☆ 世界遺産  韓国慶州 ☆
編集・管理人: 本 田 哲 康    
歴史:その頃                                               ご案内
貴方はアクセスカウンター番目のお客様です。     ようこそ!
  
 慶州・・・新羅国王の歴史のこと 
 朝鮮半島の南東部にある古都慶州(きょんじゅ)古墳の中に街があるといわれるほど、無数の墳墓が点在するには理由がある。
 慶州の街は紀元前から1000年にもわたり古代王朝・新羅の都だった。
     右写真は、金尺里(くむちょくり)古墳群の写真
 大小の国々が興亡をくり返した朝鮮半島で、

初の統一国家を実現したのは新羅だった。
 その時代をもたらした王の中に、初の女王がいた。それは、善徳女王である。
 新羅王朝から現在まで、途切れることなく歴史を刻み続ける古の都だった。
 (慶州歴史地区は2000年に世界遺産に登録された。)
 新羅千年の歴史は、南山
(ナムサン)に始まり南山に終わるともいえよう。
 慶州にほど近い聖なる山・南山(ナムサン)は、建国神話で新羅の最初の王がその麓に降臨したとされる。
 初 代 赫居世王 BC57~AD4
 第2代 南解王  2~24年
 第3代 儒理王  24~57年
 第4代 脱解王  57~80年
 第5代 婆娑王  80~112年
 紀元前1世紀、慶州平野の六つの村が連合し、国を建てたのが新羅の始まりといわれている。

 当初、斯盧
(サロ)と呼ばれた国が次第に勢力を拡大し、4世紀後半には国号を新羅とした。
 その頃、朝鮮半島は三国時代に突入し、新羅・高句麗・百済の三国がしのぎを削っていた。
 その時代は350年あまりも続いた。
 新羅は、百済・高句麗とは対照的に、中国との国交を殆ど持たず、中国式の碁盤の目のような都を新たに築くこともなかった。
 歴代の王たちは、国が三日月のような形であることから月城(ウォルソン)と呼ばれた。
 昔ながらの王宮に暮らした。
 かつての王宮は、今は、石垣の石だけが残る。
 肥沃な土地に恵まれ56代1000年にわたり王達は慶州を都とした。
 しかし、何故か新羅は中国の進んだ文化を敢えて求めなかった。
 ある大胆な仮説が根拠の一つとする出土品:象嵌琉璃玉頸飾である。  この首飾りのトンボ玉は明らかに古代ローマのものだというのである。ガラス玉の表面に文様や絵をはめ込んだ象嵌トンボ玉。
 外にも、ローマングラスの器など高句麗や百済には無いローマ世界との交流を示す品々が、慶州から出土している。
 はるか西方の文化を享受した新羅は、ローマ帝国が危機に立った5世紀後半以降、その外交方針を大きく転換した。

 6世紀はじめに仏教を受け入れ、中国との関わりを強めていったと、研究者はその説を主張する。

 
シルクロードの東の果てで、ローマ文化に彩られた古代王国、それは一つの仮説に過ぎない・・・・、が。 
神仙庵磨崖菩薩像 七仏庵磨崖石仏
 第23代 法興王 514~540年
第24代 眞興王 540~576年
第25代 眞智王 576~579年
第26代 眞平王 579~632年

第27代 善徳女王 632年即位

(ソンドック)   
 手がかりは、遺跡からの出土品と古文書に僅かにある記述だけである。
 後世の歴史書『三国史記』(12世紀編纂)によれば、7世紀新羅に朝鮮半島初の女性君主が誕生する。
 その名は善徳(ソンドック)女王。
 先の王に男子が無く、前例のない即位となった善徳女王であった。
 周囲には、「女が王では、近隣諸国から侮られる」との声が渦巻いたのであった。
 そうした内外の反発を、彼女はどのようにして克復したのか?
 金製冠

 
『三国史記』には、女王が霊的な能力を備え、予言を行ったエピソードが記されている。
 この善徳(ソンドック)女王の時代は、その後朝鮮半島の統一に乗り出す新羅が高句麗や百済に拮抗する国力を蓄えた時代でもあった。
 女王は、中国文化を進んで取り入れ、国を束ねる核として、仏教を手厚く保護し、自らも仏に帰依した。
 都には幾つもの寺を建立した。

 写真(上)は、霊廟寺
(ヨンミョウサ)の人面文軒丸瓦
 上の写真は、634年、善徳(ソンドック)女王が創建した寺である。
 国を代表する寺として、かつてその規模を誇った大伽藍も、石積みの塔などが、今、僅かに残るだけである。 →芬皇寺
(ブンファンサ)
 左写真は、
 慶州の山間に建つ寺・衹林寺(キリムサ)

 衹林寺(キリムサ)は、善徳(ソンドック)女王が建立してから1400年になる。

 その大寂光殿では、今も僧侶の読経の声が響く。(右写真)
寺に施された丹青(タンチョン)は、仏画や建物に用いられる五つの色は、水や大地を表し、国の平安を願うものである。
即位から12年後の643年、善徳(ソンドック)女王は技術の粋を集めた壮大な計画に取りかかった。(写真:乾漆菩薩坐像)
それは九重の塔の建設であった。その木造の巨大建築には、女王の切実な願いがこもっていた。 仏岩 磨崖塔
  聖なる山・南山(ナムサン)の裾野に広がる寺院跡。広大な敷地に礎石だけが残っている。
 皇竜寺
(ファンヨンサム)は、王が法要を行う国の寺であった。九重の塔は、この境内に建てられたのだった。→ 皇竜寺(ファンヨンサム)

