、初代文部大臣森有礼、刺される(43才没)憲法草案の検討会議で「臣民権利義務」を「臣民の分際」にしろと主張したが、伊藤博文は、憲法で臣民の権利を主張せずにその責任のみを記載するというのは、憲法制定の意味がないと応えた。(「人権宣言集」岩波文庫) 
 ここで、「すべての権利の源は天皇にある」と記された。「司法権は、天皇の名の基で、裁判所がこれを行う。」と、・・。:この時期にには国民が裁判の主人公という西洋法の「心」は取り入れられなかった。
 内閣総理大臣伯爵 黒田清隆    枢密院議長伯爵 伊藤博文  外務大臣伯爵 大隈重信
 外には  海軍大臣伯爵 西郷従道   農商務大臣伯爵 井上 馨  司法大臣伯爵 山田顕義
       大蔵大臣兼内務大臣伯爵 松方正義   陸軍大臣伯爵 大山 巌  や
       文部大臣子爵 森有礼     通信大臣子爵 榎本 の記名
   「凡て法律は帝国議会の協賛を経るを要す」  第37条 
   欽定憲法の誓約 ⇔ 議会の同意がなければ法律も予算も成立しない。国民の自由や人権も議会が
                同意しなければ侵すことができない
 自由民権派の憲法への評価は良かった。 
植木枝盛  自由党  日本が立憲国の仲間入りをしたことは良いことだ 
大隈重信  立憲改進党  憲法の妙は運用如何に在る
尾崎行雄  後に憲政の神と言われる  ロンドン公使館で盛大な祝宴 
   大日本帝国憲法             注:管理人 ・・仮名をひらがなになおす。
 第一条  「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」
 ・・・万世一系という表現は、ドイツ人法学者で、顧問のヘルマン・ロエスレルは過大な呼称であると反対した。
 第三条  「天皇は神聖にして侵すべからず」
 第四条  「天皇は国家の元首にして統治権を総攬
(そうらん)し此の憲法の条規に依り之を行う」
 第五条  「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」
 ・・・
 第八条  「天皇は・・緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於いて法律に代わるべき勅令を発す」
      「この勅令は次の会期に於いて帝国議会に提出すべし
       若し議会に於いて承諾せざるときは 政府は将来に向て其の効力を
      失うことを公布すべし」 
・・・初期の頃には、議会において天皇からの緊急勅令が不承認になることが在ったが、その後だんだんと少なくなった。
 ・・・
 第十一条 「天皇は陸海軍を統治す」
・・・本来は、軍隊が政治に左右されないように意図したものであった。しかし、後に軍部が議会や内閣の意志に従わないで突することになる。
  第二章  「臣民権利義務」
 「日本臣民は法律の定むる所に従い 兵役の義務を有す」
 「日本臣民は法律の定むる所に従い 納税の義務を有す」
 「日本臣民は法律の範囲内に於いて 言論著作印行集会及結社の自由を有す」

 第三十三条 帝国議会は貴族院衆議院の両院を以て成立す
       ・・・選挙によって選ばれる衆議院と、皇族や華族・多額納税者からなる貴族院
 ・・・
 第十九条 「日本臣民は法律命令の定むる所の資格に応じ 均しく文部官に任せられ
       及びその他の公務に就くことを得   ・・・文部官になれるのは日本臣民のみともとれる
  3/土地台帳規則公布(地券廃止)。7/東海道線新橋ー神戸間全通。9/大阪天満紡績賃上げ争議。4/大隈重信外務大臣の条約改正の内容が「ロンドンタイムス」に掲載される。5/「ロンドンタイムス」に掲載された内容の翻訳が、日本の新聞に掲載。・・井上馨外相の行おうとしていたことと同じではないかとの声が高まり、交渉中止論が高まる。新しくできた日本国憲法に照らしても矛盾していると、政府内からも非難の声。10/大隈外相、襲われ爆弾を投げつけられて負傷、黒田内閣総辞職。条約改正交渉中止。12/山県内閣成立。
