「困ったことに、本当の努力というのは 決して他人には理解されないものだ。 それが理解されるのは勝ったときだけで、 しかし勝った時にはその努力そのものの美しさは 変質して別のものになってしまっている。 真の努力の成果は犠牲になったものの中にしかない。」
『夜明けのブギ−ポップ』 著者:上遠野浩平 発行:メディアワークス
人には様々な個性があること、それは当たり前のことですよね。
ところが、わかってないんちゃうか?と言いたくなることがあります。
それは、ある基準を満たしていないことを理由に、努力や我慢が足りないんだと決め付けることです。
例えば、あるテストで70点を取るために必要な努力は、個人それぞれの能力や資質によって違うんだということです。
例えば、転んでひざをすりむいたときの痛みの感じ方だって、十人いれば十通りです。
ざっと目を通せばだいたい頭に入ってしまう人もいれば、何度繰り返してもなかなか覚えられない人もいる。
敏感な人もいれば、そうでない人もいる。
得意不得意、興味や嗜好、経験の蓄積や性格、考え方・・・同程度の課題であっても、そのラインをクリアするのに要する努力や時間は、個人によって異なって当たり前なんです。
しかしその努力は目には見えない。数値にはならない。
評価するということの難しさではありますが、相手の個性に対する洞察をしないままに、「我慢が足りない」とか「怠慢である」とか決め付けてはいけないんです。
特に、自分にとってつらくなかったこと、自分が乗り越えてきたことについて、つまり自分の経験に基づいて判断するとき、そこにつまづいたり、立ちすくんでいる人に対する配慮を失いがちです。
自分にとって、「なんでもないこと」「あたりまえのこと」が、別の人にとっては大きな苦痛や恐怖を伴っていたりすることに、思いが至らなくなってしまうんです。感覚や能力が人によって違うことを見失ってしまうんです。
相手の人が感じている痛みがどのくらいのものなのか、それは想像によるしかないように思います。
自身の経験はあくまでも参考記録なんです。
人が他者を評価するには、表面に現れた結果に拠るところが大きくならざるを得ません。では正当に評価されることのない努力にはなんの意味があるのか?
結果を自分で受け止めるため、自分を納得させるためだと思うんです。
ことに挑む自分を奮い立たせるために、不安や怖さを乗り越える踏み台としてだと思います。
努力が評価されるのは、わかりやすい成果が出たときであり、そのときには「努力したね」「がんばったね」という言葉も、成果を得たこと、成果に結びつけたことへの評価や賞賛になってしまっていて、努力そのものへの評価ではなくなっているのではないでしょうか。
その人が、犠牲にしたもの、切り捨てたものの質と量しか、努力を測る物差しにならないのでしょうか・・・。