 実は、塔の建築を始めた年、高句麗・百済の侵略に悩んだ善徳(ソンドック)女王は、中国の唐に軍事援助を要請した。・・・・が、しかし、その返答は侮蔑的なものであった。
  →基壇(九重の塔跡)
   「援軍を出すかわりに、唐の王室から新たな新羅王を立てる。」というのが、その交換条件であった。

 「何とか国を守りたい。」・・・・九重の塔は、正に女王の苦渋の祈りの塔であった。
 二年がかりで完成した塔は、文献に寄れば高さ80m、木造の塔としては世界屈指の高さを誇るものであった。→「三国史記」
 伽藍の中心で、天を突く九重の塔。陰陽(おんみょう)思想の陽を表す最大の数・九。  つまり、この塔には周辺のすべての国から災いを避けるという願いが込められたものであった。  建築学的に見ても九重の塔は驚異的なものであった。
 これは、「九重の塔は、現在なら30階建てに相当する高層建築です。その重みによる垂直方向の加重だけでなく、地震や台風による水平方向の荷重にも耐えうるように建設されたのです。当時と比べると、現代の技術力が劣っていると言わざるを得ません。木造で、九重の塔を作り上げたことは、非常に驚くべきことだと思われます。」と解説された。(国立文化財研究所 金 奉建(キムボンゴン) 所長)
  女王が作り上げたもう一つの驚異。
 それは、慶州市内に今も残るこの瞻星台
(チョムソンデ)・現存する東洋最古の天文台である。
 天体観測により暦を決定するためのものだった。事実、新羅では中国文化を取り入れた6世紀以降も、新羅独自の年号や暦が使われていた。
 或いは、王国の運命を占うために、星の動きを知る必要があったのかもしれない。例えば、水星や流星の出現は、異変の前触れであった。
  「玉座を去れ!」という唐からの侮蔑的な要求は、異変を引き起こした。
 新羅国内では、唐に反発する者と、それに同調する者が現れ、・・・・その対立は、ついに内乱へと発展するのであった。

 新羅は、善徳(ソンドック)女王の時代に、百済や高句麗に匹敵する力を蓄えた。
 しかし、その女王に唐が突きつけた要求に、内乱が勃発したのだ。
 唐に同調する中央貴族が、善徳(ソンドック)女王に退位を迫って兵を挙げたのであった。→石垣
 内乱の鎮圧に身を賭した女王には、王室を擁護する地方の豪族がそれに加わった。だが、そのさなか善徳(ソンドック)女王は世を去った。

 善徳(ソンドック)女王の死について、歴史は何も語らない。しかし、仏に帰依し国の発展を願った女王の祈願は後の世に伝わった。
 善徳(ソンドック)女王の死からおよそ20年後、新羅は高句麗・百済を破った。 ついに朝鮮半島統一を成し遂げた。

 統一の立役者は、新羅の内乱を納めた、王となった 武烈
(ムヨル)王と、その息子・文武(ムンム)王であった。
 文武
(ムンム)王陵は、半島の海辺にある海中陵だ。

 外交手腕を発揮し、唐との関係を改善した父の後を受け、息子は新羅と唐の連合軍を結成、統一を実現した。
 第27代 善徳女王 632~647年
 
注:645年、日本では蘇我入鹿が暗殺された。

 第28代 
眞徳女王 647~654年

第29代 武烈
(ムヨル)王 654~661年
第30代 文武
(ムンム)王 661~681年
善徳(ソンドック)女王の死からおよそ20年後、新羅は、ついに朝鮮半島統一を成し遂げた。
文武(ムンム)王陵:海中陵  南山(ナムサン)の麓にある離宮跡は、かつての王宮の遊興の場であった。
 歴代の王たちは、鮑
(あわび)の形を描く石の水に杯を浮かべて、歌を詠み舞を楽しんだ。
 しかし、同時にここは新羅王朝にとどめを刺す暗殺劇の舞台ともなった、鮑石亭
(ポソクチョン)跡である。
 統一後の新羅は、一部の王族が権力を独占した。
 9世紀以降、政治は腐敗し、各地で反乱が頻発した。 朝鮮半島の安定はもろくも崩れ去ったのであった。
 そして927年、南山(ナムサン)の離宮で宴会中の王が暗殺された。図は、線刻阿弥陀三尊象 第55代 景哀王  924~927年
第56代 敬順王  927~935年
  
高麗王朝 朝鮮統一
 その8年後、北部で勢力を伸ばした振興国・高麗に国土を譲り、新羅王朝はその歴史の幕を下ろした。
 新羅千年の歴史は、南山(ナムサン)に始まり南山に終わると言われる。 その記憶は、慶州の街に今も息づいている。

 ここは、古墳のなかに街があると言うような状況である。
 新羅千年の都は、王国の滅亡から更に千年を経て今も、尚、古の王家の物語を語り続けている。
                                               ご案内