 新しい条約改正交渉の方針が定まる。
  条約改正交渉の方針 ・・・青木周蔵(1844〜1914)外務大臣
 憲法が発布され、国内諸制度も整備
し議会開催目前であったため、憲法と
矛盾する内容での条約改正は不可能
であった。  
1  外国人判事を任用しない 
「法典の公布・実施」を条約に盛り込まない 
3   領事裁判権継続中は、外国人不動産所有を許さない
  ☆ 青木外交 ☆
 ○大隈外交と同様に国別で交渉。 ○最難関とされたイギリスとの交渉を優先
 ◎ 領事裁判権の撤廃 ・・条約実施後五年間継続・外国人に内地会法
 ◎ 関税自主権の一部撤廃 ・・条約実施後6年で完全回復・それまでは税率の増加を図る
                        結局は,青木外交は中断する(1891大津事件)。
 正岡子規:子規改革。 日本美術院興る。 嘉納治五郎。 講道館柔道。   
 ハイデッガー生まれる。    
1890 明治 23 経済界不況  枝下用水工事完成。足助村町制を施行。足助町となる。10/5・6矢作川筋の仁木・細川地内、その他破堤(愛知県災害誌)。10/教育勅語発布。11/第1回帝国議会召集。11/11豊田佐吉、豊田式木製人力織機を完成。  
 5/府県制・郡制公布。我が国の地方自治制度確立。 7/第1回総選挙
(この時の投票率 93.9%:現在までの最高記録)
衆議院  定数300   有権者は国税15円以上を納める満25歳以上の男子
 被選挙権者、同、満30歳以上の男子
 有権者数は45万人ほど
 全人口の1.1%
 有権者数:19世紀の半ばのイギリスでは 0.5%  フランスでは 3%    
  民権派当選議員が171議席/300 だった。この300人の平均年齢42歳。 主な当選議員の中に以下の人々
河野広中
(自由党幹部)、田中正造(足尾銅山鉱毒事件で活躍)、中江兆民(思想家:俗に「東洋のルソー」)、尾崎行雄(大隈の部下)
 9/立憲自由党結成。10/30教育勅語発布。(教育の目的は、国家のためにおこなうべきもので、日本の国体を学ぶべき。)11/29日比谷の仮議事堂にて第1回帝国議会: 「立憲国家での議会はアジアでは日本が初めて」と世界から注目される。11/大日本労働者同盟結成。  足尾銅山の鉱毒で魚類多数死滅。北里柴三郎、破傷風血清療法発見。森鴎外「舞姫」。
 当初、氏族に限られていた北海道の屯田兵の枠は、この年から平民にも広げられた。1904年に廃止されるまでに、北海道屯田兵は30年間でおよそ4万人、700平方Km・琵琶湖の広さを上回る開墾面積に達した。
1891   明治   24     辛  卯  濃尾地震
(M8.1)
 10/28揖斐川上流を震源に濃尾地震。中島郡・葉栗郡を中心に死者2,459人、負傷者6,736人、住家の全半壊58,426戸に及ぶ。枝下用水石垣大破する(西加茂郡誌)。
 最大でM7相当、一四万戸の家屋破壊。科学的な記録が残されるようになってから、日本で起きた最大の地震とされていた。間隔が5Km以内の三つの断層が連動して起きた。(2012年NHK「サイエンスzero」)
 1/内村鑑三の不敬事件。一高(東京大学)の倫理講堂に置かれていた「教育勅語」(前年に、明治天皇によって発布される))への奉拝(深々とお辞儀をする)を、彼だけが深々としなかった。学生が騒ぎ出した。「不忠の臣」と、新聞に書かれて教師の職を追われる。3/立憲自由党、自由党と改称。4/郡制施行。5/大津事件
(警備中の警察官津田三郎がロシア皇太子を襲い負傷させた)。青木外相辞任。・・・大津事件犯人に対する処罰を巡って、日本は確固とした法を持ち、それを運用できる国として諸外国から評価された。 9/日本鉄道、上野ー青森間全通。10/濃尾大地震。12/足尾銅山鉱毒事件。   幸田露伴「五重塔」。
 トルストイ、 1891年から93年にかけてロシアを飢饉が襲った。このとき、自分の農地を貧しい人に与えたりして救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられた。しかし、これは貴族社会を批判するものであった。政府側はトルストイを危険人物視した。
 1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなり、1901年には教会はトルストイを破門にしたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。
 ロシア、1883年に朝鮮の永興湾の租借を朝鮮政府に申し入れ、この年には、シベリア鉄道の建設開始。終点はウラジオストックである。・・・これらの動きを見て、日本政府の山県有朋は、「鉄道が完成すればロシアの朝鮮進出が容易になる。」と、危機感をつのらせた。
 日本の安全を守るためには国境線をまもるだけではなく、周囲にある朝鮮の安全を確保することが重要であると唱えた。また、同時に、「朝鮮の近くにある清国も抑えなければ・・」と言う考え方もメディアに登場してきた。
1892 明治 25  挙母町となる。5/帝国議会で、額田県設置に関する法律否決。 
 2/第2回衆議院選挙で流血事件(松方内閣の選挙干渉)。6/国民協会結成。11/千島艦事件。
1893 明治 26 条約改正と日清戦争  4/大田小学校内に、豊栄、松平組合立豊松高等小学校創立。(「松平町誌」) 8/16矢作川増水し、第三代米津橋破堤。矢作橋・美矢井橋流失(西尾市史)。40年ぶりの大雪。挙母地区で積雪60p。この年、県道足助街道、則定より巴川東岸に移り、下佐切-大楠-簗山-曲り-鍋田-九久平にいたる間竣工。九久平正受寺創建。(「松平町誌」)
  2/衆議院、内閣弾劾上奏案可決。4/集会・出版・版権法公布。7/陸奥宗光、条約改正案決定。10/文官任用令公布。
1894


日清戦争 
明治  27    東京湾北部M7.0  庄内地震M7.0。
社会運動の発生
 九久平・岡崎間乗合馬車営業開始(下林鎌太郎)。 8/4日清戦争で、第三師団に動員令。 
 1/大阪天満紡績工場スト。7/16日英通商航海条約調印(治外法権撤廃)外務大臣・陸奥宗光、各国とも相次いで調印。8/日清戦争勃発(〜95)。8/朝鮮と攻守同盟。8/軍事公債条例公布。9/黄海海戦。11/旅順口占領。 高等学校令公布。
 富国強兵。 北里柴三郎、ペスト菌発見。 ホトトギス。 樋口一葉「大つごもり」。  浪漫主義。 女学校に「茶」導入。 武術界:武徳会
 春、甲午(甲午)農民戦争。朝鮮で、役人による不当な課税などに対して民衆が怒り、当時地方で広まっていた新興宗教「「東学」の指導者を中心に武力蜂起。大規模な農民の暴動。 朝鮮政府はこの鎮圧のために清国に出兵を要請した。2000人あまりの軍隊が派兵された。日本は、朝鮮にいる日本人を保護するためとして、出兵を決定。およそ4,000人を送った。このような清と日本の動きに対して、危機感を持った朝鮮政府と反乱軍は和約を結び、一端反乱は収まった。 日本は、清と共同で朝鮮の内政改革をすることを提案。清国(清・光諸帝)はこれを拒否。 日本政府はそのまま独力で朝鮮の内政改革を行うとして,そのまま兵を朝鮮に置き、朝鮮王朝を占領した。清国よりの政権を倒し、国王・高宗の父で日本を支持していた大院君(テウォングン) を政権の座につけた。
 その上で、「清国軍を追放させて欲しい。」と、朝鮮王朝から日本に依頼させた。 その二日後、94/7/25豊島・プンド沖海戦・日清戦争開始。
1895 明治 28  飯田、足助両街道、改修工事開始。 3/牛乳の普及に伴い、県が厳密な検査を実施。5/24関西鉄道の名古屋ー弥富間開通。11/16一宮紡績所が設立。この年、愛知紡績所火災、廃業。 
 2/威海衛占領。2/初の市街電車開通(京都ー伏見間)。4/清国、講和会議のためにおよそ100人が下関に来る。下関条約調印。(清国全権李鴻章、日本全権:陸奥宗光外相・伊藤博文首相。
下関条約
日本側の要求 
賠償金・・当時の国家予算の4倍以上の4億両(3億テール)
   遼東半島・台湾 澎湖諸島を日本に譲る
   清の重要な港を開港すること
 清国は、朝鮮を独立国として認める。
 3億円(2億テール)
 この時、賠償金以外はほぼ日本の要求通りで調印
 ※沖縄の人たち:日清戦争で、日本が清国に勝ったので、沖縄の人々はもはや日本政府に帰属せざるを得ないと認めることとなる。  
 4/三国(ロシア、ドイツ、フランス)干渉。・・この頃、朝鮮では親日派による政権が倒されて、ロシア派の政権となる。 9/住友銀行設立。救世軍日本支部創設。10/日本、王宮を襲ってロシア寄りの勢力の中心であった朝鮮国王の后・閔妃を殺害。朝鮮では反日闘争が起こり、ロシアの朝鮮への影響力が強まった。11/遼東半島還付条約調印(4,500万円で)。樋口一葉「たけくらべ」。
1896 明治 29


明治三陸地震M5.5

陸奥地震(明治三陸)M7.2
 挙母町に公設消防組織設置。3/18愛知銀行8/明治銀行10/額田銀行設立。6/19愛知馬車鉄道、動力変更により名古屋電気鉄道と改称.7/熱田湾築港着工。「中京新聞」創刊。7/26名古屋に日本車輌製造会社創業。8/明治銀行設立。9〜10三重紡績名古屋、尾張紡績で、同盟罷業おこる。9/11大暴風雨、全壊家屋4戸、半潰6戸、大破損12戸(挙母市資料)。10/知多紡績設立。12/1大3師団歩兵33連隊を東春日井郡守山町におく。この年、豊田式木製動力織り機発明さる。  
 3/進歩党結成。航海奨励法。造船奨励法公布。酒造税法、葉煙草専売法。4/日本勧業銀行法・農工銀行法・銀行合併法公布。7/日清通商航海条約調印。8/宮沢賢治、岩手県に生まれる(〜1933.9.21)。9/第二次松方内閣成立。黒田清輝ら白馬会結成。
 アメリカ・連邦最高裁の判決で:「人種で分離しても、設備やサービスの内容が平等であれば違憲ではない。」:”Separate but equal”分離すれど平等:と下され、公共施設における人種隔離が認められた。アメリカ合衆国憲法には、「正義Justice」と「自由Liberty」であった。しかし、黒人にはこれらが与えられようとの兆しが見えなかった。差別する白人側に、”差別”の意識はなかった。 
1897  明治  30     伊勢神トンネル竣工。足助の西町に西盛座できる。3/1日本銀行名古屋支店できる。7/郡界川に岩津発電所。滝脇発電所工事完成。 7/15豊川鉄道豊橋ー豊川開通。9/豊橋に歩兵第17旅団司令部設置。9/8・9矢作古川の支川、須美川破堤(愛知県災害誌)。 7/労働組合期成会結成。 この年、仁王駐在所開設。豊松駐在所の前身となる。(「松平町誌」)  
  この頃、管理人の在所:愛知県三河国東加茂郡豊栄村大字東宮口:と称された。(曾祖父の購入したヨロゲに毛筆で記載)
 3/貨幣法(金本位制確立)公布。7/労働組合期成会(日本初の労働組合)発起人会開催。
 志賀潔、赤痢菌発見。尾崎紅葉、「金色夜叉」。
 10/朝鮮、国号を「大韓帝国」にする・・・清や日本と同じように自主性を示そうと「帝国」とした。  
1898 明治 31 名古屋市内電話開通。市内加入者200余人  額田銀行挙母支店設立。挙母町に農会設立。2/津島に片岡毛織設立(我が国初の毛織物製造)。4/1愛知県三部経済制復活。5/6名古屋鉄道の市内電車笹島ー県庁前の四区間開通。「広小路歩けば、電車が通る。チンチン御園か柳橋かすテンションか」と唄われた。5/23豪雨。乙尾、白川の堤防が決壊する。(高岡村誌)。6/4豪雨により枝下用水の堤防が決壊(挙母・長興寺・御船・西枝下)(西加茂郡誌)。10/11名古屋市内電話開通。市内加入者200余人。
 1/元帥府を置く。選挙法改正期成同盟会同盟会結成。4/朝鮮に関する日露協商調印。6/自由・進歩両党調印。憲政党結成。保安条例廃止。8/尾崎文相、共和演説事件。10/憲政党分裂。孝徳秋水・片山潜ら、社会主義研究会結成。12/地租条例改正(2.5%→3.3%)。岡倉天心ら、日本美術院創立。徳富蘆花「不如帰」。日本初の実景映画。
1899  明治  32  紀伊半島南西地震(M7.0)。

第二次恐慌起こる
 2/豊橋に「参陽新報」11/「新潮報」創刊。8/4武豊港が開港場に指定さる。貸本屋大惣廃業。この年、外人宣教師が名古屋で娼妓解放運動。勝海舟(幕臣・無役)没。  
 1/第二次恐慌起こる。2/東京ー大阪間長距離電話開通。3/北海道旧土人保護法公布、文官任用令改正。4/八幡製鉄、清国鉄鋼の輸入契約。6/大井憲太郎、小作条例期成同盟会結成。7/改正条約実施。第一回ハーグ平和会議終了(国際紛争の平和的処理条約調印)。10/普通選挙期成同盟会組織。「中央公論」創刊。土井晩翠、「天地有情」。  「北海道旧土人(アイヌ人)保護法」成立。
   「北海道旧土人保護法」
第一条
 北海道旧土人にして農業に従事する者又は従事せんと欲する者には
 一戸に付 土地 一万五千坪(注:およそ5ha)以内を限り無償下付することを得
  ・・・農業・医療・教育の面から「保護」
  ・・しかし耕さない土地は没収された(従来、アイヌ人は狩猟生活)。
 アイヌ人には、自由に所有する土地を選ぶことが出来なかった。

 1997年5月8日この法は廃止され、「アイヌ文化振興法」誕生
 ☆ 北海道の人口推移 ☆      NHK高校講座「日本史」
 年  1870  1877  1887(M20)  1897  1907  1912
 人 口  66,618  191,172  321,118  786,211  1,390,079  1,739,099
 干拓への恩典 (一部抜粋)  ・・・         「北海道移住問答」 北海道庁植民課編 より
 ○ 国有未開地の貸し下げを受けて開墾に成功したものに1000坪1円で払い下げ。
 ○ 払い下げの翌年から20年後でなければ地租や地方税は課せられない。
 ○ 徴兵令は函館、福山、江差
(えさし)以外は施行しない。      
  沖縄:土地整理事業の測量 ・・1899〜1903年 
  それまで農民が使っていた土地は、そのまま農民の所有地とし、地価の2.5%の税を納めさせた。王国時代からの制度・人頭税は廃止。
      イギリス、南アフリカでボーア戦争(1899〜1902)。・・多大な出費。 極東でロシアと対抗する際に日本の力を利用しようとした。(後の日英同盟)

                
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参 考 文 献 参 考 文 献
1 「理科年鑑」 15 「豊田市の石造文化財」 市歴史民族調査報告 市教委 2002.3
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    16 「国史大事典」 吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 17 「松平郷」  豊田市
4 「図説 愛知県の歴史」 河出書房 18 「豊田市七州城跡公園」   豊田市
5 「目で見る豊田・加茂の100年」  郷土出版社(1868〜) 19 「松平郷館」   豊田市
6 「新編 日本史図表」  第一学習社   坂本賞三 監修 20 「豊田の史跡と文化財」   豊田市教育委員会
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 21 「豊田の文化財」   豊田市教育委員会
8 「遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー」  中日新聞社 22 特別展「川をめぐるくらし」  豊田市郷土資料館
9 「県史23 愛知県の歴史」   三鬼清一郎 著   山川出版社 23 「その時 歴史は動いた」 NHKTV
10 「日本の名山」   作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 24 「日本と朝鮮半島 2000年」No.1〜9 NHK
11 「歎異抄」 梅原猛  講談社文庫 25 「松平町誌」 昭和51年1月20日発行 豊田市教育委員会
12 「古寺をゆく」  小学館ウィークリーブック 26 「豊田市史」 昭和56年3月31日発行 豊田市 
13 「日本史事典」  岩波書店 27 「道を極める −日本人の心の歴史」 魚住孝至著 放送大学教育振興会 
14 機関誌「かんなび」    愛知県教育関係神職協議会